解せぬ
たなべ
解せぬ
銭湯の脱衣所、牛乳瓶の売ってある隣の腰掛けにて私は思索していた。今までのこと、奴のこと。その初めは良かった。まだ良かった。落ち着いて思考できていた。人間関係、場面状況、時系列など様々、整えられた。しかし、或る段階に到達しかけた時、私の脳は聞かん坊になった。冷静を欠いた。
というのも、私の憎む者を好み愛する者がいる、かもしれないという気付きが私を昂奮させたのである。憤慨させたと言った方が正しいとも思われる。そんな者が何故存在するのか私には分からぬ。奴の良きところ、素晴らしい天晴れなところ、好ましい一面。そのどれも私は見つけられない。ただその横にいる彼/彼女は見つけたらしい。楽しそうに談笑するその姿は、私の想像する範疇を優に超えていた。或る人曰く、人の才を見つけられるのはそれだけで徳らしい。私だってそう思っている。でも、どうしても奴のそれは見つけられなかった。一本の苗木が森に隠されているように、スクランブル交差点を歩く一人の人間のように、私には存在が分からなかった。私に欠陥が有るのか。多くの人が
ここで私は冷蔵棚の牛乳瓶を手に取ると、それを一気に飲み干した。ゴクゴクという快活な音が脳に反響する。牛乳が口の中で膜を張るのが分かる。気持ちねばねばする。瓶を置くと私は牛乳の良い点について考えた。カルシウム、動物性タンパク質、白、液体。カルシウムが良いのかも知れない。牛乳が持て囃されているのはそういう訳だろう。第一、銭湯に牛乳というのはどういう因果か。ソーダ瓶でも良いような、というかその方が良い。良い筈だ。少なくとも私は良い。しかしまあ多分あれだ。思考停止って奴だ。「銭湯=牛乳」の価値観体系に飲み込まれているんだ。慎むべし、慎むべし。ただ真面目に考えてみると、マーケティング的には銭湯に牛乳を置くのは妥当、というか正解だと思われるのだ。銭湯も牛乳も健康という概念によって繋がれている、共有されている。この共感性こそが人を牛乳瓶購入に駆り立たせるのであって、そこに昔からの伝統が付与されたらもう太刀打ちなんか出来ない。だからこれは比較的良い思考停止と言える。言えなくもない。
私はこのように牛乳の良さも延いては銭湯の牛乳の置くことの良さも見出せる。だから帰納的に考えて、私は奴の良さも見出せる。些か例が少ないが仕方ない。奴の良さ、何だ。何だ。いや、じっくり考えてみてもしょうがない。一気に吐き出そう。せーのっ。
・承認欲求が強いところ
・単純そうで難解なところ
・実は普通未満の項目が無いところ
・金を持っているくせして支払いの時に姿を消す奥ゆかしさ
・子供のことを常に餓鬼と呼ぶ豪胆さ
・自販機の釣り銭のところを
一息に脳内で羅列したが、これらは果たして良いのか。或る一面では良いとも取れそうだ。何だ。出来るじゃあないか。馬鹿馬鹿しい。何を考えていたんだ、私は。ああ、呆れた。
ここで牛乳瓶をもう一つ開封。今度はちびちび飲んだ。一掬い分、二掬い分。ちょっとずつ喉を通って行く。銭湯で熱された体内に、快い冷感が貫く。食道を通り胃へと向かう牛乳の流れが手に取るように分かる。そしてなるほど。飲み方は牛乳の味さえ変えるものらしい。さっきのような痛快感はないものの、悠然たる自然を感じる。牧歌的な、詩歌的な光景が蘇ってくる。健康的だ。しかしこれは詭弁である。そんな筈は無いのだ。この牛乳瓶はどうせ大量生産されているに違いない。侘しいのだ。私は牛が拘束されながら自動搾乳機で乳を搾りだされている様子を想像した。一体、侘しい、寂しい。見えないところで苦しんでいる訳か。畜産家とて、牛を愛でて育てている訳ではないのだ。愛を与えられずに乳を搾られ、いずれ骸となる乳牛たち。でもこうして牛乳という形で間接的に彼らは愛されている。必要とされている。すると、愛は実用でないのかもしれない。
ここで漸く一瓶飲み干す。銭湯にもいい加減人が増えてきた。時刻は17時35分。そろそろ夕暮れだ。最近は陽の暮れるのがめっきり早くなって、秋らしくなってきた。秋の良いところ…。ああ、いけない。良いところを見つけようとするのも大概にした方が良い。良いと感じるということは自分より秀でていると認めるということだ。良いところが多く見つかるほど自分は負けていることになる。ん?そうすると、良いところが見つけられない私は負けるのが惜しいプライド野郎なのか?…やめよう。こんなことを考えるのはやめよう。
銭湯を出た。太陽は傾き、オレンジ色の光が散乱していた。東の空はもう星空だった。私の家、下宿先はここから500メートル離れている。先日、歩幅で計測したら、500メートル丁度だったので覚えている。奴の家は最寄駅から電車で一駅。隣町の2丁目3番地23号の203号室だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。このことである。
帰路は大体暗かった。街灯の途切れ途切れなのと、道幅が狭いのとで真っ暗だった。道行く人の顔も分からぬ。「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ」私は自然、これを想起した。そんな状況だったからかもしれない。身構えていなかった。私は奴とばったり遭遇した。
「やあ、奇遇だねえ」
立ち止まって、奴はやけに上機嫌だった。私は敢えて一度背後を確認した。誰もいないことは分かっている。そして幾許かの静寂の後、「ああ」と一言。
「銭湯の帰り?」
「ああ」
私はちらちら進行方向に目配せをした。
「聞いてよ。さっき、財布を拾ったんだ。見たこと無いくらい小さい財布。こんっくらいの」
奴はジャスチャーを交えた。
「でさあ、中見たらもう凄いんだよ。一万円札がばーって並んでて。俺もう慌ててさ、直ぐ路地裏に行ったんだ。で数えてみたら、23万三千円。吃驚だろ?だってこんなにちっちゃいのに」
またジェスチャー。
「流石の俺も観念してさ、おとなしく交番に行ったよ。事務処理が面倒だったな。もうこれからは見て見ぬ振りを決め込むしかないね。財布何てもう懲り懲り」
「君ならぬす…」
ここで「君なら盗んでてもおかしくない」を
「ぬす?」
「何でも無い」
「そうか」
「うん」
静寂。カラスの遠く鳴くのが聞こえる。
「じゃあ、…夜道、気を付けて帰れよな。また」
そうして奴は行ってしまった。それ以後の帰路は安寧だった。暫くまた思索に耽った。こうして歩く私は歩きスマホの人より危険だ。周りが見えなくなる。目を瞑ることも
「やっほー、こんなところで奇遇だねえ」
Aは奴と同じことを言った。
「そうだね。家、近いの?」
少し攻めすぎたと思った。しかしAはあっけらかんと「うん。徒歩5分くらい」と答えた。
「
ここでA、くすりと笑う。
「へえ~そうなんだ~。まあ大学一緒だしね」
「そうだね、でっ、あのさ~…」
会話が途切れないよう慎重に慎重に糸を紡いだ。傍から見たら大変惨めであった可能性が高い。ただ私は嫌われないよう、好かれるよう必死だった。大学で次、いつ会えるか分からなかったからだ。
そうして話は流れ、自然と共通の知人の話題へ。すると真っ先に挙がるのが奴の名だった。この時分かったことだが、Aは奴のことが嫌いだった。
「あいつさ~ほんとむかつくんだよね~。自己中っていうか、配慮が欠けてるっていうか~。ほんと有り得ないことばっか」
「そうだね~」
「こないだもさあ、私、めっちゃ疲れてて、図書館で勉強してたんよ。そしたら、あいつが来てさあ、『これ、やるよ。頑張れ』っておしるこ渡してきたんだよ?有り得んくない?めっちゃ疲れてんの察しろよって感じ。おしるこ?え?って」
「そ、そうだね~」
違和感。胸を突く不思議な違和感。
「多分、自分良いことやってます~って思ってんだろうけど、逆だっつうの。最悪だっつーの。ああいうタイプほんと迫害されて欲しい」
「…そう、かな?」
違和感違和感違和感違和感。
「そうだよ~。何か病気なんかな?あいつ。そうじゃないと説明付かな~い」
「ええ…」
そんな調子で10分はAが喋り通しだった。一頻り喋り終わるとAは何やら満足したような感じになって、また世間話に戻った。さっきのは幻聴だったのかもしれないほど穏健で平和な内容だった。
結局、一時間程度、談笑は続いた。多分、Aが時計を確認しなければあともう一時間は喋っていたことだろう。私は漸く家の玄関に辿り着いた。
玄関の戸を開け、中へ入ると暗闇であった。私はいつもの手順で外套を掛けると、そのまま着替えて床に就いた。中々寝付けなかった。というのも、Aとあれだけ長時間二人きりで話したのが初めてだったからだ。Aの知らない一面を知れて本当に楽しかった。好きな人といるとどうしてあんなに気分が高揚して、何もかも忘れられるのだろう。私はいつも考え込んで悩んで悩み切ってしまうのに、Aといるとそんなことしないですむ。私が唯一、自然でいられる。彼女こそ、女神である。
******
好きに理由は要りません、嫌いにも理由は要りません。良い人なのに良いところが見つからないことだって、悪い人なのに悪いところが見つからないことだってあるのです。
<了>
解せぬ たなべ @tauma_2004
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