そんなのありえない

 仙道ホーム長……心美ちゃん、そして僕。

 その恐らく一生忘れる事のないであろう出来事の後、病院に行き心美ちゃんを診てもらったところ、やはり骨にひびが入っていたらしい。


 医師にはそれらしく事情を話し、恐れていた詮索もされる事無く彼女の左腕にはギプスが着けられた。

 香苗には流石に一連の事を話すわけには行かず、外で転んで手をついた時に怪我したのだと二人で口裏を合わせたが、後ろめたさは大きい。

 心美ちゃんにしても、夏の暑い盛りなのにギプスのせいで湯船に入れず、シャワーや身体を拭く事に留まっていることが申し訳ない。


 そんな事を考えていたせいか、その夜は眠る事ができずベッドでぼんやりと天井を見つめていた。

 隣には香苗の寝息が小さく微かに聞こえる。


 僕は……父として、彼女に何がしてあげられるんだろう。

 そんな事を考えてしまう。

 あの時。

 仙道ホーム長からの脅迫の時点で、彼女にもっと違うことをしてあげられていたら、何かが変わっていたのかも知れない。


 そんな後悔と共に、心美ちゃんから相談を受けて以降の流れを思い浮かべる。

 どうすればもと彼女の心身の傷を減らして…… 


 その時。

 ふと、その記憶の流れの中に妙な違和感を感じた。

 なんだろう?

 記憶がボンヤリしていてはっきりと形を取っていないが、確実に感じる異物感。

 

 

 そう感じるくらいの違和感。

 だが、それがハッキリしない。


 一度気になると、その異物は頭の中を転がる石のように存在感を増していく。

 ちょっと頭を冷やそう。


 そう思いながら香苗を起こさないようにそっとベッドを出ると、冷蔵庫からブラックコーヒーのペットボトルを出すと、そのままベランダに出る。

 真夏と言えど、夜の風は心地よい。

 15階の部屋もこういうときには本当にありがたい。


 風に吹かれながら手すりにもたれてボンヤリしながら再度、先ほどの違和感について考えを巡らす。

 もうちょっとで分かるかも……

 やっぱりさやに話してみるか。

 

 その時、フッと渡部篤君のことが浮かんだ。

 そうだ、彼にラインのIDをもらっていたんだ。


 11時か……さすがに寝てるから、今は登録だけにしておこう。

 彼にも心美ちゃんについての話を聞きたい。


 そう思いながら篤君のIDを入力していると、背中から「パパ」と声が聞こえたので、驚いて振り向いた。


「どうしたの? 幽霊にでも会ったみたい」


 そこにはパジャマ姿でしゃがみこんで居る心美ちゃんがいた。 

 僕は慌てて篤君からのメモと入力中の携帯をポケットにしまうと、何気ない風を装った。


「なんでもないよ。……眠れなかったの?」


「うん。……左腕が痛くて。パパは何してたの? ラインに何かやって……あ、浮気だ!!」


 いたずらっぽい笑顔で話す心美ちゃんに、僕は大げさに手を振った。


「違う違う! 職場の新しい男の子から教えてもらったんだ。入れるの忘れててさ」


 心美ちゃんは目をわずかの間細めていたが、すぐにニッコリと笑った。


「良かったね。瀬能さん……パパの後輩さん。あの人言ってたもん。『うちの部署は男の社員なぜか採らないんだよ。女ばっか』って。男の人増えたら、お仕事しやすそうじゃん」


「アイツ……君にそんな事言ってたのか」


「うん。瀬能さんすっごくいい人だね。色々教えてくれた。パパの事とか、お仕事場の事とかお話ししてくれて楽しかったよ……また会おうね、って言ってくれた」


 その言葉に僕は何故か背筋がぞっとした。

 それ自体、活字にすれば特に問題のない言葉のはずなのに。


 今度、アイツに釘刺しとかないと。

 娘とはいえ部外者なんだから、職場の事を話すなんてありえない。


「……それは良かった」


「ねえ、パパ。ちょっと座らない? ここで」


「ああ……いいけど」


 言われるままに僕は心美ちゃんの隣に座った。

 やはりシャワーだけでは充分ではないのだろうか。

 心美ちゃんからは仄かに汗の臭いがする。

 だが、それは決して不快ではなかった。


「ゴメンね。その……臭……くない、かな?」


 俯いて話す心美ちゃんに僕は笑顔で首を振った。


「全然。言われるまで気付かなかったくらいだよ」


「ありがと……やっぱりパパ、優しい」


 そう言うと、心美ちゃんは僕の肩に頭をもたれさせた。


「私……汚くない?」


「さっきも言っただろ。言われるまで……」


「違うよ。が」


 僕は冷や汗が吹き出るのを感じながら視線を泳がせた。

 なぜ、動揺してるんだ。自分は……


「パパ? 凄い汗……お熱?」


「え、いや……ああ、そうかも。疲れがたまってるかな」


 しどろもどろになりながらそう言うと、心美ちゃんは僕のまぶたに手をかざすと言った。


「目……閉じて。おまじないしてあげる」


 おまじないって……

 訳が分からないまま、心美ちゃんの手のひらに動かされるように目を閉じてしまった。

 そして彼女の手はそのまま僕の額の髪を上に上げて……次の瞬間、彼女の額が僕の額に着くのを感じた。

 まるで、子供の熱を測る母親のように。


 慌てて目を開けた僕は息が止まりそうになった。

 いや、実際呼吸が出来なかった。


 目の前には心美ちゃんの大きく透き通ったアーモンド形の瞳が、指一本分の距離にあった。

 彼女は目を開けて僕の瞳を見ていた。

 心美ちゃんの息遣いが肌全体で感じる。


 心臓の音がはっきりと耳に飛び込んでくる。


 心美ちゃんは可笑しそうに目を細めた。

 その動きさえも意識が吸い込まれるようだった。


「パパ……ドキドキしてるの? 音……凄い」


 そう言って彼女の右手が僕の左胸に触れる。


「ふふっ、おでこ熱いね。やっぱり……お熱あるのかな?」


 からかう様な口調で言った後、心美ちゃんはポツリと言った。


「私の事……許してくれる?」


「あの時のこと? もちろんだ」


「私、綺麗かな? それとも汚れてる?」


 心美ちゃんの言葉に僕は驚くほどスムーズに口が動いた。

 

「君は……綺麗だよ」


「信じていい?」


「ああ」


「……嘘じゃないよね」


「嘘じゃない」


「嬉しい」


 その言葉と共に、心美ちゃんの瞳がさらに近づいてきた。

 まるで宝石のようなアーモンドの瞳。

 だが、僕は魔法にかかったように動く事ができない。

 

 その時。

 

 部屋のドアがガチャリと開く音が聞こえ、心美ちゃんの瞳は一瞬、大きく見開かれたように見えたが、すぐに離れた。


「オッケー! パパ、熱は無いよ。安心して」


 心美ちゃんの声の後、すぐに香苗の寝ぼけたような声が聞こえた。


「……え? どうしたの? 卓也、熱出たの」


「ううん。冷や汗かいてたから大丈夫かな、って心配でおでこ触ってみたの。でも大丈夫そう」


「ならいいけど……心美ちゃんに熱移すのは勘弁だからね」


「……あ、ああ。気をつけるよ」


「じゃあ、パパにお熱移される前に避難するね。お休み」


 そう言って心美ちゃんは、部屋に帰っていった。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 翌日の夜。

 僕はさやのカフェにいた。


 言われたとおり19時以降。


「なあ、そもそも何でこんな時間を指定する? 前はそんな事言ってなかっただろ」


「……あなたもその方が話しやすいでしょ」


 無表情で僕を見るさやの様子に、内心焦りを感じながらアイスコーヒーを飲んだ。

 コイツ、こんな感じだったっけ?


 だが、今回来た目的……仙道ホーム長の件と、そこで感じた自分の違和感の事をさやに一通り話して聞かせた。

 

「で、なぜか思い返すと妙な違和感を感じちゃってさ……おい? どうした?」


 僕は途中で言葉を止めた。

 カウンターに立っているさやは顔をこわばらせたまま、僕をじっと見ている。


「ねえ……それっておかしくない?」


「ああ、おかしいよ。だから、それが何なのか……」


「分からないの? ねえ、心美ちゃんが見せた画像……それって


「いや、だから仙道ホーム長が撮って脅して……」


「なに言ってんの? それはありえない」

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