1-10:流体の法則
午後、山小屋の実験室にサニーの明るい声が響いた。
「みてください! アルバート様、セシル様!」
語尾を跳ねさせながら、サニーは指さす。屋根を叩く雨音も、彼女には聞こえていないし気にならない。
注目すべきは倒立したフラスコ、その銀色に輝く液面だ。液体金属『魔導銀』は、午前よりも1センチ高さを下げている。
「午前中は76センチ、今は高さ75センチ、予定通りです!」
前世が観測装置を満載した機械であったせいか、サニーはガラス容器の液面高さを測定することができた。
視界を表現すると、こんな具合になる。
液柱の右隣りに目盛が出現し、そこに長さが表示されるのだ。集中を緩めると、ふっと消える。
「……センチ?」
「あ、この世界の定規で計測しないと、ですよね……」
もちろんアルバート達にサニーの観測結果は見えないので、事前に彼らの測定器具でも長さを測ってもらっていたのだが。
ともかく実験結果は、サニーの計算通り。
魔導銀の液面は、気圧と共に下がっている。
アルバートが唸った。
「……これは、どういう原理なんだ。偶然か? いや、雨と同時とは……」
「わたし達は、大気の底に沈んで暮らしています」
この言葉は、サニーのオリジナルではない。
前世ではほとんど常識のようなもので、気象庁や数々の学習サイトに似た言葉が載っている。
知識が、溢れ出す。
「川に入ると、水に体が押される感覚があると思います。同じことが、この空気でも起きているのです」
大気には、重さがある。
サニーがいた高度3万キロは地球の重力がほとんどかからないため真空だが、高度数万メートルに及ぶ高さまで、空気は地表を覆っている。
地表を覆う空気は重力に引かれ、底で暮らす物体に絶えず圧力をかけていた。
「管で水を汲み上げられるのは、液面を大気が押しているからです」
ストローやポンプがわかりやすい。
たとえば、ストローを吸うと、口に飲み物が入ってくる。
この時、コップの液面はたえず大気に押されている。ストローを吸う前は、口内とストロー内の液面の間にも空気があり、これがストロー中の液面が上がってこない緩衝材のような役割を果たしている。
肺というポンプが働いてストロー中の空気が吸い出されると、この緩衝材がなくなる。すると、コップ側の液面にかかる大気からの圧力が、ストロー内の液面を上昇させるのだ。
「……少し、わかる。鉱山などで、溜まった水をポンプで汲み上げることがあるな」
「それも同じ原理ですね」
義弟、セシルがぽんと手を打って、拍手した。
「――!」
そして、くいっと首をひねる。
「はい、それと今の現象が――気圧がなんの関係があるか、ですね」
ここでポイントなのが、倒立したフラスコに納まっているのが水ではなく、魔導銀――液体金属ということ。
水よりも、10倍以上も重い。
「魔導銀は、水よりも重い。そのため水と違って、実はちょっとしか持ち上がらないんです」
倒立したフラスコに満たされた魔導銀。
この液面を押し上げるのは、大気による圧力――大気圧だ。
フラスコの魔導銀は、口が水槽に浸かっていることで、水槽に満たされた魔導銀と繋がっている。この水槽側の液面に重石が載っていると考えれば、気圧を理解しやすい。
でも重石の力は無限ではない。
水槽の液面全体が下に押されれば、管に満ちる魔導銀には、管を上昇する圧力がかかるのだが――
「サニーの世界では、1気圧の環境で水銀柱は76センチになります。これ以上は、大気圧が水銀を押し上げられないんです」
これは管の太さが変わったり、管の先がフラスコのように丸くなっていても変化しない。
『パスカルの原理』という。
大気が流体を押しているとき、同じ面積にかかる圧力は流体のどこでも同じである。油圧機構でも使われる原理だ。
液体の魔導銀が気圧を指し示すのも、ストローで水が飲めるのも、パワーショベルの油圧機構も、原理はすべておんなじだ。
「フラスコの液面は、今は75センチ。さっきよりも、気圧が下がってます。大気が私達を押す力が弱まって、魔導銀を上に押す力も弱まったのです」
「だから『大気圧』か。だがこの、液面が下がったところは?」
魔導銀の液面は、75センチ。ただし倒立したフラスコの高さは1メートル弱なので、フラスコの球状部分は液体がない空隙になっていた。
「ここには、何があるのだ?」
「なにもありません」
「ありえない」
「真空といって、空気がない状態です」
「……シンクウ。本当に空っぽ、ということか」
アルバートは額に手をやった。
「『常識』なんて、君の前で言うのもおかしいが……常識では、考えられん」
きょとんとするサニーに、アルバートはくつくつと肩を揺らす。
「……私はこの器具を見たときに、この空隙には魔力が入っていると思っていた。あるいは、フラスコに微少な穴が空いているか」
サニーの頭に、関連する知識が閃く。
「この器具が発明された時は、そのように考える人がいたようですね」
前世の歴史でも、『真空状態は存在できない』と考えられていた。
古代ギリシアでは、『自然は真空を嫌うので真空は存在できない』としていた。その古代による対流や熱移動といった気象説明があまりに優れていたので、真空が存在できないという考え方も一緒に支持されていたという。
この世界でも、同じことが起きていたのかも知れない。
(それか……)
魔法。
既存の理論で説明できないところは、魔法がある分、魔法で説明してしまったのではないか?
天気が魔法で動いているとされたように。
「まずは、雨について話しましょう」
さて、本題。
サニーは気を引き締める。
「今、山小屋の周りは、さっきより気圧が低い状態です。こういう状態を、低気圧といいます。低気圧には、周りから風が集まってきます」
「……それにも、原理はあるのか?」
「あります、色々」
低気圧、高気圧、という分類は、相対的なものだ。何気圧からが高気圧――と厳密に定義されているわけではない。
低気圧があれば、相対的に気圧が高いエリア、高気圧がどこかにあるのが普通だ。そして一般的に高気圧は、空気の密度が高い分、周りに風を噴き出している。
その風が、低気圧側に流れ込むのだ。
「低気圧という考え方そのものも、気になるな。気圧が低い場所は、そもそもどうやってできる?」
「それは――」
大気そのものが巨大な流体だ。
地球ができてから現在に至るまで、絶えず動き続けている。
赤道など、太陽光で温まりやすい海域の水温上昇。それに伴う上昇気流。一万メートまで上がった空気は、対流現象で北極または南極に向かい、高緯度地域で冷やされてまた地表に落ちてくる。
そんな空気の循環に、惑星の自転が風向きをねじ曲げる
低気圧は、このような流動の中で生まれ、消えていく。
熱帯の上昇気流で台風が生まれることもあれば、偏西風が蛇行して渦巻き低気圧に変わることもある。
サニーは思う。
これをアルバートに一度に語るべきだろうか……昨日は語ったが、みんな固まっていた。あれは、そう、機器が情報を処理しきれずに、フリーズするのに似ていた。
「そちらも、色々な発生原因があります」
サニーはわかる。
文字通り、見てきたから。しかし……説明には高度な前提知識が必要だ。
「ふむ、なるほど」
アルバートはあっさりと頷いた。
「一言で語れる原理ではないようだな。いいだろう、君の配慮に感謝する。私も、圧力が低い側に風が流れ込みそうなことはわかった。それで、雨の成因とは?」
「はい。低気圧は周りから風を集めます。集まった風は、低気圧の中で上に向かう流れとなります。空気がどんどん集まってくるので、上空に風を逃がさないといけなくなるわけですね」
「上向きの風が発生するわけか……」
低気圧は、いわば空気を冷たい高空に吸い上げる巨大なポンプなのだ。
「地表付近の、湿気を含んだ空気を上空に吸い上げることで、低気圧は雨を作り、大気を不安定にします。上空にいくほど気温は低く、湿気が雨になるので、空気を上空に吸い上げると雨が降りやすいのです」
サニーは、緊張していた。
今は、地上に信号を送って終わりではない。
アルバートに、理解して、納得してもらわなければならない。
(でないと、サニーは……きっと、お役に立てない)
今後を決める、きっと大事な説明だ。
サニーは静かに、アルバートの答えを待つ。
「――合ってる。おそらく。現時点でさえ、十分に論文で検証する価値がある提唱だ」
ぽつりと呟く、アルバート。エメラルド色の瞳がきらめいた。
「サニー、頼みがある」
錬金術師はサニーの右手を、両手でとった。
「は、はい!?」
「私の……気象研究の、助手になってくれないか!」
朝日を受け、太陽光パネルに光が当たった時と同じ気持ちになった。
「私も、君を知りたい。天気の動きを解き明かすことは、私の悲願だった」
まっすぐにサニーを見つめ、続けるアルバート。
整った顔だちの分、普通の令嬢なら頬を染めただろう。でもサニーは、ただただ、役立てるのが嬉しかった。
ミッション。
この世界でも、天気予報ができる――!
(天気を知りたいと思って、求めてくれる人がいるから……!)
熱くなる心に、アルバートは重ねた。
「この領地は天気が変わりやすい。みんな、助かる。私の両親も嵐で……」
ふっと青年の顔が陰る。
「いや、君には関係のないことだ。とにかく領地には――いや、私にも気象の知識が必要だ。そして、君はこの場で、この世界について学べ。交換条件で、互いに損はあるまい?」
セシルが目を細めた。
サニーも、なんだか変な気持ちになる。
(……この人、なんだか不思議?)
とても固い考え方をするような。
プログラムで動いてませんよね?
サニーは、すぐに自分の考えに首を振る。金髪が左右に揺れた。
(いけません、きっとこの人が普通なのです!)
なおこの時ばかりは、サニーの感性が普通だった。
「私も、魔法の面から気象の研究を進める。魔法と気象の関係を、検証しないでいい理由にはならないからな。そして君は、君の世界での気象原理を教えてくれ。慎重に発表しなければならないが――」
「――!」
セシルが、無言でアルバートの腕をつつく。アルバートは、はっとサニーの右手を離した。
「すまない、君の説明に驚いて……失礼した」
「い、いえ!」
サニーはぐいと距離を詰める。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
真下からエメラルド色の瞳を見上げると、アルバートは咳払い。
「暮らしや振る舞いは、リタから学べ。彼女は面倒見がとてもいい。それとだ、君は時々、距離が近い」
「わ、わかりました……?? ええ……?」
サニーでさえ、『自分のことは棚に上げて』ときょとんとした。
「――やっぱり、変わってます……」
「……!? 君がいうなっ」
「――♪」
セシルが肩をすくめて首を振った。
外では、いつの間にか雨が上がっている。雲の切れ目から陽光が注ぎ、露をまとった世界をきらめかせていた。
層積雲から帯のように光が注ぐ、幻想的な気象現象。地球では『天使のはしご』とも呼ばれている。
その名の通り、まるで空へと続く道のようだった。
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お読みいただきありがとうございます。
これにて第1章は終了、明日から『第2章:子爵領のお天気令嬢』を始めます。
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