第13話 リコットになる
その日の授業、およびリガッタ・ゲダールの初めての学園生活の記憶はほとんどない。後に彼女はたった一言、怖かった、とだけ語る。
『歓迎会は今度にしよう。折角だから食堂を予約してさ!』
ソニには頭が上がらない。彼はそう言って顔面蒼白のリガッタから仲間達を遠ざけてくれた。
「リガッタ君の寮はここだね。僕は隣の寮だから」
そう言って、最後に彼はリガッタの寮を案内してスキップしていなくなった。取り残された彼は、自分の寮を見上げた。赤いレンガ造りの建物。年季は入っているが、悪い時間の過ごし方はしていないと直感する。流石、貴族御用達の学園である。
『コントラド寮』
そんな看板が掲げられている。リガッタは書類にあった、自分の寮の名前を思い出し、一致していると確認する。
「あんた、見ないね」入ろうとしたところ、入り口の脇の小窓から声がかかった。管理人だろうか。
「転入生の、リガッタ・ゲダールです」
「書類は」彼は冷たく言い放つ。
リガッタは困りつつ、今朝ベダからもらった分厚い封筒を丸々渡した。対手はそこから数枚の書類を抜き取り、中身を確認すると、小さな手帳のようなものだけを残し、もう一度封筒に納めた。
「わかった。入っていい。部屋番号はわかるな」
「はい」リガッタはなんとか落ち着きを抱き締めて答えた。彼の様子をしかと確認した管理人の男は、鍵を二本と封筒と、唯一抜き取った手帳のようなものをリガッタへ返す。
「この手帳には、ここの生徒である証明書も入っている。これだけは肌身離さず持っておけ。届いた荷物は全部部屋にある。あと、悪いことは言わないから帯剣しておけ。この学園はやんちゃが多いからな。それだけで厄介ごとに巻き込まれるぞ」
顔は怖いおじさまだったが、アドバイスだけは親切に感じた。
「あ、ありがとうございます」
リガッタはそういって、さっさと部屋を目指した。廊下を軸に、部屋が向き合って並んでいる。リガッタの部屋は、三階の奥から二つ目。ドアに刻まれた二〇六の文字。
鍵でもってそこを開き、中に入り、閉じて、鍵を掛け。そして、
「はああああああああああ!」
リガッタは、否、リコット・ダゲレオは響き渡るような溜息をどっと吐いた。そして、その場に崩れ落ちる。
「もうやだ! 帰りたいよ! 無理! しんどい!」心底そう叫んだ。
怖い思いばかりだった。門は殺意に溢れた魔術に浸かっており、自分の正体が女とわかれば死ぬよりつらい目に遭った後やっぱり死ぬ、男子生徒に体を触られた挙句脅され、あまつさえ自分を庇った生徒はぼろぼろになって医務室送り。そして、明日には彼が退学になるという。
「知らないよ! 全部全部! なんだよもう……わたしが何したっていうんだ!」
リコットはキャメラを投げ、制服を脱ぎ捨て、さらしを剥がし、とりあえずベッドに飛び込んだ。
救いは、この部屋が相部屋でないことだった。一般的に、寮生活は相部屋が多いとも聞くが、これは姉の気遣いだろうか。誰もいないという安心感が胸にこみあげてきて、ついにリコットはぼろぼろと泣き出した。
そうして泣きつくした後、真っ赤に晴らした瞼のまま、彼女はひとまず顔を上げた。
「すっきりしよう」
今日だけで、真夏のように汗をかいた。自分ではわからないが、凄く臭いかも知れない。
荷物は部屋の隅にまとめられている。積み上げられた箱の内一つをこじ開け、その中からタオルを取り出した。そして、とぼとぼとシャワールームへ行く。湯浴みの施設は共同なこともあるらしいが、なんとこの部屋には一つ一つにそれがある。おかげで、心置きなく服を脱げるというもの。リコットはふらふらしながら手袋も外す。そして、その下、右手中指にある指輪も外した。
『じゃーん、これぞお姉ちゃん七つ道具の一つ、〈ボイスチェンジリング〉だよ!』
その名の通り、声を男性っぽく変化させる指輪である。ちなみに、お姉ちゃん七つ道具は七つも無い。あの人は、その場のノリで適当なことをよく言う。
すでに脱衣済み。そして、鏡の前で自分の体を確認する。比較するのはあの、カナンの体。一瞬でぼこぼこにされてしまっていたが、それでも自分の体とは全く違う。あの鍛えられた凹凸の激しい筋肉など、自分がいくら鍛えても至らないだろう。残りの違い、下半身の状態は不明であるが。
〈ボイスチェンジリング〉を洗面台の上に置く。そうして改めて、裸の鏡の中の自分と目が合った。
「こんにちは」試しに出してみた声はいつもの自分のもの。もう一度指輪を付けて、こんにちは、と発すると、やや高いが男の声。体形も何もかもリコットなのに、と彼女は思わず苦笑い。
『声が変えられるなら、体形とか顔もどうにかならない?』
〈ボイスチェンジリング〉をもらった直後、思わずリコットは姉にそう訊ねた。当たり前であるが、体形こそ最も女だとばれる要因だろう。そもそも、ライカ・ダゲレオは大魔術師である。声どころか体形ぐらい自由自在に変えてほしい。
『やってもいいけどさ、下手すると、本当に男になっちゃうよ。お父さんは喜ぶだろうけど、お姉ちゃんはお勧めしない。声だけだって、長いこと男にするのは危ないんだから。ちゃんと、一人になったら外した方がいいよ』
というのが大魔術師の意見。確かに、動物に化ける術なども、長時間使うと元に戻れなくなると聞く。
『あと、どう頑張っても股間が無理。だってわたし、見たことないもん。男の人に変身する魔導具なんて作れるわけないじゃん。リコットが悪いよ』
とのこと。使えない姉であるが、一方でそんなことができたら自分はこんな目に遭っていないのだ、とリコットはもう一度溜息をつく。
「嫌なこと思い出しちゃった」思わずこぼれ出た独り言は完全に女の声。改めて聞くと、自分の声なのに、なんとなく懐かしい気すらした。それにぞっとして、リコットは首を勢いよく振った。
とにもかくにも、全部洗い流してしまおう。そう思ってシャワーに手を掛けた。レバーに手をかけ、捻る。ところが。
「あれ? 何も出ない?」
リコットもう一度、レバーを捻る。捻る。捻る捻る。だが、何の反応もない。シャワーヘッドはからからに乾いていて、水の一滴もでそうにない。嫌な予感がリコットの全身を支配した。
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