第16話 彼との晩餐

 あっという間にカナン・キルノはリガッタ・ゲダールを自分の部屋に連れ込んだ。当然、悪意は一切なく、彼はシャワーが壊れたリガッタを助けるために、自分の部屋を案内したのである。


「タオルもおれの使っていいよ。歯ブラシも新品があるから好きにして。シャンプーは気にするタイプ? 髭剃りは、君はいらないか。あんまり夕方でも伸びないタイプなのかな。羨ましいね。でも、気になるなら置いてあるから使っていいよ。でも流石に他人のは気になるかな。だとしたらごめんね」


 しゅるしゅるとそう言って、カナンはリガッタにタオルを押し付けた。


「じゃあ、よいシャワーを」そういってばたん、とドアを閉め、カナンはリガッタの視界から消え去った。


「あ、ありがとうございます……」


 リガッタはその結果、引きつった笑みを浮かべながら押し付けられたタオルを抱え、シャワールームに閉じ込められたのである。


「どうしてこんなことに……」


 そして、小声で呟く。あれよあれよと引っ張られ、気付けば彼女は、ほぼ初対面の男の部屋で、服を全て脱いで、シャワーを浴びようとしている。


 勿論、カナンは自分をただの転入生、かつ男だと思って対応しているはずだ。彼は親切心で右も左もわからない後輩の世話をしているだけ。


「親切すぎるだろ」


 リガッタはそのタオルから漂う優しい花の香りに涙した。リコットにとっての男のバリエーションは父ぐらい。豪快で乱暴で汗臭かった。だが、目の前の彼はどうだろう。行き過ぎてはいるが、繊細で優しく、配慮に満ちている。


 とはいえ。リガッタはこっそりシャワールームから顔を出し、カナンの様子を伺った。


 ——テーブルを拭き、食器を配置している! しかも二人分。


「こいつ、わたしをもてなそうとしている……!」


 リガッタは目の前の光景が信じられなかった。こんなに良くしてもらう理由はない。とりあえずシャワーをささっと浴びて出ていこう。ここまで気遣ってもらって、シャワー一つ浴びないで出ていくのは流石に失礼、かもしれないので。


 シャワールームのドアに、ちょっとした封印を施す。〈ボイスチェンジリング〉は変化の術がかかっている。その『流れ』を利用し、ドアを変質させて開きづらくした。リガッタとて、姉ほどではないが魔術の知識も技術もある。


 そうして少し安心しながら服を脱ぎ、シャワーのレバーを捻る。すると、当たり前だが水が出た。それを頭から浴びる。水滴が自分の形を象っては流れ落ちていく。今日一日のありとあらゆる嫌だったことを水が打ち付け、そんな経験をしてきた自分を押し流していく――なぜか一緒に流れ始めた涙も、鼻水も、一緒に。


すぐに出るつもりだったが、最終的にどれほどの時間を過ごしてしまったのか、リコットにはわからなかった。ただ、なんとなくすっきりした気分でリコットは、シャワールームを出た。


「長かったね。やっぱりシャワーを浴びるとすっきりするよね」


 そんな彼女を出迎えたのは、脂の焦げる甘い匂いや香草の刺激的な薫り。二人が向かい合うのが精いっぱいの小さなテーブルの上に、肉料理とパン、温野菜が盛られていた。


「どうかな。折角の転入祝いをしようと思ったんだけど」


 そういうカナンは、少し照れたように視線を泳がせていた。その様子がおかしくて、つりリコットは笑って、


「ありがとうございます」


 と口走った。すると、カナンの顔が見る見るうちに変わっていく。目を丸くし、口をあんぐりとさせる。


「今、君の声……」


「あっ」リコットは慌てて自分の指をみて、〈ボイスチェンジリング〉がないことに気付く。


「ちょっと失礼」精一杯の低い声でそう口走り、シャワールームへ。危なかった、ちゃんとそれは台の上にある。


「すみません、すごいいい気分で、声が上ずったようです。落ち着いたから大丈夫です」


 指輪を戻してもう一度。今度はちゃんと男の声になっている。


「そう、ならいいんだけど」


 カナンは不思議そうな顔をして、リガッタへ向けて椅子を引く。


「そんなことはないだろうけど、女の人の声みたいだったね」


「ぎぇ」リガッタは小さく悲鳴を上げる。その様子がおかしかったのか、カナンははっはと笑い、冗談だと言う。


「でも、もしも君が女の子だったら、間違いなく生きたまま頭蓋骨を割られて、その中に千を超える蛆虫を注がれて死んでるからね。本当によかったよ」


「急に未知の全く新しい気味の悪い殺し方披露しないでください」


「ごめんごめん。食事の前なのにね。どうかな?」


 そういって、改めてカナンはリガッタを席に誘導した。仕方ない、ここまでされては断る方が悪であろう。


「わかりました。今度お代は家の方から……」


「そういうのは後でいいから。料理が冷めちゃうし」


 リガッタはカナンの誘導に従い、席に着く。パンから暖かい小麦の匂い。肉料理に掛かったソースもつやつやと輝いて見える。リガッタは思わず唾を飲んだ。


「さあ、どうぞ」


 とはいえ、困惑して動けないリガッタを見かねてか、カナンは早々に自分の料理に手を付けた。


「大丈夫、食べれるよ」


「すみません、そういうつもりじゃ……」


 慌ててリガッタは料理を口に含む。肉料理につけられた下味らしい香辛料が口内から鼻に抜ける。今日一杯の疲労へ染み入るように、塩味が舌一杯に広がる。唾液が口にどっと噴き出た。


「おいしいです」その一言は、リガッタの口から自然に漏れていた。


「よかった。口に合わなかったらどうしようかなって」


 嬉しそうにカナンは微笑んで食事を進める。


「この料理は、どこから持ってきたんですか」


「作ってきた。下に共同の調理場があってね。まあ、ここの生徒はほとんどみんな食堂で済ますんだけど」


「すごいですね」


「本当は食堂の方がおいしいと思うけど、こっちのほうが気楽でいいでしょ」


「はい。ありがとうございます。先輩の料理、おいしいです」ついそう返事してから、リガッタは自分が、どうも人がたくさんいる場所が苦手な後輩だと思われていることに気付いた。


「気に入ってもらえてよかった。今日のは力作だからね」


 リガッタはパンにも手を付ける。当然焼きたてということはないだろうが、その温め方はまさにそれにそっくりであった。焼けた小麦の香りが唾液腺を刺激する。それにしても、肉料理のことも含めて、このカナンという男子生徒、戦いはともかく料理の腕は相当に高い。パンだけでも十二分に食欲をそそられ、リガッタの手が止まらない。


「おかわりもあるよ」


 そんな様子を見かねてか、カナンはそんなことを言う。すると、急に恥ずかしくなってリガッタは手を止めた。


「すみません、つい」


「いいや。いいんだ。ところで聞きたいことがあるんだけど」


「なんでしょうか」そういいながら、リガッタは、気付けば最後の一片になっていた肉を口に含んだ。


「ちゃんと名乗ってなかったけど、おれはカナン・キルノ。二年生。それで、今更ではあるんだけど、君、名前なんて言うの?」


 リガッタは茫然とした。そういえば、自分は彼に一度も名乗っていない。カナンは決闘の時にブギーに名乗っていて、それで名前を知っていたのだが。とすると、カナンは名前も知らない、見たこともなかった転入生に、ただ寮の管理人の面倒を見てやれ、の一言でここまでもてなしたのだ――なんというお人よしだろうか。


「リコ……リガッタ・ゲダールです」


「そう。ゲダールさんか。あんまり聞かないね。じゃあ、リガッタ君。これからは、この部屋は好きに使っていいよ」


「え?」急なカナンの言葉に、リガッタは面食らって動きを止めた。


「手続き上も、シャワールームが使えるようになるまではそうするように、管理人には伝えておく。お金は気にしなくていい。こう見えても、貯金は少しあるからね。これは鍵」


 カナンはそう言って、急にリガッタの手を取り、鍵を握らせた。


「待ってください、どういうことですか?」


 リガッタは、なんとなく嫌な予感がして訊ねる。


「おれは明日、ここをいなくなる。だから、この部屋はリガッタ君に使ってほしい」彼は、そうなって当然、といった声で、なんの感情もなくさらりと言ってのけた。


 だが、リガッタは違った。急に目の前が暗転したかのような衝撃が下る。今日、授業中にソニから聞いたこと。それがリガッタの脳裏に蘇った。

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