痛みと快楽を分け合うもの

 心美ちゃんの言葉に、僕は心臓が早鐘のようになるのを感じた。

 まずい……口が滑った。


「あ、それは……ゴメン。日帰りの出張が急に入って、施設の近くに行ったんだ。で、ふっと思い立って。心美ちゃんと仲良くなりたくて、施設の職員さんに君の事を聞きたかったんだ。その時に知り合って……」


 話しながら、僕は心美ちゃんの顔を見ることが出来なかった。

 それは子供の頃、宿題を忘れて先生に対して「体調不良で出来なかった」とすぐに分かる言い訳をしていた頃を思い出させた。


「それなら3人で行けばよくない? なんでパパ1人で行くのかな。それってママや私を信じてくれてないの?」


「……ゴメン」


「ねえ、何でずっと下向いてるの? 私を……見て」


 その言葉におずおずと心美ちゃんの顔を見た僕は、息を呑んだ。

 心美ちゃんは下唇を噛んでいたのだろうか。

 薄っすらと血が滲んでいて、それはまるで……口紅を薄く塗ったかのように、朱に染まっていた。


「ママが……来ちゃうね」


 心美ちゃんはそう言うと、ゆっくりと立ち上がり僕の手を掴んで、ホームセンターの専門家用の園芸肥料等を置いてある、広い区画に歩いていった。

 30を超えた大人が中学生の女子に手を引かれて歩いている。

 それは傍から見ると滑稽としか言いようがないものだったが、僕は目の前の少女が自分なんかよりも遥かに成熟している様に感じており、驚くほど自然にその行為を受け入れていた。


 なんか、安っぽいドラマのワンシーンに出てきそうだな……

 そんな場違いなほどのんきな事を考えていると、周囲に人が居ない倉庫の端に着いた。

 彼女はずっと背中を向けたままだ。


「あ、あの……心美ちゃん。ここで何を……」


 そう言いかけた時、心美ちゃんは突然振り向くと僕の頬を挟むように持ち、自分の顔に近づけた。

 

「パパ……前に言った事覚えてる? 愛し合う家族のすべき事」


 え? ……愛し合う……

 そういえば……何か言ってたような。

 だが、はっきりとは覚えていない……


 心美ちゃんは薄笑いを浮かべると囁いた。


「もう一回だけ教えてあげるね」


 そう言うと心美ちゃんは自分の顔を僕の顔に近づけた。

 これは……ダメだ!

 でも、顔を動かすことが出来なかった。

 それは物理的に、と言うよりも彼女の目の暗い輝きに心を鷲づかみにされたかの様に引き寄せられたからだった。 

 そして……彼女の唇が……触れ……


 次の瞬間。

 心美ちゃんの歯が僕の下唇をくわえ、そのまま強く食い込んだ。

 鋭い痛みが下唇に走り、驚いて彼女から顔を話した僕は唇から流れる血の事を忘れた。


 心美ちゃんは目を見開いたまま涙を流していた。


「愛し合う家族は苦痛も快楽も分け合う……でしょ? これで私と一緒」


 心美ちゃんは涙を流しながら続けた。

 その表情は悲嘆なのか怒りなのか哀れみなのか、それとも嘲りなのか分からなかった。


「ねえパパ。……まだ痛いの、この腕。ホーム長さんを追い払ったとき。パパを守りたかったんだよ。ねえ、あの日の事をママにも……さやさんにも言ってないもんね。嬉しかった。これからも言わないよね? もちろん私も言わないよ。あの日の事も、さやさんの事も……さっきのキスの事も」


 僕は背中に冷たいものを感じながら、心美ちゃんを見ていた。

 この女性は……誰だ?


「私たちは苦痛も快楽も……秘密も分け合ってる。どっちかが裏切ったら……おしまい。全部おしまい。パパの事は絶対に守ってあげる。ずっと愛してくれるなら」


 僕を……守る?

 その言葉に妙な引っ掛かりを感じたが、目の前の心美ちゃんの姿に魅入ってしまい、すぐに脳裏から消え去った。


「でもね……パパが私を信じてくれなかったら……」


 そこで心美ちゃんは突然ニンマリと笑うと、僕の頬にキスをして言った。


「戻ろうか。おなか空いちゃった。あ、それとさ……私の事、知りたいんだよね」


「い、いや……それは……」


 戸惑いながら言う僕に、心美ちゃんは薄く微笑むと言った。


「これからゆっくり教えてあげるよ。だって私たち……


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 その夜。

 ホームセンターから帰った僕は頭の重さが酷く、熱が38度あったためベッドで休んでいた。

 香苗に熱を移すわけには行かないので、リビングで寝ようと思ったのだが心美ちゃんの提案で香苗は心美ちゃんの部屋で寝る事となった。


 ここ数年熱なんて出した事もなかったのに……

 やっぱり最近色々ありすぎたせいかな。

 

 ベッドの中で目を閉じたが、心美ちゃんの唇を血に染めた顔が脳裏から離れない。

 あの子は……一体。

 あの執着心や独占欲は、養護施設で親と離れていたから……なんて事では説明できない。

 やっぱり……篤君と連絡を……


 そう思っていると、突然携帯のバイブが作動し軽いモーター音を響かせた。

 誰だ……

 朦朧とした頭で画面を見た僕は、一気に意識が覚醒した。


 着信はさやからだった。


「……もしもし」


 さやの声を聞いて、僕はただならぬ自体である事を感じた。


「ねえ……卓也。今1人?」


「ああ、熱が出ててね。心美ちゃんと香苗は隣の部屋に居るよ」


「……一つだけ約束して。今から話すこと聞いても絶対に声を上げたらダメ。小声でしゃべって。ラインで……と思ったけど、万一誰かに見られたらまずいの。……約束して」


「おい、何の事言ってるんだ? 約束するから早く言えよ」


「あと……ねえ、絶対心美ちゃんには聞かれちゃダメ。ねえ、ドアの外に本当に居ないよね?」


「大丈夫だから……早く言えよ」


「ごめん、無茶は分かってる。でも……一旦外に出れる? どうしても聞かれてもらっては困るの」


 電話の向こうのさやの息遣いが荒い。

 その緊張感が伝わってくる。


 仕方なく、職場からの急な電話だから、と言ってエレベーターホールまで出た。

 頭がくらくらする。

 一体何がどうなって……

 しばらくしてさやの淡々とした声が聞こえた。


「心美ちゃん……高橋心美。私、どうしても気になったから彼女の事……興信所に依頼したの」


「興信所……探偵って事か?」


「そう。そしたら……2日前、報告書が来て……『高橋心美』の。産まれは福岡県飯塚市。でも……そこから6歳までの記録がない」


「記録がない……ってどういうことだよ」


「だから、保育園に通ったとかどこに住んでるとか。出生届を出してから6歳……あの子が施設に入るまでの間、完全に空白なの」


「空白……」


「それだけじゃない。心美ちゃんの母親の名前は?」


「え? 確か……高橋良子たかはしりょうこじゃないのか」


「いないの」


「は?」


「高橋心美の母親……良子さんは、心美が生まれてすぐ事故で亡くなってる。父親と一緒に。……心美ちゃんに本来


「……なんだ……それ。じゃあ施設に預けたって言う心美ちゃんのお母さんは……誰なんだ? 心美ちゃんは6歳まで……どうしてた?」


「興信所の人も調べられなかった。『ここまでしか無理だ』って。ねえ……怖い。 元気になったらでいい……来て。会いたい」


【第一章 悪魔を憐れむ歌】 完


【第二章 十字路の悪魔】 へ続く

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さよなら、悪魔 京野 薫 @kkyono

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