第7話
閉店後、稲賀は萬城に詰め寄られていた。顔が、近い。
「手伝ってくれて、ありがとうね。それでアルバイトはいつから再開したい?」
店の繁盛ぶりを見たなら、すぐに戻ってくるよね、という目を、萬城はしている。
無言で、圧迫されている。
「ちょっとお休みしたいんですけど」
「どうしてかな?」
「新しくやりたいことができたので」
その新しくやりたいことを手伝ってあげようか、いらないです、のラリーの後、残念そうに、萬城は首を何度か横に振る。
「ああ、そうだ。一応、先に謝っとくよ。ごめんね」
何に対してですか、と稲賀が言い返す前には、萬城は一人の女性を呼び寄せていた。
店内が大忙しの時に、萬城を睨みつけていたあの店員だ。
目鼻の形が整っている。黒髪だ。美人だ。
「安永です。ちょうど稲賀さんと入れ違いで働き始めたんですよ」
よろしく、と稲賀は手を差し出した。
だが、なぜか安永は握手に応じてくれない。
そっぽを向かれる。エサをやり忘れて、不機嫌になった愛犬の姿と安永の後ろ姿が、ぴったりと重なっている。
何か気に障ることでも話しただろうか、と考えてみる。
だが、安永への発言は、「よろしく」の四文字しか、記憶にない。
「彼女も『欠落のレッドアイ』のファンなんだよ」と、萬城が耳打ちをしてくる。
稲賀は、眉をひそめる。
「新しい仕事をしてみないかい?」
今度の萬城は、大声だった。それこそ選手宣誓くらいには、威勢のいい発声をしている。
つい先程までの記憶を一度、完全に消したかのように、萬城は一枚のチラシを稲賀に押しつけている。店主の目は、血走っている。
「いや、だからアルバイト以外にしたいことがあるんですって」
「まあまあ、そう言わずに」「掛け持ちでやっている仕事もありますし」
「でも、この新しい仕事が君にとってのプラスになるかもしれないよ?」
「それは、いつプラスになるんですか?」
「新しい仕事を引き受けてくれたら、いずれ分かるはずだ。本当にやってよかったってね。常に、同じことをやらされている方がラクだと主張する人がいるだろう?」
まだ萬城から、新しいアルバイトの勧誘が続いていた。
「うん、ここにいますね」稲賀は大仰に頷く。
「それが嫌なんだよ。常に同じ環境で求められた代わり映えのない仕事だけを、一定の完成度で遂行していく。それを一貫性と呼び、正しい姿勢だと賞賛する。残念な世の中だよ」
「何も変えようとしない姿勢はダメだから、新しいアルバイトをした方がいいと?」
そういうことだね、と萬城は、満面の笑みになる。
「一応、仕事の内容だけは訊きましょうか」
「相変わらず積極的な自堕落が好きだねえ」
「ただの拒絶反応ですよ」
すぐに断る気満々だったが、じゃあ、と萬城がなぜか一歩下がり、代わりに安永が稲賀の前にズンと出てきた。流石に、面を食らう。
「人捜しみたいなことをしてほしいの」
「みたいなこと?」
一歩、後ろへ下がった萬城が、また前に歩み出てくる。ゲーム内の通行人のような機械的な動きに、思わず稲賀は、ふっと息を漏らす。
「レッドアイを探してほしいんだよ」
いや、この間のリアル脱出ゲームでレッドアイさんを見かけましたよ、と稲賀はすぐに指摘をする。
すると、「あれは萬城さんと事実婚をしている東城さんが演じているの」と安永からすぐに説明が入った。
話の流れを遮りたくない。
あたかも何もかも知っているような雰囲気で顎に手をやり、「東城さんね、うんうん」と稲賀は、曖昧に首肯をしている。
「じゃあ、その東城さんとやらに会えば、レッドアイの件は一気に解決するんじゃ?」
「彼女は本物のレッドアイじゃないよ。そんなことは分かりきっている話だろう?」
稲賀は萬城を、強く睨む。萬城は、平然としている。
威嚇がまるで効いていない。
「じゃあレッドアイは演じているだけであって、本物ではないんですね?」
「その通り。時給は八百円だね」
「いや、時給とか訊いていないです。それにあんまり高くないですね」
萬城が、レッドアイは半分ボランティアだからね、と舌を出し、そのまま新しい仕事内容を滔滔と発表する。
「レッドアイはね。伝説の存在なんだよ」
萬城は、いくつかの資料を雑に置いている。
鋭く尖った剣が装飾として施されている。そんな背もたれがついた個性的な椅子の上に、だ。
全員で、資料を覗き込む。
映画のような世界観が、資料にはぎっしりと記載されていた。というより、これはリアル脱出ゲーム『欠落のレッドアイ』のストーリーそのものだ。
つまりレッドアイの素性に関する情報は、まるでない。
「レッドアイは女性を中心に、絶大的な人気があるんだよ。ファンクラブもあるくらい」
安永が資料の最後のページを開けて、見せてくる。
「写真の中央にいるのが東城さんだよ」
「キャストで見た人だ」
稲賀は全員の様子を隈なく観察し、最後にまた、萬城を見る。
「そもそもレッドアイはゲームの登場人物なんだから、普通にいなんじゃ?」
「稲賀さん、それは違います」
畑中聡の大きくてごつごつとした手は、資料の一部を指差していた。
稲賀は目をすぼめて、その内容を読み取ろうと努める。だが、違います、の真意がよく分からず、眉間に皺を寄せるしかない。
「この資料には何のヒントもないように思えるけれど?」
「レッドアイにはモデルとなった人物が、本当にいるんです」
畑中聡の声色は、常に冷たさを帯びている。しかし、今回ばかりは少し熱のこもったような物言いだった。
「はあ。でも資料には重要なことが何一つ書かれてないよ」
「それこそがヒントです」
畑中聡は一貫して、力強い口調で断言する。稲賀は、適当に相槌を打ち、「そのモデルとなった人物を探すことこそが、新しいアルバイトになるの?」と話を前に進める。
萬城が軽く、顎を引いた。
「それでレッドアイを見つけてどうするんですか?」
「揚出連也さんを紹介してほしいです」とは畑中聡が、言った。
萬城が満足そうに何度か、頷いている。
稲賀は納得がいかずに、すぐに資料を読み直そうとした。
だが、レッドアイを探す日時と場所を決めよう、と怒濤の勢いで話し合いが始まり、スケジュールが決まると、この日によろしく、と強引に、萬城から握手を求められ、渋々、応じると、すぐにその場で解散となっている。
気づいた頃には、稲賀は資料を片手に、店から追い出されていた。
呆気に取られる。
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