第7話 その男の名前はシグ
どれくらい、廊下に座り込んでいたのだろう。リガッタは両膝に間に頭を埋めて、じっとしていた。
まだ一分も経っていない気もしたが、一方で一時間以上もベダ先生から待ちぼうけを食らっている気分。
——最悪だった。
リガッタはこの学園に来て半日もしない内に、あまりにも恐ろしいことの数々に巻き込まれ過ぎ、早速姉の口車に乗ってしまったことを後悔していた。
見ず知らずの生徒に恫喝され、大変恐ろしい目に遭った挙句、自分のせいで一人の生徒が決闘を行い、これまた彼が完膚なきまでに傷つけられ、医務室送りになってしまった。
「なんなんだよ、何が勇者だ……何が■■■だよ、ふざけるな……」
リガッタはさらに身を縮める。そうでもしなければ、涙が零れそうだった。と、その時、彼女の肩をトントン、と誰かが叩いた。
「今、君、■■■って言った?」
「ひゅぇっ!」
慌てて顔を上げた先、まさに目と鼻の先に、色白のきめ細やかな肌があった。さっきの野蛮な生徒や、ぼろぼろの彼とは違う、傷一つない絹のような滑らかさ。女の自分よりもよっぽど美しいと思った。
「気のせいかな。大丈夫?」
そういって彼は手を差し伸べる。思わずその手を取ってしまった。すると、想定よりも強い力で立たされてしまう。
「君は、見ない顔だね……ああ、転入生か」
彼の視線は、リガッタの傍に放られた鞄に向けられている。その中から、転入届がはみ出ていた。
「この時期に珍しいね。名前は?」再び彼はリガッタへ視線を戻す。緑の瞳がすとん、とリガッタの奥底を見通しているようだった。
「リガッタです。リガッタ・ゲダール」
「ゲダール……聞かない家だ。僕はシグ。よろしくね」
「あ、はい……よろしくお願いします」思わずそう口走った。
落ち着いて相手=シグを見ると、なんとなくさっきのカナンよりは大人びた生徒だと思った。否、下手したらあのブギーよりも年上で、圧倒的な大人の余裕のようなものすら感じる。だが、フィルマータ・アカデミーは五年制の学園で、一年は十四歳が基本である。とすると、彼はどんなに年上でも二十歳には至っていないはず。
「どうしたの? 泣いてた?」
シグは不思議そうにリガッタの顔を覗き込む。つい、リガッタは顔を反らした。
「別に恥ずかしがらなくてもいいのに。とりあえずこれを使うといい」
そういって、シグはリガッタへハンカチを渡した。そんなにひどい顔をしているのだろうか。そう思いながら目元を拭う。するとなんとなく鼻もかみたくなったので、つい、ずずー、とかましてしまった。だが、シグは眉一つ動かさずその様子を見ていた。
「ところで、カナンは見なかった?」そして、何事もなかったかのようにそう続ける。
「えっと……」リガッタは口籠った。なんといえばいいかわからなかった。
「ふむ。知ってるからそんな顔してるんだよね。残念、遅かったようだ。じゃあ、これは君の役目と見た」
シグはゆらりと、背後に隠していた何かを、リガッタの胸に押し付けた。恐怖が先行して後退るが、突き付けられたものは花束だった。優しくて甘い香りがリガッタの気持ちを抑える。
「これは……」
「カナンはね、ああ見えて花が好きなんだ。これはちょうど、大庭園の西にある花壇から拝借してきたものでね。彼は喜ぶと思うな」彼の緑の瞳が再び、じっとリガッタを見つめている。
「な、なんで……」
「医務室は一階だよ。あっちの廊下を真っ直ぐ行って、階段を降りるといい。左手側の建物の側面できっと、カナンは寝ているはずだ」
「はい……でも、なんで?」
「彼は君のために戦ったんだろう? じゃあ、伝えないといけない言葉があるんじゃないかな」
「え……」
その言葉にどきりとした。シグは随分と余裕そうな流し目でリガッタを見つつ、急に飽きたように背を向ける。
「じゃ、僕の役目は終わり」
そう言ってシグはすたすたとリガッタの元を離れていく。残されたリガッタはただじっと彼の背中を見ていた。
ベダから、待ってて、とは言われていた。だが、シグの言葉が引っ掛かる。廊下はさっきと変わらず荒れたままで、絵画は床に落ち、花瓶も割れて中の水を絨毯に吸わせている。
一方、シグから受け取った花束からは、リコットの知らない優しい匂いがした。思えば、フィルマータ・アカデミーはリコットの生家から随分と離れた場所にある。この土地ならではの植物があってもおかしくはない。
花の香りに引っ張られるように、彼女の足は、シグの指した廊下の向こうに向いていて、歩きは早歩きに、そして駆け足になって階段を下りていた。
そう、確かにリガッタは、伝えなくてはいけない言葉があるはずだった。
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