信頼の崩壊 ②

 ヴァナネルサの怒声が森の静寂を破り、木々が震えるように響いた。彼の目にはもう理性が欠片もなく、ただ圧倒的な怒りと絶望だけが宿っていた。顔は血に染まり、身体中からは怒気と殺意がにじみ出ている。まさに彼は獣のように見え、ただ目の前の敵を打倒することだけを求めていた。


 ケビンはその迫力に一瞬、息を呑むが、すぐに冷静さを取り戻す。ヴァナネルサの狂気じみた眼差しが、自分に向けられていることを実感し、次の動きを予測して身構える。銀剣をしっかりと握りしめ、その刃をヴァナネルサに向ける。


「頼む、落ち着いてくれ……! 話を、聞いてくれっ!」


 ケビンの声には、初めての切実さがこもっていた。ヴァナネルサの暴走を止めるためには、今すぐにでも冷静さを取り戻させなければならない。その思いが、彼の言葉に込められていた。無意識にカリナや死体が転がる場所から遠ざかるように、足を進めながら、彼は一歩、また一歩とヴァナネルサに近づいた。


 だが、ヴァナネルサの目はまるで凍りついたように冷たく、ケビンの言葉を全く無視していた。彼の爪が再び鋭く、ケビンに迫る。その目には、悲しみや悔いが全く感じられない。ただ、心の奥底から湧き上がる怒りだけが、彼を突き動かしていた。


「ヴぁああっぁぁあああああああ”あぁあ”ああ”!」


 ヴァナネルサの叫びが、森の中に反響する。濁音交じりのその声には、もはや理性のかけらもなかった。怒り、絶望、そして深い喪失感が全て詰め込まれ、彼の体から溢れ出す。それはまるで暴風のように、周囲の空気を震わせ、森の木々までがその波動に揺れ動くようだった。


 乱雑に振るわれた腕が、彼の内面の狂気をそのまま物理的に表しているかのように、近くにあった果実を破壊する。皮が裂け、果汁が地面にこぼれ、赤く染まった液体が土を濡らしていく。


 それは、ヴァナネルサが失ったものの象徴のようにも見えた。


 力を込めて腕を振り続けるたびに、その体から溢れ出す感情がすさまじい力となり地面を叩きつける。刈られた草花たちは、無力に倒れていった。


 ケビンは目の前で暴れ続けるヴァナネルサの攻撃を巧みに躱しながら、必死に場を収める方法を模索していた。ヴァナネルサの動きは無秩序で荒々しく、恐ろしいほどの力を持っていたが、その裏にある怒りと絶望がケビンにははっきりと伝わってきた。暴れる度に、彼の内面の崩壊が周囲に影響を及ぼし、まるでその破壊力が物理的に現れているかのようだ。


 ケビンは息を飲み、焦りを感じながらも冷静を保とうとする。攻撃を避けるたびに、ヴァナネルサが傷つけているのは物だけではない。ケビンは心の中で、どうすれば彼の暴走を止められるのかを考え続けた。


 彼の頭に浮かんだのは、冷静に対話を試みることだった。理性を失ったヴァナネルサを止めるためには、ただの力ではどうにもならない。彼の心に届く言葉が必要だ。


 ケビンは自分の気持ちを整理し、深呼吸をしてからヴァナネルサに向かって言葉を放った。


「ヴァナネルサ、わかる。お前がどれだけ辛い思いをしてきたか。けど、こんなやり方じゃ、何も変わらない。お前の痛みを誰かにぶつけても、何も解決しないんだ!」


 その言葉は、ヴァナネルサを一瞬だけ止めたようだった。

 彼の動きがわずかに鈍り、顔に微かな迷いの色が浮かんだ。


「ヴルサイ……ッ!!!」


 ヴァナネルサが腕を激しく振るう。整った顔を怒りにゆがめ、ケビンに向けて怒声を浴びせる。顔は歪み、目には抑えきれない怒りがにじみ出ていた。


「あたしの……あ”だじの、がぞぐをうばっだぐせにっ……!!!!!」


 ヴァナネルサの怒声が森の中に響き渡る。その叫びに、周囲の静寂がさらに際立つ。拳が空を切る度、地面に強い衝撃が走り、草花が弾け飛ぶ。


 ケビンは一歩後退した。ヴァナネルサの怒りの矛先を避けながら、冷静に次の動きを考える。彼の目は、青年の姿を捉え続けている。どこかで、攻撃を受けることが必要だと感じ取っているのだった。暴走する感情を少しでも落ち着けさせるためには、何かきっかけを与えるしかない。


 再びヴァナネルサが腕を振り上げ、ケビンに向かって力強く振り下ろす。ケビンはその動きを見極め、さらに後退する。動きは最小限に、目の前の怒りを静かに受け流す。


 その攻撃が空を切り、地面に激しく衝突する。土煙が舞い上がり、ヴァナネルサの息遣いが荒く響く。ケビンは息を呑みながら、その状態を観察する。青年の怒りは一層強まり、狂気に近づいている。


 ケビンはその瞬間、冷静に思考を巡らせる。もしこれ以上ヴァナネルサを発狂させれば、もう二度と戻れなくなるだろう。人間としての理性を保てなくなる。その危険を避けるために、今すぐにでも何とかしなければならない。


「……ヴァナネルサ。俺を殺せ」


 ケビンの言葉が空気を引き裂くように響いた。ヴァナネルサは一瞬、その言葉に固まる。ケビンは目をしっかりと見据えながら、言葉を続けた。


「……ヴァナネルサ、俺を殺せ。お前の怒りが収まるなら、それでいい。ただ……お前がこのまま壊れちまったら、あいつらが喜ぶと思うか? お前を失うなんて、あいつらは望んじゃいない! ……だから。俺を殺してくれ」


 その目には恐れがない。もはやどんなことが起きても恐れることはないという、強い覚悟が滲んでいる。


 ヴァナネルサは息を呑み、再び拳を緩める。その目からは、抑えきれなかった感情が溢れ出し、次第に力を失っていく。怒りに満ちていた表情が、ゆっくりと崩れ、代わりに深い苦しみが浮かんでいた。


「~~~!! ……! …………」


 声にならぬ怒りの言葉が、ヴァナネルサの唇から漏れる。彼の目はまだ血走っており、顔の表情も歪んでいるが、その体から発せられる感情は、もはやただの怒りに留まらない。深い苦しみ、無力感、そして目の前にいる青年の覚悟に気持ちが揺らぐ。


「……なんで。なんで、なんで……っ」


 ヴァナネルサはその場に膝をつき、手で顔を覆う。涙が頬を伝い、無力に地面に落ちる。それは、彼が今まで堪えてきた感情の全てが崩れ落ちる瞬間だった。


「……あいつらが死んだのは、臓器奪いってやつのせいだ」


 ヴァナネルサを見ながら、ケビンが彼に真実を伝える。


「でも、それだけじゃない。……俺が、あいつらを守れなかったからだ。相手の狙いに一切気づく素振りなしに、油断して……結局、全員殺された」


 ヴァナネルサは再び顔を伏せ、涙を拭おうともせずにただただ震えていた。どれほどの時間をかけてその苦しみを抱えてきたのか、もう誰にもわからない。


「そう、なんだ……」


 ヴァナネルサは言葉を絞り出すように呟く。彼の声は震え、涙に溶けるようにかすれていた。彼が抱えている怒り、痛み、そして失ったものすべてがその一言に集約されていた。


 ケビンは静かにその姿を見守り、何も言わずに立ち尽くす。言葉では表せない重さが、二人の間に流れていた。どんなに言葉を重ねても、ヴァナネルサの傷が癒えるわけではない。だが、それでも――


「お前の痛みは俺には到底わからない。でも、お前が苦しみ続けるなら、せめて一緒に背負わせてくれ……。一人で抱え込むな。俺が、支えるから……!」


 謝罪がその喉元から絞り出された瞬間、いつもの彼とはまるで違う重みがあった。普段の彼の強気な姿勢とは裏腹に、深い悔しさと心からの後悔が込められていた。


 ヴァナネルサは顔を覆い、涙を止めようともせずにただ震えていた。

 ケビンがかけた言葉は、彼の胸の中に小さな変化をもたらしたかもしれない。

 しかし、それがどれだけ彼の痛みを癒すことができるのかはわからない。


 ケビンはその場に静かに立ち続け、何も言わなかった。

 言葉で伝えることがすべてではないことを彼は知っていた。


 今は、ただ二人の間に流れる沈黙を感じることしかできなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る