さよなら、悪魔

京野 薫

第一章:悪魔を憐れむ歌

出逢い(1)

 僕はバスタブに浮かんだまま動かない手足をジッと見ていた。

 

 まるで壊れた人形の部品のように浮かぶその手足。 

 そこから滲む血は想像よりも澄んだ赤だった。

 絵の具みたいに現実感の無い赤。 


 それは明らかに生命では無い。

 ただの死体……肉の塊だ。

 でも不思議と恐怖感は無い。

 後悔も無い。

 あるのはただ……開放感だった。


 まるで学生時代、テストが終わった後に青空を見上げた時のような。

 まるで仕事終わりにオフィスを出て、外の空気を吸った時のような。

 そんな心を綺麗にしてくれるような澄んだ心地だった。


 僕は目の前の彼女だった物を見て……ため息をついた。

 そして、なぜだか1年前の夏の日を思い出した。

 

 あの日からか。

 色々始まった……いや、終わっていったのは。

 あの養護施設で……柳瀬心美やなせここみと出会ったあの夏の日から。


 あの日の焼けるような夏の日差しは僕の「普通」も溶かしていったのかな?


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


「ねえ、ゴメン。また……もらっていい? それ」


「ん? ああ、いいよ。ってか、飲み過ぎじゃ無い? お腹大丈夫かよ」


 僕はからかうように助手席に座っている妻の香苗かなえに言うと、彼女は唇を尖らせて無言で僕の持っている麦茶のペットボトルを奪い取った。


卓也たくやは平気なの? ってかなんでそんな落ち着いてんのさ。私たちの人生の転機なんだよ!」


「ん、まあ今更騒いだって仕方ないでしょ。もうさいは投げられたんだから。あそこでもう待ってるわけでしょ? 僕らの家族になる子は」 


「……それ、言わないで。また緊張してきた」


「冗談だろ? それ以上緊張したら倒れるぜ。一緒に暮らす初日で母親が気絶なんて洒落にならないって」


 僕はそう軽い口調で言いながらも、自分がベッタリと手汗をかいているのを自覚していた。 喉も酷くカラカラだ。

 そう、僕も彼女の事を言えない。

 でも、僕まで緊張してるなんて言ったら香苗は本当に倒れかねない。


 僕らにとって人生の転機になる日。

 間違いなく死ぬ間際になっても忘れないであろう日。


 僕ら夫婦は養子を迎える。


 大学を卒業してから2年後に結婚した僕らの間には、7年経っても子供が居なかった。

 母子家庭で育ち、母親が飲食店を経営していた香苗は子供の頃のかなりの時間を1人で過ごしており、子供のいるにぎやかな家庭を強く望んでいた。


 僕はそこまで子供を望んではいなかったけど、そんな香苗の希望を受け入れ不妊治療も長い間してきた。

 けど、それは結局多額のお金と僕らの心を削るだけだった。


 その結果、色々と話し合って縋るように選んだのは「特別養子縁組」だった。

 子供の福祉のため、15歳未満の子供を引き取って養育する制度。


 でも、僕らが望んだのは……香苗は自分の夢のため。

 僕は香苗の心の安定のためだった。

 今のままでは香苗の心が壊れてしまう。

 そんな焦りからだった。


 でも、もちろん子供は全力で愛し、幸せにする。

 僕も香苗もそこは共通している。

 

 実際、養子縁組における審査はもう1度やれと言われたら、どんなにお金を積まれてもお断りしたいほど厳しく徹底しており、犯罪者の取調を受けたとしたら、こんな風かな? と思うほど僕ら夫婦の資質を丸裸にされた。

 でも、僕らはお互いの、自分のために乗り越えて今日を迎えた。


 そんな感慨とこれからの生活への途方もない緊張感を感じながら、これから引き取る子供の事を思った。

 

 高橋心美たかはしここみ


 14歳の彼女を養護施設で初めて見たとき、思わず目を見開いた。

 一言で言うと「目を離せない美しさ」だった。

 切れ長の大きな瞳はこちらを丸裸にするかのような聡明な光をたたえており、小ぶりだが形の良い唇も。

 肩まで伸びた髪も。

 全てが絶妙なバランスで強烈な魅力を放っていた。


 香苗も同じ事を思ったのだろう。

 柳瀬心美を一目見て、彼女を選んだ。


 やっと家族が出来る。

 そう言って涙ぐんだ香苗。

 その様子に僕は自分たちの判断が正しい事を確信した。

 

 きっとこれから全部上手くいく。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


「よろしく、改めて自己紹介するよ。僕は柳瀬やなせ卓也」


「よろしくね。私は柳瀬香苗。これから、一緒に幸せになろうね」


 すでに一度顔合わせは行っていたけど、あれから最後の書類提出と審査を終わらせ、今日をもって法的にも家族になる。

 その門出なのだ。

 キチンとしたい。


「高……柳瀬心美です。よろしくお願いします」


 心美ちゃんは緊張した様子で微笑むと、ペコリと頭を下げた。


「いや、寂しくなるな。心美ちゃんは施設のみんなから本当に愛されていたから」


 園長はそう言いながら心美ちゃんを見た。


「また、遊びに来ます」


「……ああ、ぜひおいで。歓迎するよ」


 里心がついたら僕らが困るから、と気を回したのか園長は少しの間を置いてそう言った。


「じゃあ行きましょう。心美ちゃんの部屋、もう準備してあるんだ」


 香苗がそう言うと、心美ちゃんは目を見開いて口を押さえた。


「部屋……頂けるんですか?」


「もちろん。君は僕らの娘なんだから」


 僕はそう言いながら、心美ちゃんの隣に置いてある大きなバッグを持った。


「さあ、行こうか。これからよろしくね」


「……はい!」


 心美ちゃんはそう言うと、僕と香苗の間に入ると交互に僕らを見て顔をほころばせた。

 嬉しそうだな……この子を選んで本当に良かった。


 そう思いながら、何気なく後ろを見た僕は思わず目を見開いた。


 僕らを見送る園長の表情……ほんの一瞬浮かび、僕と目が合った瞬間すぐに引っ込めた表情……

 

 それは深い恐怖に満ちたものだった。

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