信頼の崩壊 ①
「うひぃ、さみぃなぁ……」
星々が照らすオーリスの森。その静かな平野で、ケビンたちは手分けして警戒にあたっていた。
夜目が利くヴァナネルサは食糧調達と周辺の警戒。
銀剣を手にしたケビンは、装備を整えつつ臨戦態勢で周囲を見回している。
「姫さん……寝てるなぁ。口の悪いあの人とは思えねぇぐれぇ、静かに」
ケビンは少し離れた場所に眠るカリナを一瞥する。
白磁のような肌、小柄な体躯、肩口まで伸びる黒髪。まるで美術品のような寝顔だ。いつもの堂々とした彼女の姿はそこにはなく、静かな寝息が規則正しく繰り返されていた。
「……ま、俺が見てるんだ。安心して寝てな」
独り言のように呟くと、ケビンは再び森の奥へと視線を戻す。
その時、ヴァナネルサが髪を揺らしながら戻ってきた。両手には、食べられそうな果実がいくつか握られている。
「にぃに! 戻ってきた!」
「たべもの! たべものだっ!」
子供たちが活気よく駆け寄り、果実を摘まんでいく。
「……お前ら、ちょっとは遠慮ってもんを覚えろよな」
ケビンは呆れたようにぼやいたが、子供たちは聞く耳を持たない。彼らの小さな手が次々と果実へ伸び、ヴァナネルサが持ち帰った分はあっという間に消えた。
「ありがとう、ヴぁなにぃ!」
「おいしかった!」
「ふふっ、よかった」
ヴァナネルサが微笑む。その桃色の髪が月明かりに照らされ、男らしからぬ可憐な印象を与える。
「……お前、本当に男なのか?」
「うん、本当だよ」
「…………小さいんだな」
「……? 何が?」
「気にすんな、なんでもない」
ケビンは自分より背の高いヴァナネルサの顔を見上げながら、ため息交じりに質問する。
「お前が持ってきた分、もうねぇじゃねぇか。俺らの分はどうすんだよ?」
「……ぁ」
「忘れてたのか……しょうがねぇ、これ持ってけ」
ケビンは上着を脱ぎ、ヴァナネルサに差し出す。
「これに入れて持ってこい。多く持って帰れるだろ」
「……ありがとう。でも、寒くないの?」
「寒いさ。無茶苦茶寒いさ! けどよ……姫さんが子供たちを守ってるんだ。俺だって、カッコつけなきゃダメだろ?」
「……わかった。行ってくる」
ヴァナネルサは上着を大事そうに抱え、森の奥へとひらりと消えていく。彼の背中が闇に溶けて見えなくなると、ケビンは一つ息を吐く。
「……はぁ、寒ぃ。あいつが帰ってくるまでが地獄だな」
子供たちはカリナのそばに集まり、身を寄せ合っている。カリナはまだ眠ったままで、微動だにしない。その横顔はまるで普通の少女のように儚げだった。
「ま、姫さんも疲れてるんだろうし。俺も一肌脱ぐしかねぇよなぁ」
ケビンが周囲を見回していると、ひゅうと風が吹いた。
「……なんだか、変だな」
背筋に悪寒が走る。それは戦場で感じた敵の殺気だ。
ケビンは無意識に銀剣を握り直す。森の奥、暗闇から低い唸り声が響いた。
「おいおい……勘弁してくれよ。何が起きるってんだ……?」
次の瞬間、小石がカランと転がる音がした。
「なんだっ――!」
ケビンの視線の先、不自然に動く小石。息を飲む間もなく、暗闇から何者かが現れた。
「あーらららら? なかなか鋭いですねぇ~」
その声と共に、ケビンの蹴りを軽やかに避けた相手が姿を見せる。少年の姿をした何者か。その瞳には、冷たい光が宿っていた。
「てめぇ……カリナの学友か?」
「ざぁんねん。僕は……お前らが殺した臓器奪いですよっ!!」
その言葉にケビンの顔が瞬時にこわばる。
「『臓器奪い』……だと!? てめぇは殺したはずだ……!!」
「殺したァ……? あぁ、そうかもですねぇ。両断されて、心臓を何度も潰されて。オモチャのように殺されましたねぇ。いやぁ、痛かったなぁ。痛かったなぁ!」
臓器奪いと自称する少年に対し、ケビンが無言で切りかかる。敵がバックステップしたことで、カリナとの間に割り込むことができた。
「あなたぁ……相当、女の子が好きなようですねぇ。お姫様を大好きな、白馬の王子っていう奴でしょうか? メルヘンですねぇ」
少年が言うと、ケビンは一瞬だけ息を呑み、その後、表情は何も変わらず、目の前の敵に向かってじっと見据える。
「そんなんじゃねぇ。俺にとって、姫さんは金づるなだけだ」
ケビンの言葉は冷徹そのものだったが、その時、わずかな筋肉の引きつりが唇に走った。だが、目線は一貫して動かさず、少年から離れなかった。
「そういう割には……視線がずっと、お姫様を向いてらっしゃる。なるほどねぇ」
少年の言葉に、ケビンの眉が微かに動く。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに元の位置に戻る。
その時、少年がゆっくりと近づいてきた。ケビンはその動きをじっと見つめながら、体の緊張をほぐさずに待機していた。
「……どうです? 交渉事でもいかがですか?」
ケビンは軽く息を吐き、口を一瞬だけ動かしたが、それは明確な反応ではなかった。眼差しだけが鋭さを増し、相手の次の言葉を待ち続ける。
「先に要件を聞かせろ。内容次第で考えてやる」
少年の提案に、ケビンは一切の感情を表に出さず、無表情のままその言葉を返す。
「……銀剣を置いてくださらないと、言う気はないですねぇ」
ケビンは無言で、剣の柄を握る手に力を込め、わずかにその視線を下げる。だが、顔の筋肉に変化はなく、唇が動くこともない。
「なら、諦めるんだな。俺はお前を信用していない」
ケビンの言葉には感情の起伏は見られず、ただ冷徹な響きがあった。その目が少年の動きに合わせてわずかに動いたが、すぐに元に戻ると、少年の言葉には一切反応しない。
少年は一瞬だけ目を細め、そして再び冷徹な笑みを浮かべる。
その瞬間だった。背中に、温かな感触がはしる。突如発生したぬくもりが背中の肌を濡らし、ケビンの動きが止まる。
火照った水が冷たい風に触れるような感覚。
それを理解して、ケビンが後ろを見る。
最悪な状況が――そこにはあった。
奴隷となった子供たちがみんな、殺されていたのだ。
背後に広がる光景は、ケビンの予感を裏切るものではなかった。薄暗い森の中、彼の知っていた顔がひとつまたひとつと無惨に倒れている。血が、無惨に広がっていた。あの子供たちが苦しむ顔は今、もうどこにもない。
ケビンの呼吸が一瞬、止まった。
「あひゃっ、ひゃひゃひゃひゃひゃっ!! 楽しいなぁ……弱者を蹂躙してするのは楽しいなぁっ!! 見ろよぉ……これでよぉ、僕は私は俺は、命を取り戻したっ!」
少年の高笑いが、静かな森に響き渡る。その声は、まるで狂気に満ちた風のように、ケビンの耳を打った。冷徹な瞳を一瞬で歪ませ、少年の喜びを感じ取ることができる。彼の背後で繰り広げられる恐怖の中で、少年は嬉しそうにその世界を楽しんでいた。
ケビンは、無意識に拳を握りしめる。だが、その手に力が入ることはなかった。ただただ、視界の中で死んでいった子供たちの姿が焼き付いていく。
「お前――」 ケビンの声は震えず、ただ冷徹に響いた。
「お前がやったのか」
少年は肩をすくめ、その目に挑戦的な光を浮かべながら答える。
「そうだよ。全部、僕がやったんだよ。だって、俺がそうしたかったからさ。少年の身体は馴染むけれど……折角だしねぇ、命を奪わないと意味がない」
その目は、どこまでも楽しげだ。
「てめぇ……!! 人の命を何だと思ってやがるんだ!!」
ケビンの怒声が、冷徹な森の空気を切り裂いた。しかし、少年はその声に一切の動揺を見せず、ただ楽しげな笑みを浮かべながら言い放つ。
「人の命ぃ? そんなのぉ、嗜好品にすぎませんよっ!!」
少年の言葉は、まるで人間の命が無価値であるかのように響いた。その目は、ケビンを愉しむかのように見つめ、何の罪悪感も感じていない様子だった。
まるで命を奪うことがゲームの一部のようだ。
「残念でしたねぇ。少年を一人で森を歩かせなければ、意識を乗っ取る魔法を知る、僕を復活させるなんてできなかったのにねぇ……残念だ。全く残念だよぉ。君が子供たちに気を配る意識さえあればぁ……ちゃぁんと生存させられたのにねぇ」
少年の言葉は、冷徹にケビンの弱点を突いてきた。彼の冷笑がケビンの胸に重くのしかかる。どこまでも無慈悲に、少年は語り続ける。
「フフッ、動けないんだろぉ? 当然さぁ。だって、君はどうやって僕が彼らの命を奪ったか方法が分からない。お姫様が殺されるかもしれないって思っているから動くなんてできるわけないんだよねぇ?」
ケビンの体は、まるで石のように固まっていた。少年の言葉に揺さぶられた心情が、体の自由を奪っている。彼の中で、無力さがじわじわと広がる。少年が言う通り、彼は今、無力であり、何もできない。お姫様が危険に晒されているという恐怖が、彼の思考を支配しているからだ。
「くっ……お前……!」
ケビンは必死に拳を握りしめ、悔しさを噛み締める。
「おっと、そんなに焦らないで。君には今、何もできないんだから。どうせ、君が立ち上がったところで、もう遅いんだよ。それに……お楽しみはこれからだ!」
少年は楽しげに手を広げながら、大きな口を開けてあざ笑う。
「それじゃあ、後は楽しんでよ。勘違いした、青年とさっ!」
少年の体を乗っ取ったと思われる男が、去っていく。
ケビンが追うことを考えていたが、足を動かすことができない。
お姫様が殺される可能性。
それと――もう一つ。
「あ……あぁ……」
桃色の髪を揺らす青年、ヴァナネルサが戻ってきてしまったのだ。
しかも、彼が見たのは――臓器奪いが去った後。
後ろで転がる血だらけの子供と、ケビンの姿だけである。
「おまえぇぇぇええええ”ぇ”ぇ”ぇええええええっ!!」
ヴァナネルサの怒声が森の中に響き渡る。その声には、抑えきれない怒りと絶望が込められていた。猫のような瞳を細め、ヴァナネルサが襲い掛かる。
臓器奪いと名乗る人物によって引き起こされた、殺戮は――
最悪の戦いを引き起こす、引き金となってしまったのだ。
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