2 タイムリープ(2)



◇◆◇


 結局私は、ライブビューイングを観に行く気分ではなくなってしまった。二人から離れるように、海浜公園をあてもなく歩く。

 そうしているうちに、気持ちもだいぶ落ち着いてきた。もちろんショックには違いないが、潮風に吹かれて、涙の跡もすっかり乾いている。


 無我夢中で走っているうちに、いつの間にか片方の靴が脱げていたらしい。だが、探しに戻る気も起きなかった。

 周りの目がなくなってようやく、私は足の痛みを感じて立ち止まった。手近な欄干に腕を乗せ、ざあざあと泣く黒い海を眺める。


「……『卒業したら結婚したい』って、言ってくれたのに。私に言ってくれた言葉は、嘘だったの……?」


 一度歩みを止めて考えはじめると、落ち着いていた涙が、再び視界を滲ませていく。


「一緒に住む家まで決めて、家具も家電も、全部手配して……なのに、どうして?」


 自問するが、答えはわかっている。


 修二は、私の意見もほとんど聞かずに、家具家電を全て自ら注文した。その支払いは、全て私の貯金から引き落とされていた。

 彼はまだ学生だから、お金がないのは当然である。

 ただ、就職先は決まっていて、「給料が入るようになったら必ず返すから」と、家具も家電も、新居の頭金も、全部私が立て替えた。

 そんな状況だから、お金のかかる婚約指輪も、もちろん貰っていない。


 ――要するに、私は、騙されたのだ。


 修二が『卒業したら結婚したい』と思っていた相手は朋子で、私は恋人でも何でもなく、ただの馬鹿な金づるにすぎなかった。

 朋子は、私が修二と付き合っているつもりになっていたのを知っていて……、だから、ああして笑ったのだ。



 私は、もたれかかっていた欄干に、ぐっと身を乗り出した。錆びた鉄柵に手足をかけて登ると、海の方へ足を投げ出して座る。


 足を揺らし、もう片方、残っていた靴を夜の海に蹴飛ばした。靴は放物線を描いて、月夜の海に飛んでいく。黒い水面に着水すると、靴はぷかぷかと、頼りなく波に揺られた。


 秋の終わりの潮風が、冷たく頬をなでてゆく。頬に伝った涙の跡を、ハロウィンの街に降りてきたゴーストたちが、イタズラになぞるように。



 私は欄干に腰掛けたまま、肩にかけた鞄からイヤホンを取り出した。

 流すのは私の大好きなバンドの、デビュー曲。


「――さあ、仮面舞踏会マスカレードがはじまる――」


 私は、ヴォーカルの声に合わせて、小さく口ずさむ。


「――百鬼夜行、花の輪舞ロンド――」


 百鬼夜行のハロウィンの夜。

 ちょうど今頃、彼らはライブツアーの最終公演で盛り上がっているところだろう。


 本当は、私も会場に観に行きたかった。

 観に行っていたら、こんなつらい光景を目の当たりにしなくて済んだのに。

 黒い海に揺れるオレンジの光と、所在なく浮かぶ片方の靴を眺めながらではなく、華やかなステージで一緒に歌い、踊りたかった。


「――踊ろう、星の夜を

 踊ろう、月が消えるまで――」


 ああ、大好きなあの人の声。

 澄んだ歌声が、心地良く耳を癒していく。


 私は耳を手で覆い、空を見上げる。

 この場所では、星も月も雲に隠れて見えないけれど、どうか彼らの空は晴れていますようにと願う。


「――今宵だけは、身分を忘れて――」


 その時。

 ぶわりと、陸地の方から、強い風が吹いた。

 私の背中を押すように吹いた突風は、この身を海へといざなってゆく。

 伸ばした手は、虚しく空を切った。


 ああ……そっか。

 この世界は、私を望んでいないんだ。


 さよなら、ありがとう。


 大好きな歌声を聞きながら逝けるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう。


 ――さあ、仮面舞踏会マスカレードがはじまる――


 目をつぶって、イヤホンが落ちないように、再び耳に手を当てる。

 そうして私は、揺れる灯火の合間へと、吸い込まれるように落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る