第15話
畑中聡が、無言で顎を引く。
「暑くないの?」と安永が、まじまじと巨体を観察していた。
この日、畑中聡は、電器屋です、と紹介されれば、誰もが納得するような格好をしていた。
対して安永は、カジュアルな服装だ。
それがバンドのTシャツだとまではすぐに分かったが、どこのバンドを示しているのかは分からなかったため、稲賀は服については触れずにいた。
「いえ、まったく暑くないです」
「本当?」
「ほんとです」
変わってるね、と安永は畑中聡に温かい目を向けている。この二人は仲良しだったのか、と稲賀は少し意外に思う。
「運動は、ぜいたくだと思いませんか?」
最寄りの地下鉄の駅へと、三人は向かっていた。
稲賀は既に、畑中聡の肩から手を離している。
雲に隠れていた太陽が顔を出したせいで、炎天下になっていた。容赦なく三人の体力を奪い取っていた。
天候が穏やかな日になら、まったく運動をして構わない。むしろ嬉しいくらいだが、立っているだけでも汗がにじみ出てくるような猛暑日での移動は、もはや苦行だ。
つまり畑中聡からの質問は、皮肉に思えた。
「この状況では運動をしないことの方が、ぜいたくだと思うよ」
稲賀は顔から溢れだす汗を必死に拭いつつ、異議を唱えた。対して畑中聡は、飄々としている。安永はうんざりとした様子で、帽子を深く被り直している。
「学生は時間があります。ですので運動の重要性など考えたこともないはずです」
「うん、ないよ」稲賀は溜息を吐きながら、抵抗する。
「それが普通です。若いから運動を意識していなくても、代謝がいい。すぐに痩せられます。ですが社会に出れば、仕事に忙殺されます。加齢のせいで代謝は落ちるのに、運動量も減っていきます」
畑中聡の方が、年下じゃないか、と稲賀は応酬したくなったが、畑中聡は仏頂面を貫いている。その泰然とした態度に、反論する気勢を削がれる。
「それで?」と稲賀は、話を先に促していた。
「大人とは責任を果たすために、行動をしなければなりません。自由に使える時間が、限りなく減っていきます。すると、大人はどの時間を削ると思いますか?」
まるで禅問答のような問いかけに、稲賀は口を動かさずに、足だけを前に動かしていた。
ようやく三人は階段を下り、駅の構内へと入っていく。
身体が冷気を浴び、それだけで身体の熱気と心の苛立ちが、スッと収まっていった。
「睡眠時間とかかな?」代わりに、安永が答えている。
稲賀はポケットからハンカチを取りだし、何度も顔面に擦りつける。群衆が慌ただしく、動いている。サラリーマンがゴールテープを切るような格好で、電車の中へ駆け込んでいる。
「それもあり得るでしょう。更には、運動をする時間も削る選択肢に入ります」
畑中聡は、厚着だった。しかし、汗を掻いているようには見えない。
たったそれだけで、精神年齢は相手の方が上だという錯覚に、稲賀は陥っていた。
話の先などまるで見えない。だが、畑中聡は考え抜いて、今の話題を選び出しているようにも見えてしまう。
だからこそ、でも、あった。稲賀は話の展開を無性に、横に逸らしたくなっている。
「畑中聡は運動不足だから、今、この状況に苛立っているんじゃないの?」
畑中聡は猛暑の中、懸命に歩いたが、汗を掻いていない。代謝が低い。
だから自省を込めて、「運動は、ぜいたくだ」などと言い出したに違いない。
運動を高尚なものに引き上げることで、自らの運動不足を棚に上げようとした。
きっとそうだろうと、稲賀は少しばかりの自信を持って、顎を引く。
一拍の間が、置かれた。
「正解です」
畑中聡が、淡々と答える。それは間違いなく、不正解の間だった。
「早く行こうよ」
安永はたった今、轟音と共に、目の前に到着した電車に向かって歩き出している。二人にも早く乗るようにと促し、稲賀と畑中聡は黙って、それに従う。
「で、今から、どこに行くのさ?」
「財布を取り返しに行きます」
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