十四日目 宴会1
また砦の上の人間に呼び出されたあと。私は自室のトイレに向かって吐いた。げえげえ吐いた。大した食事を摂ったわけではないので、黄色い液しか出ない。
いくらか噎せて、息苦しさに涙がにじみ、その場で蹲った。
「うう……」
トイレは意外にも水洗だ。かつて疫病が流行したことから、河川を利用した下水道設備が整えられたとアルマくんは言っていた。
全てが水に流れていくからこそ、まだ安心することができる。中身が回収されるようなものだったら、この度重なる嘔吐についてまた呼び出されて事情を聞かれ、嫌味でも言われていただろうから。
――だけど、殺されかけたことに対しては、嫌味を言われなかった。「厄介事を持ちこんだ」とかなんとか言われるかと思ったのに。
こちらからは何も言わず、黙って様子を窺っていたのだが、本当に何も言われなかった。つまり、彼らはそれに文句を言う必要がなかった、ということだ。裏に事情があった、ということだ。
私が知らず、彼らが知っていて、それが彼らにとって都合のよい事情――つまり、私が知らない方がよい事情があった、ということ。
(何も考えたくない……)
色々考えると、また空っぽのはずの胃から、何かがせり上がってくる気がした。だからといって、何も考えないようにしようとすると、頭のなかでよく分からないものがぐちゃぐちゃとこんがらがって暴れる。
(気持ち悪い)
なんとなく嫌な予感はするのだが、それに対してどう行動したらよいのか分からない。危機感はあるが、対処の仕方が分からない。知識も経験もない。変に動いて目を付けられたら厄介だし、だからといってこのままじっとしていたら、恐らく――。
いざとなったら逃亡するしかない! と思うけど。
逃げたとして、私なんかが何処へ行けるというのだろう?
識字率が低いと聞いたとき、文字さえ読めれば、逃亡しても仕事くらい見つかるのでは……? と思い切って勉強も始めてみたが、想像以上に複雑だった。日本語を除けば英語くらいしか学んだことがない私にとって、ああも動詞やらなんやらがごろごろ変化するタイプの言語は、まず馴染むのすら大変だった。
考えれば考えるほど気が滅入って、落ち込んでしまう。
誰かに相談すればよいのかもしれない。が、誰に相談すればよいのか。
――ぱっと脳裏に浮かぶのはアルマくんだ。
私は本当に、アルマくんだけは信頼している。私に温かな手のひらを差し伸べてくれた人。荒唐無稽な私の身の上を信じてくれて、外出のために便宜を計ってくれたり、勉強を教えてくれたりした。先日は命を助けてもらって、看病までしてもらった。……まあ名前を覚えてくれてなかったこともあったが、私も彼の名前を省略して呼んでいるし、お相子だろう(たぶん)。
一応、今までずっと引っ付いていた身としては、彼のその行動が真心から来ているかどうかくらいは分かる、つもりだ。
アルマくんは真面目で落ち着いていて、親切で、優しい。相談したところで、変に告げ口されることはないだろう。
しかし、気が引ける。
なぜって、彼は一応監視役なのだ。私の行動を見張るのが、彼の仕事だ。彼の立場になってみたら、気軽に相談するのも難しい。私からあれこれ相談して、訴えかけて、それが重荷になって、板挟みになって。真面目な彼が、気に病んでしまったらどうしたらよいのか。
(……本当に、私が帰れたらいいんだけど)
この世界に来て二週間は経っただろうか。帰る手段は分からないままだ。見つからないのかもしれない。
ここには優しい人もたくさんいる。アルマくんみたいに親切な人も。それは分かっている。
だけど今は、嫌な人達の視線だけが痛い。
今日は士気向上のための宴会が開かれる。この砦で蛮族との争いに備える、全ての者達への慰労会である。
あらゆる垣根を取っ払った無礼講で、戦闘員・非戦闘員問わず参加することができ、天地がひっくり返ったみたいな大騒ぎだとか。
私は部屋に備え付けられた姿見で、自分の格好を確認する。
飾り気のない質素な鏡だが、このサイズの物はこの辺境の地でなくとも、非常に貴重なのだと聞いた。それでも私の知る物よりも精緻でないのだろう、その鏡像は幾分歪つに見えなくもない。
そこには、いつもの私が立ち尽くしている。いつもの制服姿。黒いセーラー服に、鮮やかな黄緑のリボン。まだ新しい規定のローファー、黒色のタイツ。
「……」
別に衣装を用意されなかったわけではない。私にはこの土地特有の、鮮やかな刺繍が施された衣装が用意されていた。
砦の上層部の人から、やたらと回りくどく、かつ有無を言わせぬ強い口調で勧められながらも、私はそれを固辞した。あまり事を荒立てないように淡々と、今のような全くの無表情で。
――じろじろと遠慮のない、それでいて、こちらの身体を値踏みするような視線を思い出す。
『まともな服を着れば、その貧相な体もまともに見えるぞ?』
鳥肌が立つような、気持ちの悪い声だった。吐き気がするほどに。いや実際その後すぐ吐いたのだが。
やがてドアのノックとともに、私を呼ぶアルマくんの声が聞こえた。
気付けばスカートの裾を握り潰していたらしい。
私は裾に寄ってしまった、みっともない皺を払ってから、目を閉じ、一度深呼吸をした。
最後にまた『私』の姿を確認してから、彼に努めて明るい声で返事をした。
砦の人間は男性も女性もよく飲んだ。あくまでも私から見て、だから、この世界基準でどうかは不明だ。
ずらりと並んだテーブルは料理の油でべとつき、酒精と熱気で澱んだ空気は奇妙に軽い。
浮かれたみたいにきょろきょろしていると、アルマくんに窘められた。彼はいつも私の傍にいるし、それが当然のことだと思っているらしかった。
人が床に伏せているのを避けながら、私達はやっと空いていて、かつ比較的落ち着いた空気の席に着くことができた。
「全く、面倒な酔っ払いは嫌だねぇ。ね、アルマくん?」
「そうだな」
アルマくんは小さく頷いた。そう言う彼も、先ほどからかなりのペースでグラスを傾けている気がするが、その表情にも言動にも変化はない。
日本の基準で、であるが、一応未成年である私は、もちろんジュースだけをもらった。小さく赤い林檎から搾ったという自慢のジュース。すでにぬるいそれを、咽喉が渇いていた私は一気に煽った。少し甘味が強すぎる気もするが、とても美味しい。
「いい飲みっぷりねぇ! もう一杯どう? よし、『北聖の言葉に乾杯』!」
なんて給仕の女性が笑ってくれるのが変に嬉しくて。調子に乗った私は、何度もお代わりをした。
そして私が調子に乗れたのは、そこまでだった。
しばらくのあと、私は自分がやたら笑顔を浮かべてしまうことと、本当にどうでもいいことを口走っていることを自覚した。
奇妙な浮遊感に目を丸くして、椅子から立つとバランスを崩してしまうことに首を傾げて。
そこから、酔ったのだと、自覚するのは早かった。
「お、」
「お?」
「お酒なんて、言ってない……」
「だからそれはジュースじゃないの、」という給仕の女性の笑い声を最後に、そこからの私の記憶はもう定かではない。
呻くように突っ伏してしまった伊吹の手からグラスを取り上げ、アルマ・アルマットは息を吐いた。あまりにも飲み干すペースが速いから不安に思っていたのだが、やはり限界がきたらしい。
しかし、「お酒なんて言ってない」とはどういう意味なのか。アルマ・アルマットはしばし首を傾げ、
「――こいつの世界じゃ、軽度のアルコール飲料をジュースとは言わないらしい」
「じゃあなんて言うのよ」
「酒?」
しばらくの沈黙の後。「まさかね」、と、給仕の女は肩を竦めた。
酒の味なんてほぼしない、そんなモノを酒と呼ぶはずがない。
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