2-5:〝事業家〟ベアトリス
「ちょちょちょ、サニーさまぁ!?」
慌てるリタに、完全に巻き込まれた形でもっと慌てる素材屋。
ベアトリスの艶やかな唇が、薄い三日月のようににんまりした。
「ところで、あなたは?」
「さ、サニーです。若様の助手です」
「へぇ、あの偏屈屋が助手を――ね」
女性は、手袋をした人差し指を立てる。
「ということは、魔法は使えますのね?」
「魔法?」
「ええ、こんな風に――」
すう、と何かが動く気配。
気圧でも、湿度でも、気温でもない――容易に観測しえない何かが動いたと感じた。ベアトリスの指先に、爪ほどの水球が生まれる。それは緩く回りながら大きくなり、すぐ拳ほどになった。
サニーは青い目を見開く。木漏れ日を浴びて、水球はきらめいていた。
(これが、魔法……なのですか?)
初めて見る。本当に、空中で、水が生じているなんて。
上空でも水蒸気が凝固し雨や雲になるが、水滴の大きさは全く違う。何もない空間から水を取り出したとしか思えなかった。
「わぁ……!」
口を押えるサニー。どうしよう。今日は初めて見ることばかりで、目がキラキラするのを止められない。
(人間、やっぱり楽しいです……!)
ベアトリスがつんと鼻を上に向ける。
「あら? アルバートが雇うくらいだから、これくらいは使えるかと思いましたけれど……」
「す、すごいですっ」
サニーは、すっとその水球に向けて手を伸ばしてしまった。
「え」
ばしゃん、と。
サニーが水球に触れた瞬間、さっきの『洗濯機』と同じになってしまう。
つまり水球が渦巻いて、遠心力で勝手に弾ける。ベアトリスが直前に手を引っ込めた影響で、水球はベアトリスの方に引き戻されながら弾け――要はベアトリスは自分で作った水球でびしょ濡れになった。
「あ……」
唖然とするサニー。
素材屋は体も口も真四角にし、リタは宇宙望遠鏡並みに遥か遠くを見る目をしていた。
蜂蜜色の縦ロールから、ぴちょんと水が落ちる。護衛達が騒ぎ出した。
「お嬢様っ」
「わたくしの魔力に干渉するなんて……ずいぶん魔力がお強いのね」
心当たりがある。背後から注ぐ太陽だ。
今日は快晴。つまり『太陽光発電』は最高潮で、サニーの持つ魔力とやらがベアトリスの魔法に悪さをしたのかもしれない。
「ご、ごめんなさい! お怪我は」
「怪我? これくらいで、怪我なんてするわけが……」
「万が一ということもっ」
ベアトリスは苦笑してハンカチを取り出し、顔と髪を軽く拭った。
つん、とサニーのおでこをつつく。
「……?」
「おかえし」
乱れた衣服を整える。
「わたくしも、少々遊びが過ぎましたわ。『お馬鹿さん』も、家の方の前では口が粗相をしましたわね」
護衛達が言いつのる。
「しかし」
「それに、あなた方の態度も、決して上品ではありませんでしたわよ? 反省なさい」
ぴしりと言われ、男女の護衛は口を結んでしまった。
サニーは改めてスゴイと思う。この人から、リタや、ノーラ夫人とは違う、優しさや強さを感じた。色々な人がいる。
ベアトリスは護衛の男女を引き連れて、歩き出した。
「お邪魔しましたわね――あ、そうそう」
去り際、ふと足を止めた。
「最近、空に流れ星を見ませんでした?」
サニーとリタは顔を見合わせる。天気予報で日に何度も空を観察するが、覚えはない。
「……いえ」
「申し訳ありません、当家でもそういったお話は」
ただ、とサニーは付け足した。
「ただ、数日は安定したお天気で、星は見やすいでしょう。夜はまだ冷え込むでしょうから、なにか羽織るものをお持ちください」
ベアトリスは怪訝な顔をしたが、すぐに天気予報のことに思い至ったらしい。
「――ありがとう」
緩く手を振って、今度こそベアトリス達は帰っていく。
素材屋とリタは空気が抜けるように長く長く息を吐いた。
「サニーさま~~~!」
「は、はは! いや、お見事でしたっ! アルバート様の名誉を断固守る気概、感服ですっ」
素材屋は少し声を落とす。
「しかし、ベアトリスというと……?」
リタは咳払いすると、ずんずん山小屋に近づいた。『主人が出てこないのも悪い』と言わんばかりで、ノックの音も激しい。
「若様! お客様ですよぉ!?」
アルバートの声が、少しくぐもって聞こえた。
「――どなただ? すまない、最後の調薬で、集中していた」
「素材屋でございます! アルバート様、お久しぶりです!」
「――入ってくれ」
扉を抜けると、サニーはいつもより薬草の匂いを強く感じた。
廊下の右奥まで進むと、小ぎれいな一室に繋がっている。壁際に机があり、その手前に椅子が向かう合うように一揃い。患者と医者が話すためのものだろう。
今、片方の椅子にはアルバートが、もう片方の椅子には義弟セシルが座っていた。
「
錬金術師は、ガラスビーカーをかき混ぜ、机に置いたところだった。整った顔をこちらに向けると、銀髪がサラリと揺れる。
エメラルド色の目が、顔を背けているサニーに細められた。
「何かあったようだな?」
「……スミマセン」
一部始終を話すリタ。
「そういうことだったか」
アルバートは美しく微笑んだ。
「あまり気に病まなくていい。お忍びでの訪問だし、家同士での接遇の不備とはならん。私とは互いに貸し借りもあるし、後々問題になることもあるまい」
ふと、サニーは気になった。
王立学会という、都会の場で活躍をしていたアルバート。サニーは『いられなくなった』とだけ聞いている。
そこで何があったのか、失敗があったのか――。
(……聞いちゃ、だめですよね?)
まだ、若様とそこまで周波数は合っていない。少なくとも、まだ。
「少しかけて、終わるまで待っていてほしい」
サニー達は、部屋の反対側にある机と椅子で待つ。
アルバートがガラスの試験管を目の高さに持ちあげ、その少し上に右の人差し指を向ける。
すると、ベアトリスの時と同じように、空中に水流が生まれて瞬く間に試験管を半分ほど満たした。
若様は、何種類かの粉を入れ、緩く振って混ぜてから、ガラス棒を差し入れる。サニーが渦を作った時のように、ガラス棒を伝って淡い光が水に宿った。色は、紅茶に似たオレンジに変わる。
そして、アルコールランプのような器具で加熱。ただし炎は緑色で、しかも着火の際に若様は指先から火を出していた。
(ま、また魔法!?)
目が輝くのを止められない。
世界は、不思議だ。
サニーが人間の少女になったこともそうだが、色々な不思議が溢れている。知らないことが溢れている。
(どう見ても熱力学に反していますし、空中から水を生み出すなんて、絶対におかしい……)
なのに、実際に起きている。
人間がこうした事象を起こせることが、気象にも影響を与えるだろうか? 可能性はある。気圧計、温度計、湿度計のような計器の作成には、前世の法則がどの程度有効か、改めて確認する目的もあった。
ただ、サニーは魔法が気象に影響する可能性は低いと考えている。
台風のエネルギーは、毎時で大型発電所500機以上だ。人間が多少、炎や風を生み出せるからといって、この膨大なエネルギーをどうにかできるとは思えない。
「――失礼、終わった」
アルバートは、試験管から薬液を木のマグカップに移す。ビーカーからも水を注いで薄めると、セシルの前に置いた。
「……」
「飲みなさい。今日は、いつもより甘くしてあるから」
セシルはぐいと薬液を飲み干し、ひどく苦そうに舌を出す。責める調子でアルバートを見るのが、『嘘つき』と言っているかのようだった。
アルバートは苦笑して汗を拭う。彼自身も水差しからカップへ注ぎ、うまそうに飲んだ。
「さて、おまたせした」
こちらへやってくるアルバートに、素材屋が真っ先に立ち上がる。
「とんでもない! それにしても、相変わらずお見事な手際ですな」
「調薬は口に含んでもらうものだからな。そうでなくては、務まらない」
微笑むアルバートだったが、サニーを見て首をひねった。
「サニー、そういえば洗濯は――」
無言で親指をあげるリタ。
素材屋がきょとんとする。
「……洗濯?」
「いや、こっちの話だ」
「ふふ、しかし若様、驚きましたぞ。先ほどの女性、家名は伏せられしましたが、もしや『事業家』ではありませんか?」
「どうかな」
肩をすくめるアルバートに、素材屋は野性的な笑みを深める。
「驚いたといえば、助手のサニー様もです。これは素材屋の勘なのですが、なにか特別な力を持っているようにも――」
「今は、情報も商うのかい?」
「おお、これは手厳しいっ」
素材屋は肩を揺らして笑う。
サニーはハラハラしてしまうが、本人たちは慣れっこなのか、あっさり商談に移った。
「さて、お昼前に押しかけてしまい、申し訳ありませんが――」
「けっこうだ。商品をみせてほしい」
素材屋は机にさっとクロスを広げると、色々なものを並べていく。
サニーは指を頬に当てた。
「動物に、植物の……素材?」
「さようでございます」
一目で植物とわかるものもあれば、動物の革や爪、骨、それになんだからわからない紐のようなものまで。
この時代の素材技術は、よくて15世紀から16世紀くらいだろう。
サニーは産業史について、おぼろげな記憶を探る。
まだゴムの代わりに羊の腸や胃袋、樹脂の代わりに鯨の骨が使われていた時代だ。素材屋がいろいろな生き物の部位を取り扱っているのも納得である。
ふと、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
「いい香りもしますね」
「南洋の柑橘類の皮も取り扱っていますよ。こちらは石けんに入れても好評です」
「鉱物はあるか?」
「どちらを」
「
「今、西で戦争してましてね、相場はちょいと高いですよ。失礼ですが、何にお使いに?」
「魔導銀を量産する」
「……ほう?」
「使い道ができた」
一通り買い物を終え、アルバートはサニーを見る。
「君にはなにが要る?」
「百葉箱に収めるのに、気圧計はできました。後は温度計と、湿度計ですね」
とはいえ温度計についていえば、アルバートがすでに目途をつけている。極めて細いガラス管に、ワインの酒精などを入れて密封すればいい。
要は温度で膨張しやすい素材ならいいわけで、歴史でも温度計は早くから試されていた。酒造には適温が必要で、必要はどこでも発明の母である。
「特に湿度計では、色々な素材を試したいです」
だから難しいのは、『湿度計』の方だ。
空気中の水蒸気は気圧のように何かに圧力を加えるわけでも、気温のように熱膨張を促すわけでもない。
目に見えない水蒸気を、どう測るべきだろうか?
素材屋がほう、と目を見張る。前世の知識を引っ張り出すサニー。彼女の青い目は、急に理知的な光りが宿るのだ。
「ちなみに一番シンプルなのは、綿に水を含ませるものですね」
「サニー、それは乾く時間を計るのか?」
「確か日陰で綿の重さを測るんです。乾く時間だと、気温や日光の影響を受けますから」
「ふむ――」
半導体を用いる電気式湿度計は使えない。
(何かいい方法、思い出しそうなんですけど……)
人間の記憶の不便なところだ。機械であれば『検索』ができるが、思い出すためにも色々試すしかないだろう。
素材屋が口を開いた。
「お二方、ならば楽器の
「いいですね!」
「他にもありますぞっ」
「ええっ!?」
「これは植物の採取家が見つけてきた――」
商売上手に乗せられ、あれもこれもと素材を選び出すサニー。
リタがアルバートをつつく。
「若様、若様」
「…………止めよう。今に馬車ごと買い取ると言いそうだ」
ぽつりと呟きつつも、初の買い物をするサニーは実に楽しそうで、なかなか止められないアルバートだった。
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