東京影譚 ～エミリア、影を紡ぐ者～

第3話 仮想の糸の上で踊る夢と虚構 (中編)

　水上バスを降りると、エミリアは人混みに紛れ込むように早足で歩き出した。松田刑事と桜井刑事の視線から逃れるように、雑踏の中を縫うように進む。

目的もなく、ただひたすらに歩く。行き交う人々、車のクラクション、イルミネーションの光。都会の喧騒が、エミリアの存在を掻き消していく。

高層ビル群の影、猥雑な歓楽街の喧騒、幾重にも重なる高架橋。

あらゆる場所を通り抜け、あらゆる音に身を晒すことで、エミリアは自らの痕跡を消し去ろうとしていた。

だが、それは完全なカモフラージュではない。

それでも、何もしないよりはマシだ。

エミリアは、そう自分に言い聞かせながら、歩みを止めなかった。

夜空には、煌びやかなイルミネーションが輝き、街の灯りが月光を覆い隠す。

人工的な光に彩られた東京の街を、エミリアは孤独に彷徨っていた。

ようやく、見慣れた雑居ビルが見えてきた。

再開発の波から取り残された、寂れた雑居ビル。

その一角に、エミリアは勝手に住み着いている。

雑居ビルの入り口に立つと、どこからか食欲をそそるカレーの香りが漂ってきた。

それは、紛れもなくエミリアの『家』から漏れてくる匂いだった。

「また、佐藤ったら」

エミリアは、呆れたように呟いた。

佐藤には、いつも『匂いの強い料理は作るな』と言い聞かせているのだが。

元喫茶店の扉を開けると、そこには、エプロン姿の佐藤がいた。

彼は、手製のカレーを小皿に盛り、満足そうに味わっている。

「ねぇ、カレーの匂いが外まで漏れて、ここに誰か住んでいるってバレバレなんだけど!?」

エミリアは、佐藤に怒鳴りつけた。

「エミリア、落ち着いて。僕たちがここに住んでいること、近所の人ならみんな知ってるよ」

佐藤は、エミリアの剣幕に少したじろぎながらも、穏やかに言った。

「知っていても、わざわざ存在をアピールする必要はないでしょう!?」

エミリアは、顔を真っ赤にして反論した。

「でも、近所の人たちは、エミリアが住んでいるおかげで泥棒が来なくなって、安心しているみたいだよ」

「それって、私の仕事が始末屋だってバレてるってことじゃない!」

エミリアは、声を荒げた。

「まあ、毎日地下で何時間も射撃訓練をしてたら、硝煙の匂いでバレるのも仕方ないけどね」

佐藤は、肩をすくめた。

「硝煙の匂いなんて、一般市民にわかるわけないでしょう!」

「エミリア、僕たちが住んでいるこの雑居ビル周辺は、ちょっと特殊なんだ。戦争を経験した難民の人たちが多いから、硝煙の匂いには敏感なんだよ」

佐藤の言葉に、エミリアは言葉を失った。

彼女は、戦争の記憶が蘇るのを抑え込むかのように、ぎゅっと拳を握りしめた。

やがて、エミリアは静かにいつもの席へと向かい、腰を下ろした。

厚手のカーテンで覆われた窓の外は、夜の闇に包まれている。

彼女は、手元のリモコンでテレビを点けた。

だが、画面に映ったのは、いつものニュース番組ではなく、スポーツ中継だった。

「この時間帯は、有料チャンネルじゃないとニュースは見られないよ」

佐藤が、エミリアに説明した。

彼は、丁寧に盛り付けられたカレー皿を二つ、トレーに乗せて運んできた。

一つは自分の席に、もう一つはエミリアの前に置かれた。

「今、ホットミルクとサラダを持ってくるね」

佐藤は、エミリアに優しい笑顔を向けた。

佐藤が鼻歌を歌いながらキッチンとテーブルを忙しなく行き来する。

エミリアは、そんな彼の後ろ姿を見つめていた。

かつて戦場で孤独に生きてきた彼女にとって、この穏やかな食卓風景は、あまりにも眩しい。

「こんな日が、永遠に続けばいいのに」

エミリアは、小さく呟いた。

だが、すぐに我に返り、スマートフォンを取り出した。

画面には、様々な通知が並んでいる。

どれも、裏社会からの依頼や、危険な情報ばかりだ。

エミリアは、ため息をつきながら、それらの通知をゴミ箱へと放り込んだ。

その時、一つの通知が目にとまった。

それは、松田刑事から紹介された、霧島玲奈という女性からの連絡だった。

エミリアは、メッセージの内容を流し読みすると、佐藤が戻ってくるのを待った。

「エミリア、仕事の顔をしてるけど、何かあったのか?」

佐藤は、エミリアの様子がいつもと違うことに気づき、心配そうに尋ねた。

「ちょっとね」

エミリアは、平静を装いながら答えた。

「今日会った松田刑事から紹介された、ネットに詳しい専門家。霧島玲奈という女性から連絡が来たのよ」

「そうか。そういえば、エミリアから頼まれていた連続女子大生失踪事件のことだけど、僕なりに調べてみたよ」

佐藤は、少し誇らしげに言った。

「ありがとう。食事しながら、その情報を見るわ。タブレット端末を貸して」

エミリアは、佐藤からタブレット端末を受け取ると、サラダを頬張りながら画面に表示された情報を読み始めた。

「エミリア、食事中にスマホやタブレットをいじるのは、行儀が悪いぞ」

佐藤は、少し困ったように言った。

「信頼している人の前だけよ」

エミリアは、顔を上げずに答えた。

「さらりと、男心を弄ぶ」

佐藤は、小さく呟いた。

エミリアは、佐藤の言葉に気づかないふりをした。

彼女は、佐藤の好意に気づいてはいたが、彼を巻き込みたくないと思っていた。

「霧島玲奈。元警察官みたいね」

エミリアは、タブレット端末の次に見ていたスマホの画面を見ながら呟いた。

「元警察官?」

佐藤は、驚いたように聞き返した。

「ええ、サイバー犯罪の専門家だったらしいけど、急に辞めているみたい」

「どうしてだろう?」

「さぁ。松田刑事が紹介してきたってことは、何か裏があるのでしょうね」

エミリアは、意味深な笑みを浮かべた。

エミリアは、サラダを食べ終えると、ホットミルクを一口飲んだ。

そして、カレーをゆっくりと味わい始めた。

「明日、霧島玲奈に会いに行くわ。佐藤、いつものように運転をお願いね」

「了解。待ち合わせは何時?」

「午前10時。とある駅のロータリーで、だって。」

エミリアは、スマホをテーブルに置くと、食事に集中した。

佐藤は、そんなエミリアを温かい目で見守っていた。

　重たい雲の切れ間から、天使の梯子が降り注ぎ、街に幻想的な光を投げかけていた。

霧島玲奈は、待ち合わせ場所である私鉄の駅前に立っていた。

午前10時、朝のラッシュも過ぎ去り、ロータリーは人影もまばらだ。

彼女は、黒髪をきっちりと束ね、グレーのパンツスーツとリュックに身を包んだ、知的な雰囲気の女性だった。

黒縁メガネの奥には、鋭い光を宿した瞳が隠されている。

元警察官という経歴を持つ彼女は、一般人とは違う、研ぎ澄まされた感覚で周囲を警戒していた。

松田刑事から、エミリア・シュナイダーという裏社会の住人と接触するよう依頼された時、霧島は迷わずこの場所を選んだ。

駅前にある大きな交番、常に巡回する制服警官の姿。

もしものことがあっても、すぐに助けを求められる。

「来ないわね」

霧島は、腕時計を確認した。約束の10時を、既に10分以上過ぎている。

「まさか、ドタキャン?」

不安がよぎる。

だが、彼女は諦めずに、もう少しだけ待ってみることにした。

その時、一台の白いコンパクトカーが、霧島の目の前で急停車した。助手席のドアが勢いよく開き、中から女性の声が響く。

「ちょっと渋滞に巻き込まれちゃって、ごめんね!　 長く停められないから、さっさと乗って!」

霧島は、驚いて声のする方を見た。

濃いサングラスをかけたブロンドヘアの女性が、こちらに手を差し伸べている。

「ほら、他の車の迷惑になるから、早く!」

有無を言わさない口調に、霧島は反射的に車に乗り込んだ。

ドアが閉まり、車は静かに走り出した。

助手席に滑り込むように乗り込んだ霧島は、シートベルトを締めながら、はたと気づいた。

自分が優位な立場で交渉に臨むはずだったのに、完全に相手のペースに巻き込まれている。

密室と化した車内、逃げ場はどこにもない。

「しまった」

背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、霧島は硬直した。

すると、右側から優しい声が聞こえてきた。

「リュックを背負ったままシートベルトを締めたら、苦しくない?」

「あ…、はい。少し…」

霧島は、ぎこちなく答えた。

「そうよね。リュック、降ろすの手伝うから」

「すみません、ありがとうございます」

エミリアの申し出に、霧島は戸惑いながらも礼を言った。

リュックを降ろすと、エミリアはそれを受け取り、事もなげに中身を確認し始めた。

「化粧道具とか入ってるのかと思ったけど。ノートパソコンにタブレット端末、スマホにモバイルルーター」

エミリアは、一つ一つ取り上げながら呟く。

「ちょっと!　 人のリュックの中を勝手に見ないでください!」

霧島は、抗議の声を上げた。

「裸にして身体検査するよりはマシでしょう?　松田刑事の紹介ってことで、信頼してるのよ。感謝して欲しいわ」

エミリアは、悪びれる様子もなく言い放った。

霧島の抗議などどこ吹く風、エミリアはリュックの中身をくまなく確認すると、乱暴に霧島に返した。

そして、窓の外を眺めながら、佐藤に指示を出す。

「佐藤、このまま街を流して」

エミリアの態度は、まるで霧島のことなど眼中になく、霧島は苛立ちを覚えた。

「佐藤、この街をぐるりと一周して。適当に観光でもしてる感じで」

エミリアは、運転席の佐藤に指示を飛ばすと、再び窓の外に視線を向けた。

その様子を見た霧島は、ようやく会話に割って入れるチャンスだと感じた。

松田刑事から聞かされていた『始末屋』エミリア・シュナイダー。

一体どんな人物なのだろうかと。

霧島は、エミリアをじっと観察した。

濃いサングラスの奥に隠された表情は読み取れない。

グレーのパーカーに黒のスキニーパンツ、足元はスニーカーというラフな服装は、とても危険人物には見えない。

むしろ、近くの公園をジョギングしてきたばかりの、健康的な女性といった印象だ。

霧島は、勝手に『始末屋』というからには、屈強な大男で、顔中に傷があり、いかつい武器を携帯している。

そんな人物を想像していた。

目の前の女性は、どう見てもそんなイメージとはかけ離れている。

「あの、貴女が、本当に松田刑事が言っていた『始末屋』のエミリアさんなんですか?」

霧島は、緊張のあまり声が上擦ってしまった。

エミリアは、霧島の言葉に反応すると、ゆっくりと左手をパーカーの裾へと運んだ。次の瞬間、霧島の目は釘付けになった。

そこにあったのは、紛れもなく銃。

鈍く光る銃身は、冷酷なまでの存在感を放っていた。

「これで、納得できた?」

エミリアは、視線を合わせることなく、静かに尋ねた。

霧島は、息を呑んだ。

目の前の女性は、紛れもなく本物の『始末屋』なのだと。

「まさか、本当に」

霧島は、震える指先で、その冷たい金属に触れようとした。

「ぜひ、私の手で本物か確かめたいわ」

彼女は、かすれた声で呟いた。

「プロにだって触らせない。ましてや、素人には絶対にね」

エミリアは、霧島の手に触れさせることも無く、銃を隠した。

その言葉に、霧島のプライドが傷つけられた。

「私だって、元警察官よ!　銃の扱い方くらい、習っているわ!」

霧島は、声を荒げた。

「元警察官なら、なぜあんな素人集団に尾行されていたの?」

エミリアは、冷ややかに言い放った。

霧島は、言葉を失った。

彼女の視線は、窓の外を走るグレーのコンパクトカーに注がれていた。

「このまま私たちを尾行しているグレー色のコンパクトカーを釣り上げるから、人家が少ない所に向かって」

エミリアは、佐藤に指示を出した。

「人家に少ない所じゃなくて警察署とかに向かった方が良くないか?」

佐藤は、戸惑いながら尋ねた。

「せっかく女子大生失踪事件の関係者が、わざわざ会いに来てくれたのよ。歓迎しなきゃ失礼でしょ?」

エミリアは、いたずらっぽく微笑んだ。

「エミリア、まさか」

佐藤は、エミリアの真意を測りかねていた。

「どうして霧島さんを尾行してきた車が、女子大生失踪事件の関係者だと思うんだ?」

「あんな素人集団が、霧島玲奈を最初から狙っていたとは思えない。おそらく、女子大生失踪事件の関係者のSNSを詳しく調べ始めた人物が誰かと知りたくて、慌てて使い捨ての連中を送り込んできたのでしょうね」

エミリアは、冷静に分析した。

「ちょっと待ってください!」

霧島は、エミリアたちの会話を遮るように声を上げた。

「私は、そんな杜撰な調査はしません。痕跡を残すような真似はしないわ」

エミリアは、霧島の剣幕に少し驚いた様子を見せたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。

「なら、情報が漏れたのは、現実世界での接触が原因でしょう。例えば、松田刑事の行動とか」

「そんな、まさか」

霧島は、言葉を失った。

エミリアは、内心でガッツポーズをしていた。

思わぬ形で、事件の真相に近づけそうだ。

「エミリア、赤信号だ」

佐藤の言葉が、車内に緊張感を走らせた。

「わかった。佐藤、普通に止まって。相手の出方を見る」

エミリアは、そう言うと、流れるような動きでシートベルトを外し、ホルスターから銃を引き抜き消音機をつける。

その姿は、まさに『影の女王』のあだ名にふさわしい、冷徹なまでのプロフェッショナルだった。

霧島は、エミリアの変貌ぶりに息を呑んだ。

彼女は、初めて『始末屋』の本当の姿を目の当たりにしたのだ。

「佐藤、私が合図するまで、普通に運転して」

「霧島さん、シートベルトはしたままでいいから、頭を両手で抱えて伏せて」

エミリアは、短い言葉で次々と指示を出した。

霧島は、その言葉の意味を理解した瞬間、血の気が引いた。

エミリアは、必要ならば銃撃戦を始めるつもりなのだ。

心臓がバクバクと高鳴る。

恐怖で、全身が震え出す。

だが、彼女はエミリアの指示に従うしかなかった。

佐藤が運転する車は、赤信号で静かに停止した。エミリアは窓の外を眺めている。

だが、その姿は、まるで退屈なドライブに飽き飽きしているようにしか見えなかった。

霧島は、両手で頭を抱えながらも、こっそりと目を開けた。何が起きるのか、どうしても見ておきたかったのだ。

カチャッ。

乾いた音が、車内に響き渡った。

エミリアが、静かに銃の撃鉄を起こした音だ。

霧島の脳裏に、過去の記憶がフラッシュバックする。

警察学校で経験した銃の威力を実感させられた実弾訓練のリアルを。

「こんなはずじゃなかった」

霧島の心は、どうしてこうなったと後悔の嵐の風が吹き荒れていた。

こんなことなら警察官を辞めてまで守ってきた正義感など捨てて、隠れて怯えて暮らしていけばよかったと思い知らされていた。

次の瞬間、耳をつんざくようなタイヤのスキール音が響き、霧島の隣に一台の車が停車した。

　エミリアは、尾行車が赤信号にあわせて真後ろに停まるかと思っていたら、そのまま車線を変え自分が乗っている車の右側に並ぶように止めたことに口笛を吹きそうになった。

ずいぶんわかりやすいことをするとエミリアが思っていると、尾行車の助手席に座る人物が無警戒にジロジロとこちら側を覗き込んできた。

エミリアは、尾行車の助手席に座る人物が一瞬だけ運転席に座る佐藤を睨んだ気がしたので、車を飛び出し左側のこめかみに一発ぶち込むかと決断しかけて気がついた。

「……クロガネじゃない」

　尾行車の助手席に座る人物もエミリアに気がついたのか、高そうなスーツに白髪交じりの短髪に相応しい鋭い眼光、それらに似合う鍛え上げられた筋骨隆々の体格を誇示していたのが、素人が見ても借りてきた猫のように委縮して目線が泳いでいた。

クロガネの態度は、まるで藪をつついたらヘビではなく血に飢えたドラゴンを怒らせてしまって、これからどうしようと初心者が悩んでいるようにしかエミリアには見えなかった。