陰火
K
第1話
R山系の山道を約一時間掛けて走り、山頂付近まで辿り着いたらまた一時間掛けて下山する。ちょうど春先なので、さわやかな風と新緑が新しい季節の到来を祝っていた。今でこそこうやって樹木が生い茂ってはいるが、かつては禿山だったらしい。そのせいか土砂災害が絶えない場所だった。市が何十年も掛けて緑化整備をした結果ここまで持ち直した。さらにその前は山岳修行にも使われていたのだとか。
男はそんなR山をマラソンのトレーニングのために毎週末走っている。普段は市街地を走っているが、より自分を追い込むためというべきか、ただの気分転換が習慣化しただけというべきか、正直どちらでも構わないのだが、男にとってはこれが良い刺激になっていた。
男はその日も山頂まで走り、今下山をしている最中だった。疲労こそたまっているものの、まだ十分に走ることが出来る。時刻は午前十一時。このままのペースで走り続ければ昼食までは家に着くはずだと、男は腕時計を瞥見して思った。すべては順調だと。
そんないつもと変わらない週末に転化が訪れたのはこの時だった。
男の頬を生温い手のような風がヌルりと触れたのだ。男は立ち止まって空を見上げた。少しずつ曇天が忍び寄りながら太陽に迫って来ていた。男の背後には夕闇の暮色か、又は、得体の知れない不吉の塊のような静けさと薄闇が近付いている。
ポタリ……ポツリ……ペタリ……。
雨だ。
ポタリ……ポツリ……ペタリ……。
いや、これは雨ではなかった。そう気付いたとき、男の横を青白い火の玉が横切った。鬼火だ、と男は思った。
ポタリ……ポツリ……ペタリ……。
それならば、男の背後からする音はなんだろう?
額から脂汗が滲み出た。脇から、背中からも滲み出るそれは紛れもなく警告だ。心臓の鼓動は一分一秒を争うように速くなっていく。足のつま先から恐怖の色が広がっていくのがわかったが、それ以上に、男は後ろを振り向きたくて、自分の背後に今何がいるのか理解したくて仕方がなかった。
――振り向きたい! 今俺の背後に何がいるのか知りたくてたまらない!
男が意を決して振り向こうとしたとき、背後から何かに押し倒されて尻もちを付いてしまった。それがついにやって来たのだ。
ポタリ……ポツリ……ペタリ……。
相変わらず奇妙な音を立てながら歩いているそれは、男には視認することは出来なかったけれども、歩くたびに何かに濡れたような足跡だけを残していた。生温い湿った感触が男の傍を横切るのだけがわかった。それは決して立ち止まる素振りを見せず、男のことなどまるで路傍の石でも蹴っ飛ばしたかのごとく過ぎ去って行くのだった。
「待ってくれ!」
思わず男は叫んでしまったが、その時にはもう辺りは晴れ渡り、それの残した足跡だけが男に語り掛けていた。
【了】
陰火 K @mono077
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