第2話 仮想の糸の上で踊る夢と虚構 (前編)
薄暗い地下鉄の階段を駆け上がり、地上に出ると、目の前に広がるのは、きらびやかな都会の景色とは対照的な、穏やかな川面だった。
水面に浮かぶ白亜の水上バスは、まるで未来都市からやってきた宇宙船のよう。
エミリアは、その近未来的なフォルムの水上バスへと足を向けた。
彼女を呼び出したのは、腐れ縁の刑事、松田だ。
いつもなら、人通りの少ない裏路地や廃墟ビルなど、人目を避ける場所で会うのだが、今回は珍しく水上バスでの接触となった。
だが、エミリアはむしろ好都合だと感じていた。
流れゆく景色、揺れる水面、そして行き交う人々。
予測不能な要素が多い水上バスは、狙撃などのリスクを最小限に抑えるには最適な場所だった。
「松田のくせに、やるじゃない」
エミリアは、不敵な笑みを浮かべながら、水上バスに乗り込んだ。
警戒を怠ることなく、周囲を素早く見渡す。
だが、その表情は、どこかリラックスしているようにも見えた。
天高く昇った太陽が、摩天楼のガラスに反射し、眩い光を撒き散らす。
その光と影のコントラストが、水上バスを包み込み、まるで幻のような空間を作り出していた。
川面をゆっくりと進む水上バス。
そよ風が、エミリアの肩まで伸びたブロンドの髪を優しく揺らす。
濃い色のサングラスの奥には、獲物を狙う鷹のように鋭い視線が隠されている。
黒のロングコートとパンツスタイルで颯爽と歩くエミリアは、まるでファッションモデルのよう。
その視線の先には、くたびれたスーツを着た初老の男性がいた。
彼の顔には、長年、人生の荒波にもまれ、疲れ切った様子が刻まれている。
「公園で鳩に餌でもあげているおじさんの真似でもしているの?」
エミリアは、男性に近づきながら、少し茶化すような口調で話しかけた。
「おい、それが人生の先輩に言う言葉か?」
松田は、眉をひそめながらエミリアを睨みつけた。
「だって、タダ働きさせる人に、敬意を払う必要なんてないでしょう?」
エミリアは、悪びれる様子もなく、松田の隣に腰を下ろした。
内心では、この男をどうやってからかってやろうかと、楽しげに企んでいた。
「今日は、いい天気ね。暑くも寒くもなく、絶好の仕事日和じゃない?」
エミリアは、わざとらしく空を見上げながら言った。
「その割には、ずいぶん厚着だな」
松田は、エミリアの服装に目を留めた。
「このコート? ちょっと肌寒かったから羽織ってきただけよ」
エミリアは、黒のロングコートの裾を翻した。
「デートに行くのかと思ったぞ」
松田は、皮肉っぽく言った。
「まさか。刑事さんに見られたくないものがあるから、隠しているのよ」
エミリアは、意味深な笑みを浮かべながら、コートの裾を少しだけめくり上げた。
その瞬間、松田の瞳孔がわずかに拡大した。
コートの下に隠されていたのは、紛れもなく銃だった。
「おい、そういうものは、人前で見せるもんじゃないだろう」
松田は、慌てて周囲を見回した。
「大丈夫よ、松田刑事。もう、昔みたいに危ない橋は渡らないから」
エミリアは、いたずらっぽく笑った。
そして、彼女は突然、大げさに笑い出した。
その甲高い笑い声は、水上バスの乗客たちの注目を集め、松田は恥ずかしさで顔を赤らめた。
「まったく、この女は」
松田は、小さく呟きながら、エミリアから距離を取った。
「それで、あそこで私を睨みつけている美人は誰?」
エミリアは、笑い疲れたように息を整えながら、サングラスの奥の鋭い視線で、水上バスの構造物の陰に隠れるように立つ女性を捉えていた。
ショートヘアにボーイッシュな服装、精悍な顔つきでこちらを睨みつけている。
「まさか、俺の新しい相棒を見つけるために、あんな茶番劇を演じていたのか?」
松田の言葉には、焦燥の色が滲んでいた。
前の相棒がエミリアとの接触に耐えかねて逃げ出したという噂は、彼女の耳にも届いていたのだろう。
「噂で、前の相棒が栄転という形で逃げ出したと聞いたから、新しい相棒を連れてくるのかな? って、ちょっと試してみただけよ」
エミリアは、涼しげな表情で答えた。
その視線は、依然として新人刑事に注がれている。
「それで、俺の新しい相棒の評価はどうなんだ?」
松田は、エミリアの言葉に苛立ちを隠せない。
「容姿とファッション、立ち姿から判断するなら……。きりっとした目元、整った顔立ち、無駄のない動きやすいスーツ。スタイルも抜群で、まさに警察官といった雰囲気ね」
エミリアは、まるでファッション雑誌の編集者のように、新人刑事を品定めする。
「他に言うことはないのか?」
松田は、ため息をついた。
「ああ、一つだけ。彼女、今みたいに利き手をジャケットに入れたままだと、私なら我慢するけど、他のプロだったら、眉間に風穴を開けられるわよ」
エミリアは、冷めた口調で言った。
松田は、小さく手を挙げた。
それが合図だったのだろう。
新人刑事は、警戒心を露わにしながら、松田の隣に歩み寄る。
その目は、エミリアを鋭く捉えていた。
「桜井、ジャケットから手を出すんだ」
松田は、新人に指示した。
「松田さん。こんな公共の場に平然と武器を持ち込むような女は、逮捕すべきです!」
桜井刑事は、エミリアを睨みつけながら、強い口調で反論した。
「今はいいんだ。それより、エミリアを紹介する」
松田は、桜井の言葉に耳を貸さず、エミリアの方へ向き直った。
ようやくジャケットから右手を抜いた桜井刑事は、緊張した面持ちで二人の様子を窺っていた。
「こちらが、エミリア・シュナイダーさんだ。今回の事件解決に協力してくれる」
松田は、エミリアを紹介した。
「新しい相棒の桜井刑事だ。優しく教えてやって欲しい」
「私、誰にだって優しいと思うけど?」
エミリアは、松田の言葉に含みを持たせながら、妖艶な笑みを浮かべた。
桜井刑事は、松田の隣で直立不動のまま、不満そうな表情でエミリアを睨みつけていた。
水上バスが水面を滑るように進む。
川風が、桜井刑事のショートヘアを揺らす。
その表情は、まるで理不尽な研修に放り込まれた新入社員のように、戸惑いと緊張に満ちていた。
エミリアは、そんな桜井刑事を面白そうに観察していた。
そろそろ、本題に入ることにした。
「それで、松田刑事。私を呼び出した理由は、連続女子大生失踪事件の件で間違いないかしら?」
エミリアは、松田に視線を向けた。
サングラスの奥から松田を鋭く見据えた。
「ああ、その件だ。警察としては、成人した女性を探すのに割けるほど予算も人員も余裕がない。だから、君に解決してもらいたい」
松田は、苦渋の表情で答えた。
「失踪事件ね……」
エミリアは、軽く呟いた。
「何か不満か?」
松田は、エミリアの反応に苛立ちを覚えた。
「軽く調べてみたけど、失踪した女子大生は5人。一見、接点はなさそうだけど、明確な共通点がある」
エミリアは、余裕の笑みを浮かべた。
「ほう、どんな共通点だ?」
松田は、興味深そうに身を乗り出した。
「全員、失踪する前に、仮想通貨の投資で大儲けして、SNSで自慢していた」
「なるほど。頭の固い上司たちより、よっぽど役に立つ情報だな」
松田は、皮肉っぽく言った。
「名前をSNSで検索しただけよ。で、大金持ちになって失踪したのなら、警察が調べるより税務署に探してもらった方が早いかもしれないわね。警察より税務署の方が、脱税犯を見つけるのは得意でしょう?」
エミリアは、松田を挑発するように言った。
「まだ確定申告の時期じゃない」
松田は、冷静に答えた。
「もう、松田刑事は冗談が通じないんだから」
エミリアは、ふてくされたように言った。
彼女はスマートフォンを取り出すと、素早い指さばきで佐藤に連続女子大生失踪事件を調べるよう指示を送った。
その様子を黙って見ていた桜井刑事は、堪忍袋の緒が切れたように、松田に詰め寄った。
「松田さん、なぜ私たちが調べずに、こんな素人に任せるのですか!?」
桜井刑事は、怒りを露わにした。
「桜井。俺たちは、この後、張り込みに駆り出されるだろう?」
松田は、困ったように言った。
「張り込みって、ただの駐車違反の取り締まりじゃないですか!」
桜井刑事は、声を荒げた。
「そうは言うが、違法駐車で迷惑している一般市民を守るのも、俺たち刑事の仕事だ」
「ですが、松田さん! 交通課の仕事をなぜ私たちがしなければならないんです!? 女子大生が五人も失踪しているのに、まるで捜査させたくないみたいじゃないですか!?」
「だから、動けない俺たちの代わりに、エミリアに動いてもらうんだよ」
松田は、静かに、しかし力強く言った。
その言葉には、上司たちの理不尽な命令に対する怒りと、事件解決への強い意志が込められていた。
「まったく、上はわかってない」
松田は、静かに呟いた。
その声には、上司たちの無理解と、現状に対するやるせない怒りが滲んでいた。
桜井刑事は、松田の横で、じっとうつむいていた。
若さゆえの正義感と、現実の壁の間で、彼女は葛藤していた。
「ねぇ、ちょっと聞いてる?」
エミリアの声が、二人の沈黙を引き裂いた。
「私の前で、社会派正義を気取った刑事ドラマを演じているのは勝手だけど、私に自腹を切らせて、貴重な時間を無駄にさせていることは、わかっているの?」
エミリアの言葉は氷のように冷たく、二人の体に突き刺さる。
「それは」
松田は、言葉に詰まった。
当然だ。エミリアは、報酬なしで危険な仕事に巻き込まれようとしているのだ。
「貴女は黙っててください!」
桜井刑事は、エミリアに食ってかかった。
「それが、納税者と有権者に向かって言う言葉!?」
エミリアは、桜井刑事を睨みつけた。
「そのコートの下に隠している物を理由に、今すぐ逮捕しますよ!」
桜井刑事は、エミリアのコートに手をかけた。
「警察権力の横暴ね」
エミリアは、桜井刑事の手を払いのけた。
二人の間には、緊張感が走った。
彼女は、燃えるような正義感でエミリアに掴みかかろうとした。
しかし、エミリアは、その動きを軽やかにかわし、水上バスのデッキを走り出した。
「待ちなさい!」
桜井刑事の叫び声が水上バスに響き渡る。
「逃がさないわよ!」
桜井刑事も負けじと追いかける。
水上バスの揺れなどものともせず、彼女はエミリアに迫る。
エミリアは、追跡をかわしながら、頭の中で高速回転させていた。
次の瞬間、エミリアは急停止した。
桜井刑事は、避けきれずにエミリアにぶつかりそうになる。
だが、エミリアは、まるでダンスを踊るように華麗に身をかわす。
バランスを崩した桜井刑事は、そのまま床に倒れ込んでしまった。
「うっ…」
桜井刑事は、顔を赤くして呻いた。
エミリアは、松田刑事の隣に優雅に座り直すと、何事もなかったかのように言った。
「さて、話を戻しましょうか。松田刑事、失踪した女子大生たちのSNSを詳しく調べたいのだけど、そういう調査に詳しい人を知らないかしら?」
「エミリアにも、情報屋くらいいるだろう?」
松田刑事は、呆れたように言った。
「ダメよ。私の情報屋に頼んだら、経費がかかりすぎるもの」
エミリアと松田刑事は、桜井刑事を無視して話を続ける。
床に倒れ込んだままの桜井刑事は、悔しさと屈辱で涙を浮かべていた。
「どうして、私がこんな目に……」
何故、警察一家の長女として生まれ育ってきた自分がこんな目にあっているのか。
彼女の心の叫びは、誰にも届くことはなかった。
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