第5話
稲賀は肩こりをほぐすように首を一度、ゆっくりと捻り、「それよりラブアンドピースの話をしようか」とそこだけ訊けば、博愛主義者のような主張を、した。
「改めてプレイしたいのは、ラブアンドピースは後に『欠落のレッドアイ』が絡んでくるからです。ゲームの内容を憶えていますか?」
「レッドアイと呼ばれる女性が悲劇的なイベントの連続で、人間として大事な部分を欠落してしまう。けれど様々な人々との交流を経て、愛を取り戻していく物語。と、ここに書いてあるよ」
稲賀はポケットに閉まっていたせいで、グシャグシャになってしまったパンフレットを今一度、広げていた。
「そうです。多くの出会いが、レッドアイを成長させていくんです。なにより、あのゲームには謎解きの隅々に、若者を惹きつけるような魅力が多く混ざり込んでいました」
「それだけで若者全体の意見を変えられるとは思えないんだけどな」
リアル脱出ゲームの『欠落のレッドアイ』は、日本で爆発的なブームとなった。だが稲賀は留学中だったために、その熱狂の原点を知らない。
「少数のファンだったとしても、心の奥底に突き刺さる作品は強いんです」
まさかと思い、畑中聡を見やると、満足げに頷いている。
「つまりラブアンドピースのリーダーが『欠落のレッドアイ』に夢中になったってこと?」
畑中聡が意味深に微笑んでいた。
たったそれだけで、世界は平和になるのかな、とも思ったが、歴史的な大事件も、事実を慎重に紐解いていけば、些細な件がもつれにもつれてテロになったケースが多々ある。
その厄介なケースの反対版が『欠落のレッドアイ』です、と力説されれば、疑う余地はなかった。
「じゃあ本当のラブアンドピースが、ゲームの中で見つかったんだね」
「その表現、いいですね」
「そりゃ、どうも」
「こうしてリーダーの熱意が伝播していき、リアル脱出ゲーム『欠落のレッドアイ』の魅力はメンバー全員にも響き渡りました」
畑中聡は、白い歯を見せていた。
今、店内は、てんやわんやになっている。
稲賀は靴屋の隅で、足袋ではなくチケットを楽しそうに見つめる女性を観察してみた。デモに彼女も参加していたのだろうか、と予想してみるが、当然、何も分からない。
その女性は稲賀の視線に気づき、そのまま視線をスライドさせて、畑中聡を凝視する。直後、軽いお辞儀のような動作を見せていた。
「ところで『欠落のレッドアイ』を考案した揚出連也がすごいんです。カリスマです」
女性には無反応のまま、畑中聡は熱弁を始める。
意気揚々と、揚出連也の凄さをありとあらゆる角度から説明した後、どうして続編を出さないのでしょうか、とまるで対面にカリスマが本当に存在しているかのようにして、熱を持って、畑中聡は叱咤激励を始めている。
稲賀は慌てて、畑中聡から距離を取った。
壁際に置かれていた先鋭的な椅子に腰を掛ける。
日本にちょっといないだけで、こんなにも流行は変わるもんなんだな、としみじみ思う。
『欠落のレッドアイ』がブームになっていることは、電子上の文字で一読していた。
動画も、見た。
ただ技術が進み、いつでもどこでも日本の情報が入手できるとはいえ、やはり実際に目の前で経験したことと、見聞きしただけの情報を比較すると、そこには大きな隔たりがあった。
それは、血肉になっていない栄養素のようだった。
欠落のレッドアイ 木村文彦 @ayahikokimura
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