第24話 トイレ掃除開始

 レンズに移ったものを克明な『画』=〈チェッキン〉として残す魔道具〈キャメラ〉を使いその製造者であり大魔術師の姉ライカ・ダゲレオの最後の望みを果たすため、彼女の妹リコット・ダゲレオは、女人禁制男子の学び舎、勇者創成学園レンフィーマ・アカデミーに、リガッタ・ゲダールとして潜入していた。


 彼の目的はただ一つ。姉好みの男性の■■■を〈キャメラ〉に映し、その〈チェッキン〉を作ること。だが、その道のりは容易ではない。そう思っていた。


 そんな彼が紆余曲折を経て手にしたチャンス、それは学内の共同トイレ清掃だった。女のままであったらほとんど侵入不可、道徳的に困難な最も女人禁制の聖地に、リコット、否、リガッタは易々と足を踏み入れ、長く滞在する機会を得たのだ。ここでなら、■■■が見えるチャンスがあるかもしれない。


「なんか、凄く嬉しそうじゃない?」そんなリガッタへ小首を傾げるのは、紆余曲折の原因の一つを担う先輩、カナン・キルノ。


「そんなことないです! 大丈夫です。落ち込んでます!」リガッタは慌てて大声で返事をした。


「それはそれで心配なんだけど……でも大丈夫、おれは結構慣れてるからね」


 逆に心配なんですが、という言葉をリガッタは飲み込んだ。


「ちなみに、体は大丈夫? 今日からが本格的な授業だったでしょ?」


 今は放課後。朝の決闘騒ぎから十時間ほどが経っている。昼頃に通達があり、正式に二人に罰が課されたのである。そんな二人がいるのはその共同トイレ掃除の記念すべき一つ目。第一校舎の一階共同トイレ。宮殿と見紛う絨毯まで敷かれた廊下の先に、なんとなく陰気な雰囲気の扉がある。


「大丈夫です。こう見えても、そういうのは慣れているので」リガッタは伏し目がちに答えた。


「じゃあ、てきぱきやろう」


 そういって、カナンはあくまでも明るくドアを開け放つ。


「ほう、こうなっているのか」リガッタはなるほど、と目を細めた。


 初めて見る男性用共同トイレ。


 なんとなく暗い部屋だが、タイルが敷き詰められていて、水で掃除されることが前提となった、広さにして十メートル四方ほどの部屋。しかして、不可思議なのは、個室のトイレの数が少ないこと。百年前の古い家ならともかく、建物中に水を通す技術、並びに魔術が確立して以降、共同トイレは個室に区切られているのが普通のはず。違うのはダゲレオ家の古い別荘や修行用の古い館ぐらいだと思っていた。


「思ったより古いですね」というわけで、リガッタはそう感想した。


 特に、開放型の細長い便器が壁に沿って置いてある辺り、見たことのないそれは、きっと相当古い形式に違いなかった。しかも、壁に向かうにしてもそうでないにしても、便器同士の距離も近く、それに向かって蟹股で跨るとは、なかなか惨めな見た目になるに違いなかった。


 そんなスタイルの対手に、この〈キャメラ〉を向けるのはなかなか複雑な心境である。


「やっぱり、こんな年代物があるなんて、歴史があるってそういうことなんですかね」リガッタは一人ふむふむと唸った。


「そうかな。あんまり他と変わらないと思うけど」


「おれもそう思います!」カナンの言葉に飛び上がり、リガッタはスマートに前言を撤回した。カナンは一瞬、やっぱり訝しむような表情をリガッタへ投げたが、すぐに顔面を切り替えた。


「よーし、掃除するぞー」


 そういってカナンは、壁際に作られた道具入れからモップを取り出し、リガッタへ手渡す。リガッタは黙ってそれを受け取る。今のところ二人しかいないため、当然チェッキンチャンスは訪れない。仕方ないので掃除に従事する。


 カナンはさらに、道具入れ脇のスイッチを押すと、トイレの床を水で満たし始めた。


「で、あとはモップで一通り擦れば床は終わり。あとは便器の中がよっぽど汚れていなければ次に行こう」


「これって、魔術で全部何とかなりませんか」


 リガッタは思わずそう訊ねた。訊ねてしまった。すると、カナンは少し驚いたように硬直したが、やがてこういった。


「罰だからね。元々、遅刻や無断欠席の罰は、死体掃除だったんだってさ」


「し、死体……?」リガッタは自然と身を固くした。


「学園にこっそり入学していた女子生徒を、トイレに磔にする刑があってさ。それが腐るまでに出てきた色んな汚物を掃除するのが、本来の罰って聞いてるよ」


 リガッタの血の気が一気に引いた。そういえば、そんな処刑があったとベダから聞いていた。


「ひいっ!」リガッタの視線が、トイレの中央に走る。大きなブロックがそこに鎮座し、中央には穴まである。磔用の柱を立てるのにおあつらえ向きであった。なんとなく、そこに磔刑に架せられる自分の姿が浮かんだのだ。


「もしも、今でも、この学園に女子がいて、それがばれたらきっと、こういうところに晒されてから殺されるんだろうね」


「あ、明日は我が身……」リガッタは奥歯を鳴らして〈キャメラ〉を抱いた。


「ん、なんか言った? リガッタ君が怖がることはないだろ?」


 そういって、カナンはリガッタの肩を叩く。元気づけるつもりだったのだろうが、リガッタの踵が床から浮いた。


「も、勿論です。おれは男ですからね! 生粋の! 生まれてからずっと男ですから!」


「いや、磔刑に処される人は見たくないだろうし、掃除も嫌じゃないかなって意味だったんだけど」


 その不審そうな眼差し、それがリガッタの胸に刺さる。


「あ、いや、わた、おれもそう思って……そうですね、死体は見たくないですね!」リガッタは首を縦に振り、カナンに同意する。だが、彼の視線は鋭くなるばかり。そして、彼は慰めるように言葉を発す。


 ——ばれる! しかも、自分の失言が原因で。


 リガッタは今すぐにでも消え入りたい衝動に駆られた。


「……もしかして、ブギーに『お嬢様』って呼ばれたこと、気にしてる?」


 なんのことだろうか、と考えて、リガッタはやっと、転入初日の自分に絡んできたあの男、ブギー・ブイルドンを思い出した。彼と比較すれば、元々女ではあるものの、リガッタの体格の華奢さはより際立つ。加えて、傷ついたカナンを見ているだけのリガッタへ、ブギーが投げかけた侮蔑の言葉が『お嬢様』だった。


「気にしなくていいよ。それに、リガッタ君はおれより強いし」


「いえ、そうじゃなくて……」


 リガッタは慌てて言葉を続ける。


「おれこそ、最初に助けてもらったとき、何もできなくてすみませんでした。それと、助けていただいて、ありが……」


 結局言えていなかった言葉。それを口にしようとしたとき、トイレのドアが開いた。カナンと同じ、百七十センチメートルほどの男子生徒。彼はそのまま二人の間を通り、個室ではなく壁面の便器に向かった。その瞬間、リガッタの心が躍った。


 ——チェッキンチャンス!


 こちらを向いて用を足すのか、向こうを向くのか。こちらを向けば、完璧なチェッキンチャンスである。リガッタは彼の動向に注視した。


否、見てていいのだろうか。悪いことはしていないはず、と自分に言い聞かせるが、不思議と顔が熱くなるのを感じる。だが、観察し、隙あらばチェッキンを作らなくてはならない。リガッタは結局、横目でしかし、注意深く対手を監視し続けた。対手は、二人に背を向け、そしてそのまま壁に向かって動かなくなった。ただ、静かに水音だけがする。


「あれ? これだけ?」リガッタもまた、硬直して用を足す彼の背中を見つめ続けた。


「リガッタ君、とりあえず床の水気を側溝に流し込んで、掃除終わらせよっか」難しい顔をして、カナンはリガッタを肘で小突いた。


「……」ところが、リガッタは一歩も動かない。立ったまま、ついに排泄を終えたらしい彼の動きを目で追うばかり。ついに手洗い場で手を洗い、リガッタの脇を通って出てしまった。対手の彼も最後、じっとリガッタのことを不審そうに睨んでいた。


「リガッタ君、あんまりトイレ中の人を見てちゃ駄目だと思うよ。君も嫌でしょ」


「あ、はい……すみません」


 意識を取り戻して返事をしたものの、リガッタは上の空だった。なんか、思っていたの違った。そう感じる。同時に心臓の鼓動も早まる。理由はよくわからなかった。


「よし、次行こう!」


 結局、その共同トイレの掃除はカナンに任せてしまった。やっぱり上の空のリガッタは、そのまま彼に導かれて次のトイレへ。


 今度はリガッタが壁面のスイッチを押し、水を床に流す。そして、それをモップで側溝まで押し流して清掃。その間に、二人の男子生徒がやってくる。その二人をリガッタは具に観察したが、どうも隙を見せない。無防備なはずなのに、どうにも〈キャメラ〉に半ば手を掛けるリガッタを警戒している、気がした。


 そもそも、例えば用を足す対手の真横に回り込んだところで、うまく〈チェッキン〉が作れるかもわからない。それは、改めてこうして用を足している彼らの■■■■■■を直視するということに対しての抵抗感でもあった。


「大丈夫? リガッタ君、顔真っ赤だよ」


「そんなこと、ないですよ」リガッタはつい、両頬に手を添える。熱かった。これでは、チェッキンを作るなど、夢のまた夢。そうだ、そもそもリコットも、男性の■■■■■をまともに見たことはない。そして、それを直視するなど、想像しただけで、全身がむず痒い。


「あの、もしもなんですが、誰かが用を足していたら、耳とか塞いでおいた方がいいですか?」


「そんなことないと思うけど。どうかした?」


 その言葉を聞き、リガッタはもう駄目だと察した。自分には、あまりにも向いていない。少なくとも、共同トイレからのチェッキンチャンスには無理がある。


 否、それ以前に、勝手にチェッキンを作ること、これは本当に正しいのだろうか。リガッタはふと考えた。

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