3-3:晴雨計
嵐から、2日が過ぎた。子爵領で介抱された者達も、少しずつ元の旅路に戻り、あるいは失った荷物を補充するための帰路につき始める。壊れた橋や壁などの調査、修繕の手配も一段落し、錬金術師アルバートにようやく静かな午後がやってきた。
久しぶりの静寂を楽しみながら、アルバートは気取らないシャツ姿で山小屋に独りでいる。椅子から向き合うのは、スケッチ用の紙とイーゼルだ。
紙は希少である。それでも、アイディアは絵の形にしなければいけない。文字では抜け落ちる情報が多すぎる。
小型化した温度計。手動式の空気圧ポンプ。気球。中身が空の鉄球を、半分に割ったもの。素描ばかりだが、発想の大事な原点だ。
玄関がノックされなければ、時間を忘れていただろう。
「ごきげんよう、ベアトリスですわ」
「――今、開ける」
蜂蜜色の縦ロールを揺らし、ベアトリスが入ってきた。女性にしては長身で、上等な旅装に身を包んでいる。編み上げ靴でカツンと床を鳴らし、一礼した。
「クライン伯爵令息アルバート殿に、改めて先日のお礼を。おかげさまで、護衛ともども助かりましたわ」
「領主に仕える者の、当然の義務です」
こほんとわざとらしく咳払い。
「言葉遣いは、子爵領ではもっと砕けて問題ない。学会と同じ程度に」
「では、お言葉に甘えまして――久しぶりね、アルバート」
微笑む令嬢を実験室に案内し、椅子を勧める。べアトリスは座る前、辺りを見渡した。
「助手のお嬢さんは?」
目的はそれか、とアルバートはため息をこらえた。
「彼女は中央広場で、百葉箱のメンテナンスだ。観測結果を読みつつ、精度に狂いがないかも検証している」
ベアトリスは厚めの唇に指を当てる。
「そう。なら、待っていれば、会えそうですわね」
「手紙は読んだ。近々訪問するとあったが……」
「『お天気令嬢』にもご用があります。もちろん、天才錬金術師にも」
アルバートは、今度こそはっきり嘆息した。
異世界の知識で――自分の発見ではないもので賞賛を得てしまったことへの葛藤もあるが、『気象は魔法で動く』という常識を破るのに、それは覚悟の上。
気を引いたのは、通り名の方だ。
「『お天気令嬢』か――その通称は誰が?」
「領地でもお会いした、大きな体の行商人」
「『素材屋』か」
「ええ。あの方から、気圧計の見本を見せていただいた時、そういう風に。天才錬金術師と、お天気令嬢と」
アルバートは心中で叫んだ。
(秘蔵の助手、という話はしただろうに!)
しかし厳密にいえば、ベアトリスはもうサニーに会っている。面白い呼び方として素材屋が紹介したといえば、わからなくもないが――。
(気象を研究していれば、論文も増える。共著者の彼女が有名になるのも、避けられんか)
いずれ『子爵領のお天気令嬢』は定着するだろう。村で流行ってもおかしくない。
整った顔をしかめ、こめかみの辺りをなでた。
「……耳が早い」
「ふふ、この領地を訪れて、本当によかったと思っておりますの。星のお導きですわね」
錬金術師ベアトリス。
またの名を、事業家。
錬金術師ではあるが、研究よりも商才で有名な人物だった。まだ年齢23だが、主に錬金術を美容関係に応用することで、太い顧客を持つに至る。白粉に使う鉛などは有毒で、ベアトリスはそうした化粧品の改良に目をつけた。
ただ侯爵家の令嬢といえば、いかに魔力があってもまずは政略結婚、そうでなくても王宮で文官として勤める。錬金術師は薬品やガスを扱うため、手が荒れる程度ならまだよい方で、場合によっては声さえ枯れる。
アルバートの脳裏を、彼女の噂が過ぎった。
(あの話は、本当なのだろうな……)
幼少期、魔力にまつわる事故で、高位貴族としての婚姻は難しくなった。高位貴族は魔力を重視するため、魔法関係のトラブルを冒した令嬢を敬遠する。
それゆえ、自由と立場を求め、錬金術師になったのだと。
「師は、息災か」
「変わりなく。愚痴が増えて、あなたを心配なさっているようね」
「……そうか。私からもあなたに礼を言いたい」
話が始まる前に、アルバートは貸し借りの清算をすることにした。
「研究で各地と手紙をやりとりするようになって、ようやく知ったが――あなたは私が起こした失敗を、後々でフォローしてくれたのだな」
ベアトリスは目をパチパチさせる。
「王立学会と、ガラス職人組合、それに伝令組合との仲を取り持ってくれたと聞いている。ありがとう、少し、気持ちが軽くなった」
1年前に学会を追放された後、研究仲間だった彼女もフォローに動いてくれたのである。ただ田舎で忙しくしていたアルバートは、その事情を知らなかった。
春にベアトリスが領地を訪れたのは、旅の寄り道でしかないが、彼女はお礼くらい言われると思っていたのである。肩透かしをくらった不満と、いたずら心で飛び出したのが、アルバートへの『お馬鹿さん』という評価だった。実際、そう言われても仕方がない。
「礼が遅れてすまなく――」
一礼したアルバートが顔をあげると、令嬢は口を両手で押さえていた。
「――あ、あのアルバートが素直にお礼を……! 嵐で雷にでも打たれまして!?」
「おい」
アルバートは苦笑した。
確かに、そういうやつだった。負けた瞬間その他大勢――そう自分を追い詰めて、追い詰めて、研究に励んでいたから。
「今回の救援も、あなたを助けられてよかったと思う。それで、本題だ。なにか、事業を仕掛ける気だろう」
「もちろん。あなたと助手、わたくしのものになりませんこと?」
◆
サニーは、領内の百葉箱を整備、記録づけをしてから
中から、話し声がする。
――わたくしのものになりませんこと?
ベアトリスの声に、ぽかんと口を開けた。
つい最近習った言葉と似ている。『隅に置けない』と同じ、男女にまつわる言い回し。
「え、ええ!?」
驚きながらサニーがドアを開けると、びっくりしてベアトリスとアルバートが振り向いた。
「さ、サニーか」
「アルバート様……ええと、お付き合いなさるんですか?」
ここで真っ正直に聞くのがサニーだった。
ベアトリスが笑い出し、アルバートは顔をしかめる。
「なんでそうなる」
「その、ベアトリス様のものになると――」
「そういうことか……今度は言い回しだけ覚えたな」
目元を揉んでいた美形の錬金術師は、サニーにも椅子を勧める。
「あ、お茶をお出ししますね」
「君も関わる話だ、まずは座ってくれ。君が聞いた『ものになる』というのは、事業として、という意味だ」
つまり、とアルバートは言葉を継ぐ。
「ベアトリス・フローレンス侯爵令嬢は、錬金術師でありながら各地で事業を行っている。事業家と呼ぶ者も多いな。そして――」
手を振って引き取ったのは、縦ロールを揺らすベアトリスだ。
「わたくし、あなた方の『気圧計』をぜひ事業にしたいの。わたくしの――船乗り達を助けるために、ね」
事業家が語るのは、嵐と船にまつわる事情。
「この間のような嵐は、船で遭遇したら大変です。しかも船は動くから、自分から嵐に向かってしまうこともある。ですがあなた達なら、『嵐を避けるための器具』を作れるのではないかと」
サニーの頭に、ある品が浮かぶ。
今まで目指していた数日、あるいは一週間の長期予報とは、逆の発想だ。この世界では、たった数時間後の天気を、より間近の危険を知りたいというニーズもまた強いのかもしれない。
数度の瞬きの後、青い瞳がきらめいた。
「お望みのものは――
ベアトリスが眉をぴんと跳ねさせた。
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