第6話
稲賀は、靴屋のアルバイトで畑中聡と出会っている。
二人は靴屋で働き始めた時期が、たまたま同じだった。
当初、畑中聡に対して、稲賀は敬語を使っていた。だが、敬語を止めて下さい、との申し出があり、それで相手の年齢を初めて知っていた。
「二十歳です。畑中聡です」
うそでしょ、と稲賀はまじまじと大男を見る。
たしかに肌つやの潤いは、ある。
だが、それでも、まさか畑中聡が年下だとは予想しておらず、返事に窮した。
畑中聡の佇まいには、どことなく剣道の達人のような隙のない雰囲気がある。
世界は広い、と稲賀は感嘆する。
「畑中聡と呼んで下さい」
「え?」
「ハタナカサトシ」
冗談だと思った。
しかし、畑中聡は笑みを一つも見せていない。世界は広い、と稲賀は再び、思う。
「スパイグッズを持っていますか?」と続けて、訊かれる。
稲賀は、警戒する。
畑中聡はもしかすると関わってはいけない人物ではないのか。
だが靴屋での出会い以来、主に休憩時間を利用して、畑中聡とよく喋るようになっていった。独特な雰囲気が、妙に居心地によい。
物事の捉え方が、一般人とはまるで異なるので、ショート動画よりもバイト仲間との対話の方が楽しい。
「桜は美味しいと思いますか?」
畑中聡は眉一つ動かさずに、今日も訳も分からないことを唐突に訊いてくる。
「味は分からないけれど、心は喜ぶと思うよ」
最初こそ、戸惑っていた。だが、慣れてしまえば、それは開けてびっくり玉手箱のようなワクワク感が常に、あった。
そのため、よく言葉を交わしていたものの、リアル脱出ゲームの話なんて訊いたこともないなあ。と、ぼんやり回顧する。
当時はそこまで人気もなかった靴屋だ。
店員も少なく、畑中聡と萬城を含めた三人のみでも店内は十分に機能していた。
ところが今や見知らぬ店員が、靴屋の中で躍動しており、留学している間に、靴屋も状況が、刻々と移ろっている。
「リアル脱出ゲームなんて、昔から好きだったっけ?」
稲賀は席から立ち上がり、また畑中聡に近づいていた。思いついた疑問を、そのまま口にする。
「ちょうど稲賀さんが留学している時に、夢中になったんです」
畑中聡の揚出連也を崇拝する気持ちは、強い。
地域活性や頭の体操など、あらゆる方面から、リアル脱出ゲームの素晴らしさを説き、最終的には、どうやってもカリスマの魅力に着地する。
稲賀は途中から完全に関心を失っていた。首をただ縦にだけ振る、民芸品の人形のような動きを繰り返す。
と、同時に、忘れていた疲れがどっと全身に襲い掛かってきた。
欠伸が止まらなくなっている。
刹那、萬城が畑中聡を大声で、呼び寄せ始めた。
あまりにも、客が多いからだろう。
畑中聡は見かねたようにして、何か手伝いますよ、と萬城の方へ駆け寄っていく。
稲賀も仕方ないな、と独り言を発した勢いで、なんとか重たい腰をゆっくりと椅子から引き離していた。
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