第三章:床
饅頭をほおばりながら力と楽しいひと時を過ごした火花は、日が傾いてきたので「そろそろ失礼します」と言ってその場を後にした。
屋敷に到着するや、八郎が足を洗う桶を用意するよう家の者に指示を出す。
家の者が水をたたえた桶を持ってくるのを待つ間に、火花はふふと思い出したように八郎に向き直った。
「八郎、今日は伊勢神宮でおもしろいおじい様と知り合いになったわ」
「ほう、私を牛車で待たせている間に、一体何をなさっていたのです」
どんな話題をいつ振っても、八郎はいつも快く答えてくれる。
「なんでもね、相模国のお殿様なのだそうよ。遠路はるばるお伊勢参りにいらしたのですって。老体に鞭打って、ご苦労様なことよね」
火花は視線を宙で動かしながら、力との会話を思い出しながら語る。
「そのお殿様と、どのようなことをお話されたのですか」
この質問は、従者としての領分を超えてはいるが、幼いころから一緒に過ごしてきた八郎と火花の間では、許される類のものであった。
「あら、それは秘密よ」
火花は八郎の顔色をうかがいながら、面白そうにそう言って返す。
「火花様もお年頃なのですから、あまり見ず知らずの男と軽々しく口をおききになりませぬよう」
そう言うと八郎は、わざとらしく眉をつりあげた。
「はぁい」
火花はそんな八郎の顔をみて、こほんと一つ咳をして姿勢を正す。
「それで、お父様からの伝令は来ていて?」
火花の足を洗っていた家の者は、突然、火花から話を振られて驚いた様子で「来ておりませぬ」と答えた。
「それでは明日も伊勢神宮に参らねばね。なんとしてでもお父様に勝利をもたらすのよ」
火花の言に、傍で膝をついている八郎が、威勢よく「は」と答えるのであった。
翌朝、伊勢神宮の境内では、前日に火花と過ごした松の木の下で、力が腕組みをして権助と向かい合っていた。
「して、今日は志摩の姫君は参拝にまいるかのう」
力の目がぎらりと光る。
「今までの例を見ますに、おそらく来られるでしょう」
岩に腰かける力の前で膝をつき指先を地面につけている権助は、そう言うとこくりと一度、うなずいた。
「あの頃の女子のまぶしさといったら。はちきれんばかりだのう」
力はそう言って目を細める。
そうして、少し間を置いてから、「今日は離れに床を用意しておいてくれ」とつぶやいた。
そのつぶやきは、確かな響きを持って権助の耳に届いた。
「と、いいますと」
権助は、力の意図を知ってか知らずかそのように尋ねる。
「皆まで言わすな」
とぼけたふうの権助に対して、力は上からぴしゃりとそう言うのだった。
昼になり、火花がやってきた。
いつものように、牛車に揺られながらである。
この日は残暑が酷く、朝からむっと蒸し暑かった。
「では、いつもの場所で待っていてね」
八郎にそう告げると、火花は牛車を離れてひとり、伊勢の本殿へと歩いて行った。
前の日、その前の日とも同じように柏手を打って礼をし、今日も父の勝利を祈願すると、役目を終えた火花は、意気揚々と本殿に背を向け歩き始めた。
そうして本殿前の砂利道を少し進んだところで、火花に声をかける者があった。
力である。
「まぁ、力様」
「こんにちは、火花殿」
二人は昨日、名を明かし合った仲であった。
「今日もお参り?精が出るのね」
火花は警戒する気など微塵も見せずに、満面の笑みを力に向ける。
そんな火花を、力は目を細めてまぶしげに見やる。
「火花殿こそ。お父上は必ず勝利されましょうぞ」
「だといいのだけれど」
そう言う火花の顔に、ふっと影が落ちた。
ころころ変わる火花の表情にすっかり魅せられてしまった力は、ここで一度、喉をごくりと鳴らした。
「今日は火花殿に見せたいものがあるのだ」
力は絞り出すようにそう、火花に告げた。
「まぁ、何かしら」
「日の光が苦手な物ゆえ、離れの中に用意しておりますれば、どうぞ一緒に来ていただきたい」
「まぁ、何を見せていただけるのかしら」
火花は疑うことなく、力の誘いに乗り、力と連れ立って離れへと歩を進めていくのであった。
「八郎さま、八郎さま」
ここに、牛車で火花の帰りを待つ八郎を呼ぶ声があった。
「ぬ。誰だ私を呼ぶのは」
八郎はそう言うと、立ち上がり辺りを見回した。
見ると、牛車の陰に膝をつく中年男の姿があった。
「お、何者だ、おぬし。なぜ俺の名を知っている」
「細かいことは置いておいて、大事でございます。火花様の、大事でございます」
「何っ火花様の大事だと、おぬし、詳しく話せ」
八郎は目を見開いた。
「私は権助といいます」権助はそう告げると、次のように言葉を継いだ。
「ある老人が火花様を参拝の際に見初められて、たった今、離れの方へと連れていかれました。私は今朝その離れに床を用意するようおおせつかった伊勢神宮の従者であります」
「なんだと、その離れとやらは、どこにある」
八郎は今にも飛び出していかんとしている。
「私が案内しますれば、これへ」
権助はそう言うと、きびすを返し、八郎を振り返った。
「八郎さま、腰のものは使えますかな」
権助が言っているのは、八郎が腰に差している刀である。
「無論だ」
八郎は眉をきりりと吊り上げ答えた。
「相手は刀の達人と聞きます。私が合図しましたなら、すぐにそれを使って相手を切り伏せてくだされ。老爺とはいえ相手は暴漢、遠慮はいりませぬ。始末は私がつけまする」
「合い分かった」
二人はそのようなやり取りを交わすと、一目散にに離れへと走っていった。
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