東京影譚 ~エミリア、影を紡ぐ者~
ミルティア
第1話 プロローグ - 影の住人 -
薄汚れたコンクリートの壁に囲まれた、忘れ去られたような雑居ビル。
再開発の波に乗り遅れ、取り残されたその一角に、エミリアは身を潜めていた。
情報化社会の進展は、彼女のような存在を窮地に追い込んでいた。
あらゆる行動が記録され、分析され、個人が特定される時代。
何を食べ、誰と話し、何を知るのか、すべてがデータ化され、監視の目に晒される。それでも、エミリア・シュナイダーは、この生き方しか知らなかった。
「朝ごはんができたぞ~」
男の声が、静寂を破る。
エミリアは、二階の薄暗い部屋の片隅で物思いに耽っていた。
雑居ビルの元飲食店の跡地の天井をぶち抜いて作られたショートカットの出入り口から男の声が投げかけられる。
彼女はわずかに顔を上げた。
「今、行く~」
その声は、乾いた風に運ばれて消えていく。
日々のルーティン、いつもの会話。
だが、このありふれた朝のひとときが、エミリアの人生に訪れたのは、ほんの数年前のことだった。
ある刑事に頼まれた厄介ごとの副産物である。
エミリアは、天井から垂れ下がる縄梯子を軽々と掴むと、まるで蜘蛛のようにするすると降りていった。
そこは、かつて喫茶店だった空間。
カウンターには埃をかぶったコーヒーメーカー、赤いベルベットの椅子が並べられたテーブル席、そして壁には色褪せたメニュー表。
オーナーが夜逃げしたまま時が止まったような、廃墟と化した喫茶店を、エミリアはアジトとして利用していたのだ。
「なぁ、食事をする時くらいスマホとにらめっこするのは止めたらどうだ?」
「依頼が来てた時に困るじゃない」
「よく言う。何時だって気分で依頼を受けるか判断しているくせに」
仄暗い店内に、唯一きちんと整えられたテーブルの上には、こんがりと焼き目がついたトースト、ふっくらとしたスクランブルエッグ、彩り鮮やかなサラダ、そして温かいスープが並べられていた。
最後に運ばれてきたのは、湯気を立てるホットミルク。
優しい香りが、殺伐とした空気を和らげる。
いつもの定位置に腰を下ろすエミリア。
斜め向かいには、この朝食を用意した張本人である佐藤が所在なさげに座っていた。
彼の野暮ったい風貌は、この場違いなほど洗練された空間に、奇妙な安らぎを与えていた
「で、それが相棒に言うセリフ?」
エミリアは、佐藤の言葉に皮肉っぽく返した。
「エミリアが僕のことを相棒だと思ってくれているなんて、感激だよ」
佐藤は、顔を赤らめながら言った。
「わざとらしい。さっさと元の銀行の融資係に復職したらどう?」
エミリアは、冷めた口調で言った。
「首になった銀行に、簡単に戻れるか!」
佐藤は、少し声を荒げた。
エミリアは、トーストを一口食べるとリモコンを操作してテレビにニュースを写しながら、彼女は朝食を再開する。
「今日も、ろくなニュースがないわね」
エミリアは、ため息をついた。
「エミリアがニュースになっていないだけ、素晴らしいニュースじゃないか」
佐藤は、いつものように冷静にツッコミを入れた。
その言葉に、エミリアは苦笑する。
「はいはい、けんさんはお優しいわね」
「いきなり名前で呼ぶな」
佐藤は、少し照れたように言った。
「はいはい、佐藤健さんはお優しいわね」
エミリアは、佐藤の言葉を軽く受け流した。
彼女は、テレビ画面とスマートフォンを交互に見ながら、サラダを口に運ぶ。
その視線は、どこか遠くを見ているようだった。
「エミリア、それで、何か依頼はあったのか?」
佐藤は、恐る恐る尋ねた。
「今の私を見て、依頼があったと思う?」
エミリアは、冷たい視線を佐藤に向けた。
その言葉に、佐藤は何も言えなくなった。
彼は、黙々と朝食を食べることに集中した。
静寂の中、テレビの音だけが、かつて賑わっていた喫茶店の空虚さを埋めるように響いていた。
「なあ、聞きたくないんだが……。仕事もしないで、生活費はどうするつもりなんだ?」
佐藤は、眉間に皺を寄せ、心配そうにエミリアに尋ねた。
「健ちゃんは心配性ね。健ちゃんを養う生活費くらい、その辺のお巡りさんに通報できない人たちから」
「エミリア!」
佐藤の鋭い声が、静かな喫茶店に響き渡った。
さすがにまずいと思ったのか、エミリアは佐藤の顔を見つめ、真剣な表情で言った。
「心配しなくても、私たちが一生食える程度の生活費は持っているわよ」
「エミリアの話は、どこまで本当なのか……」
佐藤は、ため息をつきながら、疑いの目を向けた。
エミリアは、そんな佐藤を無視して、もう一度スマートフォンに視線を落とした。
画面には、複数の仕事を仲介するアカウントからの通知が表示されている。
どれも高額な報酬の依頼ばかりだが、エミリアは内容を確認すると、ゴミ箱に放り込んだ。
次に、彼女はいくつかの金融機関のアプリを立ち上げ、残高を確認する。
すべて順調に運用されているようだ。
満足そうに頷くと、エミリアはスマートフォンをテーブルに置いた。
「お金が無くなったら、まじめに働くわよ」
エミリアは、軽い口調で言った。
「まじめに働くって、エミリアに、そんな仕事があるのか?」
佐藤は、呆れたように言った。
「昔から、ヘッドハンティングが多いのよ?」
エミリアは、自信満々に答えた。
「まさか、 お子様には言えないような仕事じゃないだろうな?」
佐藤は、疑いの目を向けた。
「うーん、ある意味そうかもね」
エミリアは、意味深な笑みを浮かべた。
「どこだよ?」
佐藤は、あきれた表情を示した。
食パンを齧りながらスマホを弄るエミリア。
その指が、不意に止まった。
画面には、仕事を仲介するアカウントからの新たな依頼通知。
「ストーカー退治の依頼みたいだけど、どうかしら?」
エミリアは、スマホを佐藤に差し出した。
「ストーカー退治? 依頼者はどんな人なんだ?」
佐藤は、興味深そうに尋ねた。
「さあ……。大和撫子ってとこかしら」
エミリアは肩をすくめた。
「ふーん……、ちょっと見せて」
佐藤は、エミリアからスマホを受け取ると、真剣な表情で依頼内容を読み始めた。
数秒後、佐藤は顔を上げた。
「エミリアが受けるには、ちょっと簡単すぎないか?」
「いいじゃない。報酬は悪くないし」
エミリアは、余裕の笑みを浮かべた。
「まぁ、エミリアが決めたなら」
佐藤は、静かに頷いた。
「じゃあ、運転はお願いね」
エミリアは、スマホを操作し、依頼を受ける旨を返信した。
それが、彼女にとって、いつもの日常の始まりだった。
都心にそびえ立つ、輝かしいイルミネーションを纏った高級ホテル。
その最上階に位置するスイートルームは、贅を尽くした調度品で彩られ、眩いばかりの輝きを放っていた。
そこに、依頼人である藤原麗子は投宿していた。
長い黒髪を優雅に流し、完璧なまでの美貌を誇る彼女は、まさに『大和撫子』という言葉がふさわしい女性だった。
「お二人にお会いできて光栄です」
麗子は、上品な笑みを浮かべながら、エミリアと佐藤に挨拶した。
「本日は、このような形でお呼び立てしてしまい、大変申し訳ありません。」
「いえ、こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
エミリアは、冷静な口調で返した。
佐藤は、麗子の美しさに圧倒されながらも、エミリアの相棒としての意識を奮い立たせ、彼女に向き合った。
「それでは、お話をお伺いしても?」
エミリアが促す。
麗子は、静かに頷くと、口を開いた。
「実は、ここ最近、ストーカー被害に遭っておりまして……」
麗子は、ストーカーの男について説明した。
男は、執拗に麗子の身辺をうろつき、時には脅迫めいた言葉を投げかけてくることもあったという。
警察にも相談したが、証拠不十分で逮捕には至らなかった。
「私は、もう限界なんです。どうか、あの人を止めてください!」
麗子は、エミリアに懇願するように訴えた。
エミリアは、麗子の話を聞きながら、冷静に状況を分析していた。
「失礼ですが」
佐藤は、疑問を口にした。
「このスイートルームに滞在できるほどの経済力をお持ちなら、なぜ民間の警備会社にボディガードを依頼されないのですか?」
「お二人に依頼した理由を、お話ししなければなりませんか?」
麗子は、少し戸惑ったように答えた。
「ええ、私たちも仕事を受ける以上、依頼人の事情を理解しておく必要があります」
エミリアは、静かに答えた。
麗子は、少し間を置いてから、話し始めた。
「実は、私、婚約したばかりなんです。婚約者は、今度の選挙で父の地盤を引き継いで立候補する予定で……。このストーカー騒動が、選挙に影響することを恐れているのです」
「なるほど。つまり、ストーカー犯は、恋愛感情による犯行ではない可能性もあると」
エミリアは、鋭く指摘した。
「それは、わかりません。ですが、何としても、三日以内に解決していただきたいのです」
麗子は、切実な表情で訴えた。
佐藤は、麗子の話を聞いて、頭を抱えたくなった。
エミリアに舞い込む依頼は、いつも一筋縄ではいかないものばかりだった。
「わかりました。プロとして解決しますので」
エミリアは、自信に満ちた声で言った。
エミリアのやけに営業スマイルな顔を見ながら、佐藤は胃が痛む思いに悩むことになった。
高級ホテルの回転ドアを抜けると、乾いた風がエミリアの髪を撫でた。
彼女は振り返りもせず、佐藤に指示を飛ばす。
「このホテルのロビーで、コーヒーでも飲んで待ってて。ストーカーが来ないか、様子を見て」
「了解。で、エミリアはどうするんだ?」
佐藤は、怪訝そうに尋ねた。
「足で稼ぐのよ、情報を」
それだけ言うと、エミリアは人混みに消えていく。
まるで、都会の風景に溶け込む影のように。
「おい、ちょっと待て!」
佐藤が慌てて追いかけようとした時には、既にエミリアの姿はなかった。
彼女の残像を追うように視線を走らせると、地下鉄の入り口に吸い込まれていく金色の髪が見えた。
「一体、どんな身体能力をしてるんだ?」
佐藤は、呆れたように呟きながら、高級ホテルへと引き返した。
彼を待ち受けていたのは、苦いブラックコーヒーと、長い待ち時間だった。
一方、エミリアは地下鉄を乗り継ぎながら、スマートフォンを操作していた。
画面には、情報屋の連絡先が表示されている。
藤原麗子の行動パターンを探るため、エミリアは裏社会の情報網を駆使していたのだ。
情報屋からのデータは、予想以上に詳細だった。
麗子の行動パターン、交友関係、そしてストーカーに関する情報まで。
エミリアは、その膨大なデータに目を通しながら、冷徹な頭脳で分析していく。
「まずは、自宅周辺を偵察してみますか」
地下鉄の窓に映る自分の姿に、エミリアは静かに呟いた。
電車に揺られること数十分。
麗子の自宅マンションに到着した。
簡素な外観とは裏腹に、厳重なセキュリティシステムが施されている。
だが、エミリアの鋭い目は、いくつかの盲点を見逃さなかった。
「なるほど、ここからなら……」
エミリアは、マンション周辺を歩き回り、ストーカーが潜伏していそうな場所を特定していく。
人気のない裏路地、死角になる植え込み、そして、不自然に置かれたゴミ箱。
「ご丁寧に、痕跡まで残してくれてるわ」
エミリアは、地面に落ちていたタバコの吸い殻を拾い上げ、冷笑した。
それは、明らかにストーカーの男が吸っていたものだった。
「選挙のことなど関係なく、個人的な恨みを抱いている可能性が高いわね」
エミリアは、直感的にそう判断した。
そして、麗子の行動パターンをトレースするように、街を歩き始めた。
スーパーマーケット、駅、バス停、そして公園。
ストーカーは、麗子の日常に深く入り込み、執拗に彼女を追い続けていた。
「まるで、獲物を追う獣のように……」
エミリアは、公園のベンチに座り、ストーカーの心理を分析する。
彼の行動パターン、執着心、そして危険性。
「人目のつかない場所で、直接接触する必要があるわね」
エミリアは立ち上がり、決意を新たにした。彼女の足取りは、獲物を追うハンターのように、力強く、そして静かだった。
ストーカーの男は、怒りに燃えていた。
愛する麗子が自分を拒絶し、警察に通報したという事実に、彼の心は深く傷ついていた。
復讐心に取り憑かれた男は、麗子の行動パターンを把握し、待ち伏せしようと目星をつけたコンビニ前で息を潜めていた。
その姿を、エミリアは見逃さなかった。
鋭い観察眼は、男の不安定な視線、落ち着きのない仕草、そして荒い呼吸を捉える。
ポケットに手を突っ込み、何かを握りしめる仕草は、武器を隠し持っていることを示唆していた。
「素人ね」
エミリアは、心の中で呟いた。
男の異常なまでの興奮状態は、危険信号以外の何物でもなかった。
エミリアは、冷静に状況を判断し、彼を刺激することで警察に逮捕させる作戦に出る。
「警察から警告されているのに、まだストーカー行為を続けているの!?」
エミリアは、わざと大きな声で男に呼びかけた。
その声は、周囲の注目を集め、男のパーソナルスペースを侵害する。
「な、なんだお前は!?」
男は、驚愕し、振り返った。
次の瞬間、男はポケットからナイフを取り出し、エミリアに襲いかかった。
だが、エミリアは、その攻撃を軽々と躱す。
彼女の動きは、まるでダンスを踊るように優雅で、それでいて、猛禽類の狩りのように鋭かった。
「哀れな男」
エミリアは、男の攻撃をかわしながら、心の中で呟いた。
戦争という地獄を経験したエミリアにとって、平和な日常の尊さは、何よりも大切なものだった。
それなのに、この男は、自らその幸せを壊そうとしている。
「愛されたいのなら、間違った方法でなく、誠意を見せるべきなのに」
エミリアは、男の歪んだ愛情表現に、哀れみを感じた。
そして、彼を法の裁きを受けさせることで、更生の道を示そうと決意した。
「きゃー、たすけて!!」
エミリアの叫び声が、コンビニの静寂を引き裂いた。
その声は、まるで舞台女優のように大げさで、周囲の注目を集めるには十分だった。
店内にいた客や店員たちは、一斉に騒ぎの方へ視線を向ける。
ナイフを振りかざす男と、恐怖に怯えるエミリアの姿が、彼らの目に飛び込んできた。
次の瞬間、レジの奥から店員が飛び出し、非常通報ボタンを押した。
けたたましい警報音が鳴り響き、男はさらに興奮状態に陥る。
「動くな! 動いたら、こいつを刺すぞ!」
男は、近くにいた女性客を掴み、人質に取ろうとした。
だが、エミリアは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
まるで猛禽類が獲物に襲いかかるように、エミリアは男に飛びついた。
華麗な蹴りが、男の膝関節を捉える。
「ぐあっ!?」
男は、悲鳴を上げながら崩れ落ちた。
握っていたナイフも、音を立てて床に転がる。
エミリアは、冷静に周囲を見渡した。
人質になりかけた女性は無事のようだ。
「後は、藤原麗子が雇う弁護士にまかせましょう」
エミリアは、小さく呟くと、人混みに紛れてコンビニを後にした。
報酬に見合う仕事内容ではなかったが、合法的に解決できたことに満足感を覚える。
何より、佐藤に余計な心配をかけずに済んだのは、大きな収穫だった。
数日後。
エミリアと佐藤は、いつものように雑居ビルの元喫茶店で朝食をとっていた。
「今日も、ろくなニュース無いわね」
エミリアは、テレビを見ながら言った。
「エミリアが、活躍する事態が無いだけ平和じゃない」
佐藤は、穏やかに微笑んだ。
「でも、私は一流の始末屋なのよ。少しは、腕の見せ所が欲しいところだけどね」
エミリアは、少しだけ不満そうに言った。
「エミリアには、このまま引退して欲しいけどね」
佐藤は、呟くように言った。
エミリアは、佐藤の言葉に、少しだけ心が温かくなるのを感じた。
「そうね。この平和な日常が、ずっと続けばいいのに」
だが、二人の願いは、無情にも打ち砕かれる。
エミリアがホットミルクを口に運んだその時、彼女のスマートフォンが震えた。
点けっぱなしのテレビからは、女子大生連続失踪事件のニュースが流れていた。
また、非日常が始まる。
エミリアは、覚悟を決めたように、スマートフォンを手に取った。
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