第2話 日常からの逸脱
俺は車の中に入り、ようやく落ち着くことができた。何しろ、先程までむせ返るような血の臭いの中にいたのだ。それに鬼の形相をした男に彼女が黙ったまま片手で名刺を差し出した時など心臓が止まるかと思った。……よくあんなことできるな。
「どうだった? 初めての現場は?」
「は、はあ、何とも恐ろしいとしか」
運転席の彼女が俺に声を掛けてきたが、俺の視線は彼女の足元に向けられていた。いや正確に言えば、そのタイトスカートから伸びるスラっとした足にだ。ストッキングの上からでもその素晴らしい肌ざわりが伝わってくるようだ。俺はにやつく口元を誤魔化すように咳払いをした。
「……アナタ、私は別に気にしないけど、一般の女性にそれやるのやめなさい。今はね、ジロジロ見るだけでも痴漢になるのよ」
バレていた。完全に。彼女の言う通り、近年では凝視する、匂いを嗅ぐという行為だけでも迷惑防止条例違反で罪に問われる可能性がある。俺は臭いには興味が無いが、昔から性的な目で、女性をガン見する癖があった。
電車に乗る際には女性が見える位置をキープするのが基本だし、席に座るときはもちろん若い女性の隣だ。俺はそこそこ背が高いので、その位置から見える光景は実に素晴らしいものだった。
こんなことをするのは俺だけだと思っていたが、どうやら世の男性で似たような事をする輩は多いらしい。近年では、他の席が空いているのにあえて女性の隣に座る者も多く、トナラーとして社会問題化していた。
全く馬鹿どもが! 隣に座るならもっと自然に装えよ。そりゃ他が空いているのに隣に座れば下心が丸見えだろうが! 俺は一部のアホどものせいで、自分の肩身が狭くなっていることに憤りを覚えた。
それはともかく、俺は隣の運転席で音楽でも聞いているのか、リクライニングを倒して寛ぎ出した彼女を見た。彼女は常にヘッドフォンで音楽を聞いているようだ。俺は彼女のその形の良い双丘をじーっと見ていた。俺はやはり口元を歪めていた。
「……感じるわよ、視線。とにかく今はゆっくりしてなさい。昼からは忙しくなるわ」
またしてもバレてしまった。彼女は怒ってはいないようだが流石にこれ以上見るのは憚られた。俺は助手席から見える光景をぼんやりと眺めながら、こんなことになった経緯を思い返していた。
●
その日、俺はため息をつきながら駅のホームにいた。今日も朝が来てしまった。なんの代わり映えもしない、退屈な一日が始まるのだ。だが、この駅で過ごす時間だけはまだマシな方だ。
俺はいつものように、ホームのやや後ろ側に陣取っていた。ここからなら電車待ちで並んでいる人達を一望できる。端から端まで吟味し、目を付けた女性の髪から尻、そして足まで舐め回すように見る。
だが、そんな楽しみを邪魔するものが現われた。視界の端に、赤いモノが見えたのだ。……どういう訳か俺は昔から、ああいったモノが見えてしまう体質なのだ。子供の頃に親に言っても信じてもらえず、それ以来親との関係は疎遠だ。俺は十八になるとすぐに就職して家を出た。
俺の勤めている会社はブラック企業とは呼べないが、経営の厳しい中小企業だ。入社して五年経つが給料は大して上がらず、日々暮らすので精一杯だ。営業先は都内なので、いつも電車で外回りをしている。
ともかく、俺は余計なモノを見ない様にして、先程の女性たちを見ることにした。
「あなた、見えてるわね」
突如、後ろから女性に声を掛けられ、俺の心臓は止まりかけた。……マズいな。俺が見ていたことを騒ぎ立てられたら、痴漢として捕まるかもしれない。そうでなくても写真でも取られてSNSに上げられたら、事実はともかく、俺は会社を首になるかも知れない。俺はとっさに振り返って、否定の言葉を発した。
「……イエ。何も見てませんけど。何の話でしょうか?」
俺は自分でも、その言い訳のマズさを理解していた。これでは見ていましたと言っているようなものだ。前半部分は明らかに失言だ。はあ? とでも言えば良かったのに、頭で理解していても、動揺の為、こんなあからさまな嘘しかつけなかった。
「……そっちじゃないわよ。まあ、そっちも問題だけど、あたしの管轄じゃないからね。あなた、普通の人には見えないものが見えているんでしょ?」
「……へ?」
ここで俺は初めて、俺に声を掛けた女を正面から見た。女はスレンダーな体型で、全体的にプロポーションがいいが、中でもタイトスカートから伸びるスラっとした足が素晴らしかった。俺は正面から舐め回す様に彼女を見ていた。
「アナタ……そんなことしてると捕まるわよ? まあいいわ。とにかく来なさい」
俺は女が呆れながら肩に掛けた鞄から出したものを見て、今度こそ全身が氷ついてしまった。
「け、警察手帳ですか?」
「そ、本物よ……一応ね。とにかくついて来なさい。大事になりたくないでしょ」
彼女は俺の手を引っ張り、ホームから俺を連れ出した。駅を出て少し歩いた駐車場に黒塗りの車が止められていた。女はその車に乗り、助手席へと俺を手招きした。このまま俺は逮捕されるのだろうか? 怯えながら俺は車に乗り込んだ。
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