2-10:百葉箱、完成!
薬液の匂いが少し残る
アルバートが、気圧計である1メートル(この世界では1フィー。1フィーは約1メートル)ほどのガラス管、温度計となる30センチ(同、1パス。石畳1枚の長さ)ほどのガラス管、そして新開発した20センチほどの湿度計を見つめている。
魔力を使うサニー。いつもは周囲数百キロの気象を観測するが、今日は室内に特化した。
「この部屋は、気温18℃、湿度43%、気圧1020hPa――」
朝もやが出たせいで少し湿度が高く、気温が低い。相対的には高気圧だが、空からの下降流が強風を起こすほどでもない。
「昼は晴れて安定したお天気ですが、夜からは風が強くなり、ところにより雨となるでしょう……あ、じゃなくて」
いつもの癖で、つい天気予報をしてしまう。
サニーは目を開けつつ頬を赤らめた。
「アルバート様、機器の目盛りはいかがでしょう?」
若様は、気圧計、温度計の順番に、測定結果をメモする。
最後に目盛を読んだのは、少し変わった計器だった。
メモリ付きの板。針が湿度43%を示している。その針にはバネとフックがつき、フックは数本束ねられた『毛髪』を『く』の字型にするよう引っかけられていた。
「うむ……今、確認している」
『毛髪式湿度計』である。
毛髪は乾くと縮み、針を引っ張るため、目盛の指示位置が動く。逆に潤うとバネの方が強くなるため、反対側に針が動くというわけだった。
感度もいい。
毛髪は、湿度で2%も長さが伸びるのだ。たった30センチでも5ミリ以上伸縮する計算である。
(調髪が大変なはずです……!)
ちなみに金髪が望ましいという説があり、サニー自身の毛を短く切って使っていた。『このために長い金髪をつけてくださるとは、さすが神様は気が利いてます』と彼女は思ったが、おそらく買いかぶりだろう。
この単純な湿度計は意外に精度が高く、かつて気象庁でも使用され、倉庫等では現役のものもある。
アルバートは慎重に目盛を眺め、しっかりと頷いた。
「全計器、合っている! 君の観測結果と同じだ!」
サニーは目を輝かせた。
「なら――!」
「うむ。これを木箱に収めれば、百葉箱の完成だ!」
百葉箱。
それは、さまざまな気象観測装置を納めたものだ。太陽光による熱吸収を抑えるため、たいてい白く塗られる。開発した気圧計、温度計、湿度計の3点を納めて、予報を掲示する広場に置く予定だった。
サニーには、山小屋で陽を浴びる計器達が輝いて見える。
「誰でも、予報の根拠になる数値データを見ることができます!」
小さな一歩かもしれない。
でも、天気はデータで予報が出来ることを示す、大事な一歩。
「うむ。これで、サニーの観測結果を実際の機器で裏付けられる。論文にするにも、同じ器具で、誰でも、検証できねばならないからな」
ふっと表情を緩めるアルバート。
「ありがとう、サニー」
「アルバート様も、おめでとうございます!」
結局、ぜんぶ完成するまで3週間もかかってしまった。サニーが来てからすでに1月ほどが経っている。
「早速、子爵様にも報告しましょう」
お屋敷では、丁度昼食の準備が進んでいた。客間に湿度計を置くと、子爵夫妻は顔をほころばせる。
「――ほう、完成したか!」
「はい! これで我々の天気予報に、詳細な数値を載せられましょう」
今までは、『晴れ』『雨』『曇り』など、予報の結果だけを示していた。ただこれからは、その下に根拠となる数値がつけられる。
サニーは微笑んだ。
「『気温』と『湿度』は、暑さ寒さと、じめじめ感としてイメージしやすいので――」
引き取るアルバート。
「領地の気象予報も、より信用されるようになるでしょう。データが付きます」
子爵は指を一つ立てた。
「ふむ、それだけではないぞ? 『気温』や『湿度』は、記録をとっていけば、農作物にもよい影響を与えそうだ。夏の涼しさは、麦の生育に大事だからな」
「『気圧』だって役立ちますよ?」
問うサニーに、子爵は腕を組む。
「話を聞くに天気予報に使うものだが、領地には君らがいるからなぁ」
「遠くの土地にこれを置けば、その土地でも簡単な予報ができます。気圧計があって、風向きがわかれば、低気圧の中心がどの方角にあるかは予測できますから」
北半球の場合、風がふいてゆく方向の左前方に、低気圧の中心がある。
風向きに影響を与える力――自転によるコリオリ力が、風が吹く方向を右に曲げるためだ。この力によって低気圧、特に
「気圧計を常に読めば、低気圧が近づいているのか、遠ざかっているかもわかるでしょう」
「ほう……あまり知られていないが、気圧もやはり重要な概念のようだな」
ノーラ夫人が微笑み、サニーの手を取った。
「私からもお礼を言わせて、サニー」
握ってくれた手が、温かい。
「あなたが来てくれてから、山頂で霧に遭う人も、雨にあう人も、まだいない。領地の峠はね、『危険な山越え』から、『安全な山越え』に変わるかもしれないの」
「行商人も増えるかもしれないなぁ」
サニーは胸が温かくなった。
お役に立てたことが、とても嬉しい。何より、前世で与えられた天気予報の力が、百葉箱によって他の領地にまで広がるかも知れないのだ。
セシルを連れてきたリタが、ぼそりと言った。
「たいへんなご苦労があったようですけれど」
「――っ!」
「こらこら」
ノーラ夫人が笑うのは、計器の正確性を確かめるためのあれやこれや、だろう。
頬が熱い。
結局、サニーはあれから何度も蒸し風呂に突入することになった。
「色々な素材を試したものねぇ。確か鯨の骨に、マメのサヤ、楽器の弦……?」
「ええまあ……」
今にして思うと、サニーはやっぱり、ちょっとアホだった。
「ふふ」
くすりと笑うアルバートに、子爵は目を細めた。
「お。君がそんな風に笑うのは、久しぶりだ」
「――今日は、特別ですよ。なにせ、気象の解明、そのためのデータを自分の目でも確認できるのですから」
アルバートは、気圧の論文をすでに完成させていた。推敲を終え、少し離れた町にある『錬金術ギルド』という組織に提出をしたという。
「魔力で天気予報をしようと思っていたが、どうも魔力は気象を変えるものではなく、従属的なものらしい。その辺りも、明かしてみせますよ」
「……若様」
「サニー、これも君のおかげだ」
アルバートは百葉箱を作る傍ら、自作した魔力測定装置も改良。なんとか空気中の魔力を記録できるようにしていた。
その結果、水の魔力は湿度が増加した『後に』増えていた。要は、魔力は確かに気象条件と関係するが、その関係は主役ではなくて、脇役らしい。
気象変化につられて、空気中の魔力が変化する。今までアルバート達は『魔法が気象を変える』と考えていたが、順番が逆だ。
「ただ、魔力の動きも、予報に活かせればいいのだが――」
「サニーもそこはわからないです。でも、対流圏ならもしかすると断熱曲線に魔力が関わっているかも――」
だんだん仲良くなる2人に、子爵夫妻の目が生暖かくなる。
「さて」
こほんと子爵が咳払い。
「どうだろう。昼食には少し早いが、続きは食堂で」
その時、玄関から大声が聞こえた。
「素材屋でございまぁす! しばしのお別れに、ご挨拶に伺いました!」
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