第31話 リガッタ死す(社会的に)

 脱衣所から、すりガラスのドアの向こう、大浴場ヴィヴォールの湯へ。リガッタは意を決して踏み込んだ。


「おお、これは……」


 むっと押し寄せる強烈な熱気と、湯気。そして、聞くに違わぬ猛烈な魔力を感じる。いかなる薬草を煎じているのかはわからないが、猛烈な草の匂いが鼻奥を刺激した。床は脱衣所と同じくタイルだが、黒で統一された随分とシックな印象。そしてその向こうにこそ、二十人が余裕で湯に浸かれるであろう大きな浴槽があった。


「おう、あああああああ」


 そして、そこでなんだか変な気分になる声を上げている男が一人。他ならぬカナンであった。


 今は、もう後頭部しか見えない。そして、リガッタが傍にいることにも気づいていないらしい――今の内だ。


 リガッタの計画は単純である。浴槽の内、カナンから離れた場所に身を置き、隙あらばチェッキン。そして、熱いと言って離脱。完璧なプランである。


 とはいえ、マナーは守らねばなるまい。リガッタはそそくさと、浴場の側面に設置された手桶で傍の湯を組み、軽く体を流そうとした、その時。


「あ、リガッタ君、ちゃんと体を流してから入ってね。マナーだから」カナンが振り返ってリガッタへ大浴場の正しい入り方をレクチャーする。


「知ってますよ!」リガッタは素早く正面に体を回し、カナンに吼えた。


「あと、ちゃんとタオルはとってね」


「な……知って……ますよ」


 普段は気遣いに溢れ優しいカナンであるが、どちらかというと彼はマナーやルールに厳しいだけかもしれない、とリガッタは思った。そして、リガッタもまたマナーを守る意識はある。だが。


 ――わたしは、タオルを取った瞬間死ぬ。


 故に、リガッタはタオルを取る気は一切なかった。カナンに難癖付けられる前に一撃離脱するのだ。ワンチェッキン、ゴーアウト。


 だが、カナンの不審そうな視線はずっとリガッタに突き刺さり続けた。そう、それはきっと、リガッタが胸から股までをすっぽり覆うタオルを外すまで続くだろう。だが、外した途端、リガッタは死ぬ。


 リガッタの計画はこうして崩壊した。


「早すぎる」リガッタの呟きがぽたぽたと床のタイルに零れ落ちた。


「バス・オア・ダイ……」


 リガッタの全身が震え、血の気が引く。呼吸が浅く連続して続き、心臓の鼓動だけが早まる。目の前には湯も湯気もたっぷりなのに、喉が渇いてきた。風呂に浸かる前から汗が、それも冷や汗がじゃぶじゃぶと涌いて背中を垂れていく。


「どうしたの、早く入った方がいいよ。顔色も悪いし、震えてない?」


「お前のせいだよ」リガッタは消え入りそうなほどの小声で言う。反して、今度は心配そうな表情をして、湯船からなんと、カナンが立ち上がった。


「いやっ、それはっ」


 リガッタは思わず顔を背けた。チェッキンチャンスなのは間違いないし、キャメラもある。だが、今は両手でタオルを抑えつけている都合、チェッキンは作れない。というか、カナンを直視すらできていない。いくら決心しようとも、体は、否、理解不能の羞恥心は正直だった。


 ——やっぱり無理! 見ちゃダメな気がする!


 結果、リガッタは身を捩り顔を伏せて小さく丸まった。


「どうしたの、何かあった?」


そして、何も知らぬ気付かぬカナンは躊躇いなく近付いてくる。もう駄目だ、逃げてしまおうか、そう思ったが、体が動かない。それは、単純な恐怖だった。今、リガッタ・ゲダール、否、リコット・ダゲレオは、布一枚を剥いだだけで死ぬのだ。


 ――浅はかだった。たったこれだけ、全裸のカナンが接近してくるだけで全身が緊張して動かなくなる。恐怖か、はたまた周知か。それはわからない。ただ……


 ——助けて!


 リコットの心臓は大暴れ、それなのに体は恐怖で動かない。リガッタの体に影が大被さった。その時であった。


「まあまあ、カナン先輩、落ち着いてくださいよ」


 優しくて、ちょっと適当で、陽気な声。リガッタは思わず声の主を見上げた。


「ソニ君?」


 同じ一年第三部隊所属、ソニ・サイハット。転入初日にも、リガッタを明るく迎え入れてくれた生徒だ。彼もまた、股間のみを布で隠し、リガッタの隣に立っていた。


「君は、一年生か?」少し怪訝そうな表情をカナンは浮かべている。対して、ソニは苦笑い。


「初めまして、カナン先輩。お噂はかねがね伺っています。僕はソニ・サイハット。リガッタ君と同じ部隊です」


「そうですか。それで、いきなりどうしたんですか」カナンは警戒するように言う。対して、ソニはあくまで明るく返した。


「いえね、うちの部隊のリガッタ君が困っているようですから」


「困っているって?」


「ええ。そうです。何せね、リガッタ君には秘密があるんですよ」


「ひみっ!」


 リガッタは悲鳴を上げた。ソニ・サイハット。人畜無害な顔をして、何を言っているんだ。リガッタは思わず、タオルごと自分の両肩をきつく抱いた。


 リガッタの秘密といえば、一つしかない。


 ——わたしは、女だ。


 いつソニがそれを確信したかはわからない。だが、ばらされて困る秘密といえばこれ以外にない。逆説的に、リガッタはこうして、死を覚悟した。


「それはね、カナン先輩……」


 ――言わせてはいけない。このソニ・サイハットの口を塞がなくてはいけない。


 だが、どうせ腕力で勝る彼に、いかにして勝つべきか。リガッタはいい方法が思いつかなかった。このへらへらした男、しかしてやはり勇者創成を掲げる学園の生徒なだけあって、やはり隙間なく鍛えられている。後ろ姿だけでもそれがすぐに理解できた。できれば服も来てほしかったが、ここは風呂なので仕方がない。今、リガッタの片手は顔を抑え、■■■■■が視界に入らないようにするのに忙しく、もう片手を外せばタオルが開けて即死するのだ。そもそも八方塞がりだった。


そんなリガッタの様子にもまるで気付かないようで、ソニは快活に、リガッタの秘密を暴露した。


「リガッタ君はね、乳輪が滅茶苦茶でかいんですよ」


「乳輪が」


「滅茶苦茶でかい?」


 ——乳輪が、滅茶苦茶でかい?


 カナンとリガッタが呆然としてソニの言葉を繰り返した。ソニは満足そうに頷いた。


「乳輪がめちゃくちゃでかいんですよ」ソニは繰り返した。リガッタの顔が風呂に浸かっていないのに赤く熱く染まる。毛穴から血が噴き出そうになる。


 一番驚いていたのはリガッタだった。そんなにでかいなど知らなかった……否! 比較対象は精々姉や母親のみとはいえ、それでも、そんなに言われるほどではないはずだ。きっと普通ぐらいと自認している。だとしたら、何故彼はそんな風説の流布を? 何か嫌われるようなことした? 否、問題は本当にそこか?


 リコットの脳内を疑問と混乱が跳ねまわった。


「授業の時、着替える機会があったのですが、それはもう、リガッタ君の乳輪はすごいですよ。パンケーキみたいです。乳首が……」


「んなっ、そんなには大きくない……」


 ついに我慢ならず飛び出たリガッタの抗議を、ソニはそっと手で制した。任せろ、とでも言いたげだった。そこで漸く、リガッタはまず、授業中に着替える機会がないことを思い出した。これは最重要である。


 ――わたしリコットは、授業で着替える機会に遭遇していない。故に、ソニが乳輪のサイズを知りうる機会は皆無、絶無である。


 戦闘訓練も制服のままだったし、ましてや乳輪のサイズを見られる機会などありえない。ソニは嘘をついている。


 ——否、嘘は嘘だが、庇われている?


 リガッタは努めて冷静に思考する。そう、まるでソニは、リガッタを庇っているように感じた。


「……いや、なんでだ?」リガッタは思わず声を漏らした。あまりにも意味が分からなかったからだ。あと、庇うにしたって他に方法があるとも思った。


「そう……なのか……」しかして、リガッタの混乱や、何より理由不明のソニの嘘など気付かないカナンは神妙な面持ちでそう言って、ゆっくりと湯船に帰っていく。足音と水音でリガッタはそう判断した。


「ま、恥ずかしがることもないと思うけどね。だから先輩、ここはあまり気に懸けないでやってください。恥ずかしがってるんですよ、リガッタ君は」


「そうか……すまない。配慮が足らなかった。最近はセクシャルハラスメントの定義も広いし、何より不快に思ったなら謝らせてほしい。そうだよな、人にも色々あるもんな」


 カナンの消え入るような声に対し、逆に申し訳ないとリガッタは内心謝る。


「そういうことですよ、先輩。顔はずっと壁の方を向いていた方がリガッタ君が安心します」


 そう言って、ソニは満足そうに手桶で湯を汲み自身の体をさっと流す。リガッタはほっと胸を撫でおろした。なんでかどうしてかはわからないが、ソニのおかげでリガッタ最大の秘密は守られた。否、一命をとりとめたといってもいい。安堵の溜息まで漏れる。全身の筋肉が弛緩し、頭が少しぼんやりするほどだった。もう風呂に浸かった気分だった。


「これは貸しだよ、リガッタ君」


 油断していたリガッタの耳元で、そっとソニが囁いた。

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