第8話
畑中聡は群衆から頭一つ飛び抜けた背丈である上に、スーツも着ていないため、街には明らかに溶け込めていない。
暑い。
安永が露骨に電柱の影を見つけては、そこに目がけて、素早く移動している。それは遠回りじゃないかな、と指摘する体力すら、稲賀には残っていない。
高層ビル群を通り過ぎ、住宅地へと突入していく。相当、年季が入った建物が見えてくる。
「あれが目的地ですね」
畑中聡の横に立ち、稲賀は安堵する。安永は早く建物の中に入りたいようで止まることなく、先を歩いていた。
かつて白色だったに違いない外装は長い間、風雨に晒され、黒いシミが壁にこびりついてしまっている。ひどく汚い。
そんな館内に飛び込むようにして、三人は入った。
冷気が、身体を癒やす。
夏限定ではあるが、冷気は大金に勝る価値がある。
大富豪が、灼熱の空の下、数時間、放置され、冷房のある場所に行ってはいけません。と指示されていたら、そんな、と嘆き、絶望し、これでもかと札束を手に持ち、その札束を湿気でふやかせながらも、これで冷房のある場所へ、と懇願するだろう。
それくらいには、価値がある。
そんな妄想を繰り広げていると、「エレベーターにはカードキーが必要らしいです」と隣でごそごそと、畑中聡はリュックサックから真っ赤な長財布を取りだしていた。
「赤い財布なんてオシャレだ。結構、長い間、使ってるんじゃない?」
畑中聡は萬城から渡されていたというカードキーを取りだし、エレベーターに乗り込む。二人も、後に続いた。
「ええ、まあ。この財布は容量が大きくて、大事な物もたくさん詰められるので好きです」
畑中聡の大事な物とは、札束を意味しているのだろうか。愉快そうに財布を見つめる安永に「お金、入ってそうかな」と稲賀は尋ねてみる。
「ううん、小銭がちょっとだけしか入ってないよ」
安永はかかとを何度か上下運動させ、身長を小刻みに変化させている。畑中聡の持っていた財布のブランド名を訊き、もしやと思い、稲賀も自らの財布を取りだしている。
同じブランドだったと遅れて、気づいていた。
「稲賀の財布は随分、年季が入っているね」
「大学に入学して、すぐに使い始めたんだ。だからもう数年は使ってるかな?」
財布の話題が途切れる前に、エレベーターは動き、甲高い音が鳴り、三人は箱から出ていた。財布の中を覗き見ようとする畑中聡の手を、稲賀は華麗に払いのけつつ、前へと進む。
エレベーターから降りると、一歩目から、すぐにオフィスだった。
畑中聡は無言で、ごつごつとした手をドアノブにフィットさせて、回し、ずかずかと中へと入り込んでいった。
「おはようございます」
扉を開けるなり、畑中聡はオフィス内にいた女性に、挨拶をした。
安永も嬉しそうな声を上げている。
「こんにちは、東城さん」
レッドアイが見つかった。と冗談でも、口にしたかったが、東城から、レッドアイを探してるんでしょ、と先制攻撃され、ええ、まあ、と反抗期の中学生のような声色を乗せた発言しか、稲賀にはできない。
「稲賀です」
東城に右手を差し出すと、値踏みをするように、全身を隈なく、観察された。
「よろしく」の次には、「あなたの印象は、最悪ね」と冷たく宣言され、あまりに唐突な非難に対して、稲賀は、動揺する。
「やあ。居心地はどうかな?」
萬城がオフィスの奥から、いつの間にか出てきている。
今、オフィスにいる。と実感が湧き、謎の緊張感が、おのずと萬城に会釈するという行動に走らせていた。学生が、オフィスにいる。その響きが嬉しくもあり、身を強張らせてもいる。
「まあまあです。それより今日は、レッドアイを探す日ですよね」
そこにレッドアイがいますけどね、と稲賀は小声で意見を付け足す。
その声をかき消すようにして「やっぱり黒石を探すべきよね」と東城が深刻そうな口ぶりで、髪をかき上げている。
「黒石?」
レッドアイでも揚出連也でもない人物の名に、稲賀は困る。
「誰ですか?」
畑中聡がオフィスにあるデスクワゴンを開いては、閉じている。耳障りな音が、ずっと室内に響いている。
「黒石はレッドアイの素性を知る人物なんだよ」
安永が肩をすくめた。
「それに黒石はレッドアイの正体が露呈することを怖れているの」と、東城が続ける。
女性陣の発言に、萬城が、いや、そんな雰囲気を醸し出しているんだよ、と補足をした。
つまり誰も、黒石の情報をふんわりとしか得ていないらしい。
レッドアイの説明に関心を持たなかったのか、畑中聡が今度は外をじっと眺めている。
「黒石は、靴屋の恩人でもあるんだよ」
途端に、東城と萬城が見つめ合い、頬を緩めている。
二人の微笑ましい姿を見て、ああ、この空気感は間違いなく夫婦だな、と稲賀は悟る。
「黒石は常連客なんだ。海外で足袋を愛用してくれていて、周りの食いつきがよかった。そんな話を訊いたからこそ、海外向けに足袋を販売しようと考えた」
黒石は一年のほとんどを、ドイツで暮らしているらしい。
面白い、楽しそうという感情から、何か新しいビジネスの形に変換するまでの萬城の意欲は驚異的であり、天下一品である。
だがその後、軌道に乗った事業に飽き、隙あらば仕事を放り投げようとしている怠惰な姿勢を取ることまでこそが、ビジネスマン萬城として一連の流れになっているの。と、東城は、苦笑いで評している。
「でも、どうしてドイツに住む黒石がレッドアイを知ってるんですか?」
「黒石は揚出連也と仲良しだからさ」
萬城に同調するようにして、隣で東城が意味深に頷いていた。
稲賀は、周りがどう出るのか。静観することに努めた。
そもそもどうして、全員がここまでレッドアイに執着しているのか。
よく分からない。
稲賀は今、置かれている状況をアルバイトとして割り切り、思考停止をするべきか。
それとも摩訶不思議なレッドアイの真相を、必死に追い求めるべきかについて、少し、悩んでいた。
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