第16話
畑中聡は、財布を返しに行くと宣言したので、てっきり鳥丘のいる駐輪場に向かうものだと思っていた。
だが、今、眼前には閑静な住宅街が一面に広がり、家が建ち並んでいる。
豪邸が出現した辺りで、畑中聡の歩みが止まっていた。
我が家が、ここら一帯の地区を制圧していますよ、と家主が軽口を叩いてきそうな程には、大きい物件だ。家に近づいてみると、玄関の装飾の一つ一つにも、細かなこだわりが詰め込まれていると分かる。
映画で見かける豪邸そのものだった。
「貴族の家って感じだね」
ぼそりと稲賀は感想を漏らしてみたが、畑中聡からの返事はない。その代わりに、ベルの音が甲高く一帯に鳴り響いていた。畑中聡が、押していた。
「待っていたわ」と、すぐに、門扉が開かれる。
東城が、いた。
じゃあ、と東城は膨らんだ胸ポケットから赤い革財布を取りだし、これを返しておくわね、と畑中聡に渡している。
ありがとうございます、といって、畑中聡も鳥丘の財布を東城に渡した。
稲賀は、呆然とするしかない。
二人は黙々と、家の中へと入っていく。慌てて、稲賀も後を追う。
「さっきの財布の件を、詳しく教えて下さいよ」
稲賀は館内を見回しながら、入館証のように取引されていた財布の交換について、耳にタコができても一向に構わないから、と続けつつ、何度も繰り返し、説明を求めていた。
あまりにも広いリビングだが、埃っぽい印象はない。
誰かが日常的に、家の手入れをしているのだろう。また、どの家具にも中世のヨーロッパを彷彿とさせるような深みが、ある。
「私が鳥丘に頼んで、畑中聡の財布を盗ませたの。それだけよ」
駐輪場で見た関係性の通りだった。東城は優雅にティーカップの紅茶を味わい始めている。この説明は、既に三度目だ。
同じ内容の繰り返しに、稲賀は納得がいかない。
壁の中央には、絵画が掛けられている。見るからに、高価な代物だった。
「畑中聡の財布を盗むのに、理由はあったんですか?」
「黒石に頼まれていたのよ」
「揚出連也と仲良しで、レッドアイのモデルを知っているというあの黒石?」
「そうね」
事あるごとに、黒石という名が出てくる。それも怪しい時ばかりだ。
「財布を盗むように指示されたのはいつですか?」
「オフィスで話し合いをした後に黒石と会ったの。その時ね」
「何のために?」
「分からないわ。ただ、あなたのためでもあったらしいのよ」
東城は稲賀に対して、天使のような微笑みを向けている。意味が分からず、稲賀は畑中聡に目線を向けてみた。
当然、畑中聡は何とも言えない顔をしている。
「質問を変えましょう。じゃあ畑中聡が鳥丘の財布を持っていたのは?」
「それは偶然の出来事ね。ただのアンラッキーよ。さっき交換条件が成立したから、財布を返してあげたの。それでいいじゃない」
東城と畑中聡は仲が良さそうには見えない。家に入ってから、互いに視線を交わそうとは一切していない。
「それでここは東城さんの家ですか?」
稲賀は、室内を何度も見回して、訊いた。
「いえ、違うわ。質問が多いわね。これでお終いにして。ここは萬城の家よ」
東城の動きを見ていると、どこに何が置かれているのか。まるで把握していないようなチグハグとした手つきをしている。自宅の動きではない。
いくつか置かれている紅茶の缶を、東城は物珍しそうに何度か物色して、戸棚を順番に開けていき、なんとかティーカップのセットを発見していた。
「あまり、ここには来ていないんですか?」
明らかに慣れていない東城の手つきを見て、稲賀はつい数秒前に止められていた質問を、またしても繰り出してしまう。
口を手で押さえ、反省はしていますよ感を、醸し出す努力はする。
東城は露骨に大きな溜息を吐いたものの、「お互いにプライベートなことは踏み込まないようにしているのよ」と答えてはくれる。
奥では、畑中聡がまるで我が家のようにして冷蔵庫を雑に開け、缶ジュースを手に取っていた。慣れた手つきだ。冷蔵庫の中のどこに、何があるのかを完全に把握している動きだ。ものの数秒で、目当ての品をピックアップしている。
肝心の萬城は、不在だ。
畑中聡が缶ジュースに手を掛けるタイミングで、チャイムが鳴り、東城が玄関へと向かっていった。
家の中に入ってきたのは萬城ではなく、安永だった。
安永も畑中聡と同じように冷蔵庫を漁り、コップを戸棚から見つけ出し、お茶を美味しそうに飲んでいる。畑中聡と同様に、まるで実家のような佇まいだ。
「これは何の集まり?」
稲賀は続々と集まってくる見知った顔を順に、観察した。東城は不機嫌そうに何度も髪をかき上げている。
「休憩所のようなイメージですね。今日は財布を取り返しに来ただけです」
畑中聡は、また冷蔵庫の中を物色している。萬城が不在のまま、他人の家で大勢がくつろいでいる。
「東城さんは紅茶が好きですか?」
「変な質問ね。昔も今も大好きよ」
そうですよね、と東城に愛想笑いをして、稲賀も何か飲もうと、席を立った。
冷蔵庫を、開く。
中にはぎっしりと多種多様な飲料が詰め込まれており、見たこともない種類のドリンクに興奮を覚えた。何度もラベルを見ては、元に戻す。
冷蔵庫の上段には、スナック菓子が詰め込まれている。
萬城の家には、多くの者が集う。
その理由が、冷蔵庫に詰まっている気がした。
「この間、予防接種に行ったんです」
稲賀が戻ると、畑中聡が右腕の袖をまくり上げて、注射の痕をみんなに見せていた。
「利き腕を求められ、両利きだったので、両腕を差し出したら、看護師に睨まれてしまいました」と、畑中聡は憤懣とした顔つきで、周りに意見を求めている。
「書く方はどっち?」
「投げる時は、どうなの?」
安永や東城が話題を盛り上げ、最終的には、缶ジュースの蓋を開ける方を利き腕にしよう、と利き腕の判断基準が決定していく。
その最中、東城は、何度か左耳に手をやっていた。
結局、萬城は帰って来ず、畑中聡は左利きとして認定されている。
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