第2話 風松楓子邸跡地

 黒いコートに臙脂色のセーター、グレーのスラックスに良く磨かれた革靴姿の風松眞一しんいちは見るからに苛立っていた。無理もない。風松楓子ふうこ邸の跡地に行こうという響野の提案にヒサシはすぐには首を縦に振らず、説得に思ったより時間がかかってしまった。本来の待ち合わせ時間より三〇分は長く、風松眞一はここで、風松楓子邸の跡地前で待ち惚けを食らっていたのだ。


「響野さん」

「いやすみません。遅くなりました」

「そちらが……例の?」

「レイ?」


 ひと回り以上は年上の眞一の台詞にヒサシは素っ頓狂な声を上げ、


「ああ俺はそういうのじゃないですよ。うん。そういうのではない」


 と、何やら早口で言い、勝手に合点したような顔をしている。

「響野さん、どういうことだ。を連れてくると言ってたじゃないか」

「えっと〜……」


 霊媒師れーばいし、と小さく呟いたヒサシが肩を竦めているのが分かる。響野にしてみれば、市岡ヒサシは間違いなくだ。だが、ヒサシはこの件に積極的に関わりたくない、と思っている。その辺りは鼻が効くし、頑ななタイプなのだ、市岡ヒサシという男は。


「まあ、まあその……取り敢えず入りますか? 中に」

「……入らなくてはいけないのか」


 眞一の視線の先には剥き出しになった骨組みや、放置されたガレキが残っている。周囲の住人からの要望もあって一度は家そのものを白いシートで覆ってはいたのだが、そのシートすら今やボロ切れのようになり果てている。


「事情は説明したはずだ。それで響野さん、あんたが霊媒師を……」

「俺は霊媒師じゃないですけど」


 唐突に、ヒサシが会話に飛び込んでくる。


「でもこの家、なんで壊さないんですか?」

「なっ……!」


 百九十センチ近い長身のヒサシに顔を覗き込まれ、眞一は反射的に数歩後退りをする。


「俺建築とかそういうのの専門家じゃないけど分かりますよ。これ直すのもう無理でしょ。中で家主の方も亡くなっているんだし、一旦壊して、きちんとアレコレして……」

「そ──そんなことは分かっている!」


 ヒサシの早口に臆したことを恥じるかのように、眞一が声を張り上げる。面倒臭いことになってしまった、と響野はひっそりと嘆息する。


「叔母はああいう、変人だったから。普段の叔母を知っている人間を探すのにこちらは本当に苦労したんだ。それでようやく響野さん、あんたを見つけて、それで……例の……」

「姪御さんが取り憑かれてるっちゅーハナシですか。ハーン」


 眞一の声が威勢を失うのと同時に、ヒサシがアスファルトを蹴る。

 ぴょん、と。

 市岡ヒサシは元風松楓子邸の中に飛び込んだ。

 響野と眞一は一瞬視線を交わし、慌ててヒサシの背中を追う。


「うわうわうわ〜、これはすごく燃えましたね。いや〜。燃えたな〜」

「ちょっ、ヒサシくん! やる気出してくれるのは嬉しいけど、急に何……!」

「いや、なんていうかなぁ……ここまだ何か残ってる感じするんだよなぁ」

「残ってる!?」


 大声を張り上げたのは、眞一だった。「ぐわっ」と叫んだヒサシが物理的に飛び上がる。燃え残った床が、ミシリと嫌な音を響かせた。


「ヒサシくん、ダメダメ床が抜ける」

「そうだった、俺自分のこと子猫ちゃんだと思ってるけど百九十センチあるのでした……」

「でけー子猫ちゃんすね!?」

「おい、何が……ここに何が残ってるっていうんだ!」


 迫る眞一を慣れた所作で追い払い、「知らん」とヒサシは断言する。


「俺はここに来るのは初めてだし、風松楓子さんのことだってテレビでしか見たことない。だから、何が残ってるかなんて俺が知ってるはずない」

「響野さん! どういうことなんだ!? この男は何者なんだ!」

「うぇえ……」


 ヒサシがだということを、響野から眞一に伝える術はない。少なくとも今のところは。

 眞一に胸ぐらを掴まれている響野を置き去りにして、踊るような足取りのヒサシは部屋の奥へ奥へと進んでいく。風松楓子を取材した時のことを思い出す。確かここは玄関で、広い廊下があって、廊下の左右には背の低い棚がたくさん置かれていて、その棚の中にも上にも大勢の人形たちがいて──


「ここがリビングかぁ? あーあ、天井まで全部抜けちゃって〜」


 そう、ヒサシが立っているそこが、嘗てはリビングだった場所だ。丸テーブルがあった。風松楓子と向かい合って座り、紅茶を飲みながらビスクドールについて取材をした。彼女はたくさんの人形を見せてくれた。それらはすべて燃えてしまった。ビスク以外の人形も大勢いた。普段の響野なら「怖い」と感じそうなおかっぱ頭の日本人形も、楓子に抱かれると途端に穏やかな雰囲気を漂わせるのが不思議だった。楓子は本当に人形を愛していたのだ。


「響野くん」

「うわ、何!?」


 眞一をどうにか振り払って駆け付けた響野に、ヒサシが頭上を指先で指し示す。


「耐火金庫があったのはこの上? 下?」

「ん? 金庫?」

「ほらぁ。風松楓子さんが特に大事にしてた人形がしまわれてたっていう金庫。寝室にあったんだっけ?」

「この奥だ」


 今度は、眞一が唸るように口を挟む。「おくぅ?」とヒサシが小首を傾げる。


「リビングのもう少し奥に、叔母の寝室があった。耐火金庫はそこで発見された」

「あーなるほどね。そうか。風松楓子さん、お若くはなかったものな。二階に寝室作るのはちょいと危険か」


 何かに納得した様子で呟くヒサシの二の腕を掴み、「何が分かったんだ」と眞一が喚く。目が血走っている。


「何も分かりませんよ。っていうか俺に触ると高いよ、おじさん。金取るよ」

「なに……!?」

「俺はおじさんが思ってるような霊媒師じゃねえけど、金のかかる男ってこと。……響野くん、寝室確認するわ」

「わ、分かった!」


 眞一を振り払ったヒサシは再び、スキップのような足取りで家の奥へ──寝室へと向かう。耐火金庫があった場所。そういえば、金庫の中にいたお陰で燃えずに済んだ人形たちは今、どこにいるのだろう?

 眞一に尋ねても教えてくれる気がしない。マフラーを巻き直した響野は、慎重な足取りでヒサシの後を追い駆ける。


「……響野くん」


 ヒサシが、床にしゃがみ込んでいる。


「何か、なにかあったのか!?」


 床を踏み抜きそうな勢いで──もっとも、風松眞一はさほど長身でも巨漢という訳でもなかったから、よっぽどその意志を持って足を踏み下ろしでもしなければ難しいだろうが──響野を追い抜いた眞一がしゃがんだままのヒサシの肩を掴む。


「いや」


 ヒサシの目は、眞一を見ていない。


「なにもなかった」


 そんなはずがあるか、と喚き立てる眞一を、ヒサシは無視した。


 そうして「こちらでもまた何か進展があったら連絡する」と何とも言えない曖昧な約束を交わして、ヒサシ・響野と風松眞一は解散した。


「ヒサシくん……」


 本当に何もなかったんすか。尋ねようとする響野とともに駅の改札を抜け、新宿行きの電車に乗り込み、椅子に腰を下ろしたヒサシは大きくあくびをする。


「あったよぉ」

「えっ!?」


 黒のレザージャケットの前を、ヒサシは無造作に広げる。藍色を基調とした柄シャツとレザージャケットのあいだに、ヒサシは一体の人形を抱えていた。


「あの人が探してたのって、この人形でしょ」

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