十四日目 宴会2

「あるまくんてさー、かみのけとか青いよねーっ。あおー!」


 面倒な酔っ払いが出来あがった。

 あまりにも予想通りというべきか、ここまでくると言葉も無い。アルマ・アルマットは切ったリンゴを摘まみながら伊吹を無視していた。――『異世界』のことなど大声で叫ばれたら、さすがに引きずってでも外に連れていかなければならないだろうが、その心配は無さそうだった。酔ったとはいえ、さすがにそこまで軽率ではないだろう。

 そんなことを考えつつ、無表情でもぐもぐリンゴを咀嚼するアルマ・アルマットの腕を、大層不服げに目を釣り上げた伊吹が引っ掴んだ。彼はされるがまま、彼女にがくがく揺さぶられた。


「おいこらっ! きーてんのかあるま! あるまくん!? こら!」

「聞いてない」

「ほらもーこれだからあなたって人はーっ」


 やり過ごすにしても、伊吹の揺さぶりはしつこかった。

 アルマ・アルマットはその手を軽く払いのけてから、ようやっと彼女に目をやった。酒気を帯びた赤い頬のせいか、いつもより幼く見えた。荒いというより大雑把な語気や、気の抜けただらしない姿勢のせいで、まるで少年のようである。

 酔った彼女自身がどう思っているのかはともかく、華奢な身体と相まって、とにかく怒鳴ろうが凄もうが、欠片も恐ろしくないのだ。

 アルマ・アルマットは溜息を吐いた。


「だからアルマじゃない。アルマ・アルマットだ」

「あるまるまー」


 けらけらと締まりの無い笑い声に、何が楽しいのか勢いよくテーブルを叩く腕。

 アルマ・アルマットはさっさと彼女の手元にあったマグカップを遠ざけた。遠くで聞こえる馬鹿騒ぎと、ガシャンガシャンと連続する破壊音から鑑みるに、今さら食器の一つや二つ割れたところでどうという事も無いだろうが、破片で彼女が怪我でもしたら大事だ。

 叫ばれたアルマという単語に反応したのか、単純に酔っ払いの気配に惹かれたのか。周囲の人間も、やがて伊吹とアルマ・アルマットの会話に混ざり始めた。


「なんだい、イブ、アンタもなかなかご機嫌じゃ……アンタ、ジュースで酔ってんの?」

「ウーン。私のしってるじゅーすじゃない。ね、あるまくん」

「おい、アルマ・アルマットだろ。ちゃんと全部呼ばないと分かり辛いじゃねぇか」

「……」


 会話を横に聞きながら、アルマ・アルマットは無言のままグラスを傾けていた。


「だいたいアルマ・アルマットが『勇者』の……」

「もーっ長ったらしい!」


 伊吹は両拳で思い切りテーブルを叩いた。

 先ほどのアルマ・アルマットの行動は意味を成さなかった。その衝撃で誰かの薄いグラスが大きく傾いたかと思えば、そのまま呆気なく床に落ちて割れた。かしゃんと澄んだ儚い音が、不思議とスローになってアルマ・アルマットの鼓膜を打った。

 照明で赤に橙にと鋭い縁をきらめかせる破片が、立った伊吹の革靴にじゃりりと踏み締められた。


「私はっ!! アルマでいいの!!」


 彼女の声はよく響いた。しかししょせん酒の席、その程度の影響しかないような、誰もそう本気で聞きやしない発言だった。遠くの誰かの下手くそな口笛の方が、よほど人々の気を惹いただろう。近くに居たある者は閉口し、ある者は適当に相槌を打ち、ある者は意味無く笑った。

 アルマ・アルマットは。


「イブ」

「んん?」

「飲みすぎだ。少し出よう」


 先ほどとは打って変わった素直な様子で、伊吹は小さく頷いた。そしてアルマ・アルマットに支えられ、どこかおぼつかない足取りで去っていった。

 残された者達は思いのまま喋った。最早姿も見えない二人に対して、微笑ましいと茶化す者もいれば、聞くに堪えない想像をめぐらす者もいた。


――アルマ・アルマットは笑っていた。


 誰かはそんなことを呟いたが、その言葉はあっという間もなく濁った空気に沈んでいった。誰が発言したのかも、この乱痴気騒ぎの中では取るに足らない問題だ。

 彼らはよく飲み、よく笑い、明日のわが身を語ったり、かつての記憶を捏造したりした。くだらないゲームに興じる者もいれば、力比べに息を巻く者もいる。

 北の夜は、熱く長い。




「出よう」と口にしたアルマ・アルマットだが、彼が伊吹を連れて向かった先は、砦の外ではなく、上階であった。喧騒から離れたそこは、アルコールの回った頭も冷えるほどに静かだった。

 暗闇のなかでも迷いのないアルマ・アルマットの足取りに、伊吹はおっかなびっくり付いて行く。


「すごいね、アルマくん」

「どうした?」

「あなたには何が見えてるの?」


 ふと伊吹の口から零れた何気ない問いかけに、アルマ・アルマットはその動きを止めた。ぶつかりそうになった彼の背中を避けて、伊吹はきょとんと首を傾げる。


「こんなに暗いのに、全部見えているみたいにすすんでくから」

「そうか」

「そーだよ。なんかごめんね」

「……俺には別に何も見えていないよ」

「そっかぁ。暗いもんね」

「ああ。……手を貸そう」


 そういって引いた伊吹の手はアルマ・アルマットにとっては非常に冷たかったし、逆に伊吹にとってアルマ・アルマットの手はいつも通りに温かかった。


 アルマ・アルマットは誰もいない階層のさらに端、窓の傍に置かれたテーブルへと向かった。伊吹はしばらくきょろきょろしていたが、彼に促されると、遠慮がちにその席に着いた。


「……静かだね、ここ。何もないって感じ」

「ああ。あまり人目につかないし、しばらく休むといい。俺も独りになりたいときによく来るんだ」

「この砦にしては、なんか珍しいね……」

「そうだな。上役の私室が一つ上の階層にあるから、下の奴は此処に来たがらない。上役も上役で、この辺をうろうろすることもないから」


 上の者達の領域でも無ければ、下の者達の領域でも無い。自然と境界線のような役割を果たすようになった、中途半端な階層だった。このように狭いコミュニティでは、これくらい大胆な区切りのある方が、秩序の維持には役に立つ。

 アルマ・アルマットはそんなことを説明したが、平素ならともかく、今の伊吹にうまく伝わるはずもない。


「……つまり、アルマくんの秘密の場所?」

「そうかもしれない」


 曖昧な答えだった。伊吹はぎこちない笑みを浮かべてから俯いた。彼女は酔いこそ醒めていないが、気分はずいぶんと落ち着いているようだった。

 奇妙な沈黙が二人の間に幕のように降りた。どちらもその正体を掴みあぐねていた。

 アルマ・アルマットが俯いたままの伊吹をじっと見つめると、彼女は居心地悪げに身動ぎした。


「見ないでよ。アルマくん」

「どうして。酔ってるから?」

「……そうだよ。私、アルコールなんて飲んじゃった。未成年なのに。法律違反だ。ジュースだって思ったのに」

「すまない、俺たちが軽率だった。しかしこの国に未成年の飲酒を罰する法はないんだ、そう気に病む必要は、」


 アルマ・アルマットは口を噤んだ。

 膝の上で握っていた伊吹の拳に力が籠り、肩が震える。


「あなたには、」


 咽喉の奥底から絞り出されたような声。何かを堪えるように、伊吹の瞼がきつく閉じられた。睫毛に沿うように涙が滲む。


「アルマくんには分かんないよ……!」


 ぽろぽろと、涙が零れ落ちた。彼女の膝に散ってスカートを濡らす。

 何を、というアルマ・アルマットの声は聞き取り辛く擦れていた。伊吹は続ける。


「さっきの、私がこの世界の人と、ちゃんと意思疎通ができなかったこととか、そういうのだよ……!」


 伊吹は手の甲で目元を抑えるが、それでも零れ落ちる涙は止まらない。彼女は全てを吐き出すように言葉を続ける。悲痛な声はがらんとした空間によく響いた。


「私がこの制服を着てる気持ちだとか、頑張って今の学校に入ったこととか、殺されそうになったこととか、日本に帰る方法も見つからないことだとか、偉い人達の気持ち悪い嫌味とか、そういうの全部、ぜんぶっ……」


 その先は嗚咽で言葉にならなかった。伊吹の中でも、続く言葉は用意されていなかったのだろう、恐らく。

――アルマ・アルマットには分からなかった。本当に、何もかも。彼女が泣く理由も感情を爆発させた理由もこんなにも苦しげな理由も、いつも全てを笑いながら飄々と流していた理由も。アルマ・アルマットには分からなかったのだ。

 彼は何も言えないまま伊吹を見つめた。彼女はそれから、ただひたすら泣き続けた。




 やがて伊吹は泣き疲れたように眠ってしまった。酒のせいだろう。明日は二日酔いに違いない。

 アルマ・アルマットは恐る恐る手を伸ばすと、そっと彼女の涙を拭った。貴族のように傷一つない、柔らかな肌だった。伊吹はかすかに身動ぎした。

 涙が一通り渇くと、アルマ・アルマットは伊吹を横に抱いて、部屋に連れていった。ほっそりした彼女の体は、相変わらず不安になるほど軽かった。痩せたか、と一瞬思ったが、そこまで彼女の身体を観察していたわけでもないため判断がつかない。


 伊吹に宛がわれた個室は比較的広い。排泄などの所用を、全てこの部屋一つで賄えるようになっている。窓は無く、壁は厚い。ドアには厳重な鍵をかけることができる。

 ただの客人の部屋ではない。身分ある捕虜を閉じこめておくための部屋だ。伊吹はそれを知らない。自分の置かれている状況はさすがに察しているかもしれないが、この部屋に違和感を覚えた様子もない。彼女はよほど平和な国から来たらしいから、まさかそのような場所に自分が通されるなんて、考えもしないに違いない。


(――だけど頼むからそのまま、何も分からないままでいてくれ)


 横たえた華奢な体がシーツに沈む。アルマ・アルマットの縋るような胸中も知らず、彼女は本当に、無垢な子どものような顔で眠っている。


「おやすみ、イブ」


 声をかけるが当然返事は無い。しかしそのことに安堵する。

 アルマ・アルマットは、泣いた子どもにどう手を伸ばせばよいのか知らなかった。自分が他人から、何かしてもらった覚えもないためだ。

 次からはせめて、ハンカチくらいは用意しようと思った。

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