第30話 オビュリシカ王国名湯百選『ヴィヴォールの湯』

 レンフィーマ・アカデミー大浴場・ヴィヴォールの湯。魔王討伐を成し遂げた勇者が訓練の後よく通っていたという薬湯を使った大浴場に、カナンとリガッタは来ていた。


 リコットも大浴場という存在自体は知っている。ずっと幼いころの思い出である。


『リコット、こっちに入ったら男の人たくさんいた! だからリコットは逆に入った方がいいよ!』

『嘘じゃないよ! ドアには女って書いてあるけど中は男だらけ! ほんとだって!』

『あ、駄目! お父さんには言わないで! お父さんが捕まっちゃう! 冗談だって!』


「……今更だけど、本当にあのお姉ちゃんの最期の願い、叶えてあげる価値があるのかな?」


 リガッタはふと、そんなことを思ったし言った。


「なんか言った?」リガッタの独り言にもちゃんと反応する男、カナン・キルノ。だが、独り言には独り言たる所以がある。リガッタは首を振り、関係ないことをアピールした。それを見てカナンは少し不思議そうな顔をしていたが、目の前に『ヴィヴォールの湯』なる看板を見つけると、歩を速める。優先順位は異なるようだった。リガッタも慌ててそれに続く。


 そんな彼の背中の向こう、噂よりもかなりひっそりとした雰囲気の中に、ヴィヴォールの湯の入口はあった。看板も派手というよりは厳かだった。


――リコットの記憶にある大浴場の入り口は男女に分けられていた。それが、当然ヴィヴォールの湯にはない。


「これが、勇者ヴィヴォールの通った伝説の薬湯……」カナンは感慨深げにそう言って、チケットを握り締める。それを、五、六歩程後ろからリガッタは見つめていた。


「どうしたの? 入らないの?」


 そして、漸くカナンは、いまだに大浴場から距離を置こうとするリガッタを気に掛けた。その顔はなぜかしょんぼりしているようだった。


「いえ、大丈夫です! お風呂楽しみですね!」


 そんな彼に、水を差すようなことをリガッタは言えなかった。そして何より、ここから先はチェッキンチャンス、それもボーナスタイムに違いなかった。トイレ掃除の比ではないだろう。リガッタは唾を飲み、ここから先、めくるめく現れる■■■■■の群れ達に対し、ついに覚悟を決めた。


 ■■■の数が多ければチェッキンチャンスも増える。そして、チェッキンを作ったら、カナンを置いて離脱する。完璧なプランだ。


「行くぞ」


「そんなに気合入れなくてもいいと思うよ」


 結婚前、それなのに大勢の■■■■■を見てしまうことは、もうしょうがない。未来の旦那様、なんだかちょっとごめんなさい、とリガッタは心の中で謝罪した。


 ドアの傍に、小さな箱がある。ここにチケットを入れると、ドアが勝手に開く。なるほど、とリガッタは思った。


 その先、脱衣所もまた、特に派手な装飾はない。水捌けのよさを優先したらしいタイルの床に、麻の敷物。装飾控えめの棚が七列。着ていたものを脱ぐためであろう。盗難防止の術がかかっていることをリガッタは察する。その奥に、大浴場の出入り口がある。その横にはタオルが棚に納められている。好きに持っていけ、ということだろう。カナンが手ぶらで問題ないと言っていた理由をリガッタは瞬時に理解した。


「なんで先にタオルを取りに行くの?」


 とりあえず真っ先にタオルへ走ったリガッタへ、当然の疑問をカナンは投げる。しかしてリガッタには、彼へ返事を投げかけるより大事な用があった。タオルを広げてみる。サイズチェック、良し。胸から下まで隠せることは間違いない。


「あ、あの、ふかふかなのかチェックしたくて」遅れてリガッタは、引きつった笑みとともに振り返り、カナンへ返事をした。カナンはぎこちなく、そう、と言って首肯した。


「肌触りは気になるよね」合わせてくれたのか、本心なのか。リガッタにはわからなかった。そうして、漸く周囲を見渡して、リガッタは一つの結論に至った。


「誰もいませんね」


「そうだね。意外だけど」カナンもまた、脱衣所を見回して頷く。棚の中にも衣服はなく、浴場にも人がいないことが察せられる。助かった。リガッタはまずそのことに感謝した。


「でも、今日は独り占め、いや、二人占めってことで楽しもうか」


「あ、はい!」


 リガッタはつい、反射的にそう答えていた。だが、冷静に考えるとこれはこれでまずいのではないか。そんな気がした。だが、何がまずいのかはさっぱりわからなかった。ただ、隣でなんの気配りもなく堂々とカナンが服を脱ぎ始めた時、リガッタは無意識のうちに跳ね飛び、慌てて真逆の一番遠い列まで駆け抜けた。


「え、どうしたの?」


「いえ! お気になさらず! あ、ほら! あの! 広く! 広く使いましょう、ここを! こうね!」


 棚越しにリガッタは声を張る。


「まあ、リガッタ君がそれでいいなら」


 カナンはお節介ではあるが、そこまで他人を詮索しないタイプのようで、それが今、リガッタにとっては何よりも助かった。


「じゃあ、先に入ってるよ」


「早い」


 リガッタはついつい感心した。もしかしたら、リガッタに対して深く構わないのも、ただ単に薬湯が楽しみなだけなのかもしれない。


 そっと棚から顔を出してみる。すると、医務室ではついぞお目に掛かれなかった全裸版カナン・キルノ(背面)が見えた。彼は堂々と小さいタオル一つを手に取り、すりガラスのドアを開け放ち、その先へ行ってしまった。


「あ」


 そうして、まずは最初のチェッキンチャンスを逃したことに気付く。普段のカナンであれば、湯に入る前にひとことぐらい声をかけてくれたかもしれないが、浮かれているらしい今の彼にそれは期待できなかったようだ。


 ――めくるめく大量の■■■のチェッキンは、ヴィヴォールの湯が寂れているおかげで失敗した。そうなれば、次なる手はカナン・キルノしかいない。


「おぅ……」


 リガッタは湯につかる前から全身が熱くなるのを感じた。ああ、やっぱりこれ、何かがまずいと直感する。


「危険が危ない……」リガッタは唾を飲んだ。だが、ずっとこうしているわけにもいかない。リガッタも服を脱ぐ。さらしも取り払う。そうすると、もう声を除けば完全に女である。とはいえ、首から上は化粧なし、年頃の女にしてはあまりにも短い髪にしてあるおかげでそうは簡単に言い切れるのかどうかわからないのがもどかしいが。


そしてリガッタは、意を決し、しかしてタオルを胸から下までぐるりと体に撒いて、しっかり固定してから内股で前進した。その首に、キャメラをひっかける。


 ――狙うは、一撃離脱。

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