第4話 狐二匹、己の弱さと、惚気と
蕾花が昼夜逆転することは頻繁にある。というか妖怪なので本来は夜間の行動が基本であり、狐は本来的に夜行性だ。
ただ、最近面白い文献を見た。
狐は夕暮れ時や明け方といった薄明るい時間に最も活発になる。
妖怪と通じるな、と妙にそう思った。
民俗学的に捉えた妖怪は、境界に現れる。山と里の境目、里の辻、川、海辺、家の普段使わぬ場所。境目とはすなわち現世と異界を隔てる神聖な場所という考え方があり、それは時間——逢魔時や暁にも言えることだった。
蕾花は己が巣穴と呼ぶ部屋の方で寝ていた。社務所の部屋は現在、桜花が菘と夜葉に寝かしつけられ、文鳥天狗と化した式神二匹——メジロとネズが護衛という大役を担いつつ、眠っている。猫姉妹のラテとノアはすっかり子供達の遊び相手で、今頃は大瀧夫婦の部屋だろう。
巣穴は社務所の外、時々配信に移す大きな墓石の裏手にある。穴を掘って階段を整備し、土間を作って空間を広げ、下町の土建屋に依頼して作らせた蕾花の、本宅である。
神社に勝手に大穴を開けた挙句己の巣穴まで作った図太さに柊は呆れ返り、常闇様は笑いが止まらず小一時間腰を折って膝をバンバン叩いて抱腹絶倒していた。
無論その後、「お説教」されたが、蕾花は五隊(現在は愚煉隊と
さても巣穴には蕾花のほかにもう一匹、狐がいる。当然妖狐で、名は
七隊、忌兵隊の隊士であり、一ヶ月ほど前から蕾花と交際している女性である。
付き合い始めの一週間はとにかく舞い上がっていた蕾花だったが、基本彼は奥手である。周りからもう時期恋の季節だな、と言われたが、さすがに付き合って一ヶ月で子孫を作るほど踏み込むのはどうなんだ、と思ってしまったのだ。
それはどうも潤花も同じらしく、彼女も生前のひどい経験から奥手であり、最低一年は恋人として蕾花さんという個妖を観察させてください、と言われていた。
「また戻したんですか?」
「なんかあたったのかもしれん。……強いて言えば、朝俺が冷蔵庫から出して割った卵、臭った気がする」
「絶対それですよ。天下の最強神使も腐った卵には勝てないんですね」
「多分柊でも腐ったもんは無理だぜ。あらかじめ妖力で内臓をガードすりゃ別だが、そんなことしたら栄養まで弾いちまうから、いずれ餓死だ」
「源吾郎さんの世界だと、大妖怪ほど食べないって」
「仙人くらいになると本当に霞でいいのかな、あっちは。紅藤様は時たま虫を食べるみたいらしいし、サカイさんは大食漢だぜ」
「魍魎喰いとか、心の隙間を……大食漢の定義にできるのかは正直分かりませんけど。カロリー換算したらどうなるんですかね」
「さあ……でも俺らは無理だろ、魍魎喰うの。俺は興味本位で喰ったが、血の味がしても飢えは満たされなかった。俺の妖気で瘴気が消し飛んで、何の足しにもならなかったし。てか、飯で言ったらなんなら常闇様でさえ食事が楽しみで外食に行きたがるんだぜ」
蕾花は巣穴に籠るときは、家デートか作業の時と決めていた。また、社務所の部屋はゲームやらがあって気が散る。巣穴はあくまで資料や小説などの紙書籍しかなく、雰囲気自体も純和風の古い作りで落ち着くというのもあった。
囲炉裏で炭がはぜ、潤花が天井から吊るされた鉤にかけられている鍋をかき混ぜる。
「悪い、こんな時間に夜食作らせて」
「まったくですよ。感謝してください」
潤花が作っているのはシャケのお粥だった。味付けは顆粒出汁。具は、とろとろに煮込んだ白菜とほぐしたシャケ。明らかに弱った蕾花の胃を慮った料理なのはいうまでもない。
とんすいにお粥を盛り付け、レンゲを添えた。蕾花は座椅子に座って、現世で買ってきた某お笑い芸人の小説に栞を挟む。
「人間、ですか。ピースの、又吉さん」
「うん。太宰を前に読んだろ、すっげえ心が揺さぶられて、自分を見失いかけて、創作が危うくなってた時期もあったから余計に自分の平凡さが際立って奇行に走り始めた頃に」
「ああ。あのときは見てられなかったですよ。必死にその非凡に追い縋ろうとして、でも足元にも及ばないことを自覚してるから、文章で自傷してるような印象がありました」
冷静に言われると、たとえ恋人であっても少しムッとしたが、けれどこうして忌憚なく意見を言ってくれるからこそ恋人なんだろうと思った。おべっかを言い合う共依存は、蕾花の望む恋愛ではない。
「又吉が太宰と芥川は全部読んでるって言って、それで、買った。自分の恥ずかしかったことや失敗を創作に落とし込んでる手法自体は、太宰の影響じゃないらしくて、又吉の同級生が昔、そう言ってたらしい」
「詳しいんですね」
「自分もそうだっていうと、まさしく非凡にすがる凡人だけど、でもそうなんだ。自分の失敗や失態って、俺は別に隠す気なんてないんだよ。もちろん、みんなにそれを言えるのかって、それは別。交差点でそれを大声では言いふらせない。でも創作だと俺は正直でいられる。自己投影といえばそれまでだけど、ある種、鏡のように……そこに映る不恰好を、面白おかしく脚色して、笑い話にできるんだ。そうやって俺は、自分を少しずつ認めたいのかもしれない。自分の醜さとか、弱さを」
潤花は茶化すでも飽きるでもなく聞いていた。蕾花はお粥を啜って、口をもぐもぐと動かす。
「美味い」
「どうも。蕾花さん、ほっとくと味を濃くするんで。気をつけてくださいね」
「そうかな。人間基準での話で言えば、俺は濃い味付けは好きじゃない」
「私たちは妖怪ですよ。人間の食事なんて、ジャンクじゃないですか。私は特に野良上がりなんで人間の味付けってどうもこってりしすぎて苦手なんです」
「ちょっと……わかる。物にもよるけど、特にコンビニの弁当は味付けがすっげえ濃くて、塩っ辛いんだよな。水無じゃ食えないっていうか」
「それです。蕾花さんは、人間として二十年強、暮らしてたんですよね」
「更生プログラムの一環で三十年くらい現世でな。柊と。色々失敗して、本来は四十年だったところを十年前倒しして幽世に帰ってきた。柊も常闇様も俺が人間らしく暮らせないってわかったらしい」
蕾花は一応、三十歳になる歳まで現世にいた。だが、どう足掻いても彼が人間的な感性を磨くことは叶わず、このままでは邪神の二の舞だと判断した常闇様が切り上げさせたのだ。
以来二〇〇年、幽世でずっと暮らしている。明確に神使となったのは一〇〇年前で、それ以前は妖怪の基礎修行をしていた。蕾花はなまじ人間として過ごした期間があったから、妖怪の暮らしにすら不慣れで、どちらでもない七〇年を氏子として過ごし、その間前世代の神使から色々学んだらしいと、潤花は聞いている。
本人は「人間の皮被るよりは気楽だった」と語っていた。狐なのに化けの皮をかぶるのは嫌いらしいと、柊は少し呆れていたが、彼女自身も他人を騙すくらいなら面と向かって罵倒して殴り合うのを選ぶ妖怪なので、結局似た者同士である。
「未だに俺は、天才に縋ってるんだなって思う。もちろん、神使としての力や、俺にしかない文才……みたいなものは、あると思う。それは思い上がりかもしれなくて、最近でいえば燈真や嶺慈みたいに俺に並ぶ妖怪もいるし、文才なんかでいえば俺はまだまだだけど」
「個性ってやつですね。芸術家はみんなそれで悩みますよ。光希さんもそれでひどく悩んでたって」
「うん。結局、俺が個性って言い張ってるのって、ツギハギした他人の思想とか作品から受けた影響であって、それは多分、本当に一番最初の人類が描いた何かの模倣でしかないんだろうけど、それは俺にしかないはずだってものを、俺たち芸術家はずっと夢想する。潤花は、そういう感覚ないか?」
「ありますよ。完全自律分身を見てて、わざわざ分身なんか出す必要あったかな、みたいな。最初の頃なんて危険なもので、私の方が偽者じゃないかとかすら思ってました。でも私は私ですよ。どう足掻いたって、分身ですら他人ですし、まして血肉も思考も通わない他人が私になることは不可能です」
蕾花はお粥のおかわりをよそってもらい、また、食べ始めた。
しばらく食器がぶつかる音と、熱い粥を啜る音と、囲炉裏の火の匂いが部屋の支配者になる。
「人間が何者なのかは、俺にはわからないし、妖怪すら、なんなのかわからない。なんせ俺は自分すらわからなくなることがある。でも、なんでだろう。潤花と喋ってる俺は、やっぱり夢咲蕾花で、対面している狐は依澄潤花だと実感できる」
「口説き?」
「だとしたら、もう少しロマンスを交えたいかな。俺にそんな情緒があるかどうか、知らんが」
普段、竜胆たちには見せない、弱い蕾花。それを他人にひけらかすことに抵抗はないと言いつつも、しっかり抵抗はあって、だからこそ潤花には見せられる、脆い自分。
「妖怪に時々幻想を抱いて、勝手に失望することがあるのは、俺は多分人間が怖いからで、妖怪をおぞましいものだとは思いたくないからだと思う」
「初めてできた恋人に裏切られたって、それですか」
「そう。あれで明確に……いや、その前から俺は人間を怖がってた。自分を怖がってたのかもしれない。だから同じ人間として扱われる他人を怖がってた。創作という鏡を通して自分を認めていく中で、だんだん俺は、人間や妖怪を……やっと、身近に感じられた」
「本当に変な
「変態を気取ってると、鬼才って言ってもらえるからな。実際はどこにでもいる凡人だよ。普通だから普通のことで悩むし、普通のことに苦しむ。本当に変人なら、他者の温もりを欲しがったりしないだろ。潤花を見てて安らぐのはきっと、俺が弱い凡人だからだ」
潤花は微笑んだ。それから、「じゃあ、長生きしてくださいよ。好きな人を置いていくのは罪ですよ。それだけは、決して揺らがない不変の罪です」と言った。
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