信頼と嫉妬をしあう男たち

 鬱蒼と木々が茂るオーリスの森を、カリナたちは眠らず歩き続けていた。昼夜を問わず薄暗い森の中は、わずかな風の音や足元の枝が折れる音さえ、不気味に響く。敵が潜む気配を警戒するあまり、全身の神経が張り詰める。


 夜目の利くヴァナネルサが、先行するエストンとケビンに短い指示を送る。二人は息を潜めながら道を探し、足音を抑えて進んでいた。敵襲からわずか数時間。疲労が確実に彼らの体力を奪っているはずだが、誰も弱音を漏らすことはない。


 背後にはもっと疲弊している王女と、その命を守ろうとする仲間たちが控えているのだから。


 カリナは、ヴァナネルサの肩に寄りかかりながら歩を進めていた。痛みと疲労が体を蝕む中、立ち止まるわけにはいかない。前を行く仲間たちや、彼らを守る責任が彼女の肩に重くのしかかっている。


 これ以上、犠牲は出さない。私が弱さを見せれば、それだけで誰かが命を落とすことになる。そんな過ちは、もう繰り返さない……


 自分に言い聞かせるようにそう考えながら、視線を正面に据える。


 しばらく歩くと、森の空気が少しずつ変化し始めた。木々の密度が薄くなり、肌に触れる風が冷たさを増していく。やがて月光が差し込み、遠くから草原の匂いが漂ってきた。


 足元の感触も、湿った泥から乾いた地面へと変わる。カリナは小さく息を飲み、目の前に広がった景色に自然と歩みを止めた。


 草原の平野が広がり、その先には、馬たちの姿が見える。

 一人の犠牲者を出す形で、生き残ることができたのだ。


 しかも、捕虜にされかかっていた普通学校の同級生を助けた上で、将軍や王立学院の仲間にも犠牲は出ていない。つまり、捕縛作戦は成功したのだ。


(よかっ……た……)


 歓喜に湧く子供や普通学校の仲間を見ながら、カリナの足から力が抜ける。

 力を失った体が前へ倒れ込み、地面に顔をぶつけそうになる。


「あぶないっ!」


 そんな彼女を支えたのは、近場にいたヴァナネルサだった。猫亜人の彼はひょいと彼女を持ち上げてから、エストンへと託そうとする。


「あなた、いちばん、つよい、おもいます。だから……おねがい、します」


 掠れた声で紡がれたヴァナネルサの言葉に、エストンは一瞬驚きの表情を浮かべた。目の前で意識を失ったままの少女――カリナの姿へと視線を移す。彼女の小柄な体がヴァナネルサの腕の中でかすかに揺れている。


 その姿はまるで折れそうなほど儚く、疲弊しきっているように見えた。しかし、それでもなお、この少女がこの場にいる全員を守り、導こうとしていたことをエストンは知っている。


「……分かった」


 エストンは深く息を吐き、決意を込めて頷いた。


「ケビン、君に奴隷たちを連れていくための手配を頼みたい。馬で村へ戻り、すぐに馬車を手配してほしい。君なら出来るだろう?」


 その言葉に、ケビンは迷うことなく服の中から小型の通信装置を取り出した。それは戦場や日常で幅広く使用されている連絡用の道具だ。


「こういうこともあろうかと、馬を手配するときに隠し持っていましたよ」


 ケビンは軽く肩をすくめながら道具を掲げた。その様子を見たエストンは目を細め、皮肉めいた口調で呟く。


「……驚いたな。金にがめつい脳足りんだと思っていたが……やるようだ」


「酷い評価だなぁ。まぁ、いいや」


 ケビンは苦笑を浮かべつつ装置をエストンに手渡した。その仕草はどこか軽薄そうにも見えるが、彼の目には迷いがない。


「取りあえず、これで連絡をお願いしますよ。馬車を用意するくらい簡単に手配できますから」


 エストンは通信装置を受け取ると、それを一瞥しつつすぐに操作を始めた。ヴァナネルサはそんな二人のやり取りを見守りながら、意識のないカリナへと目を移す。


 ヴァナネルサはカリナの顔をじっと見つめながら、震える声で呟く。


「カリナさま……いまは、やすんで……だいじょうぶ、だから」


 その小さな声は誰にも届かないほどかすかだったが、ヴァナネルサの表情には、疲労とともに深い決意が宿っていた。

 一方、通信装置を操作していたエストンが眉をひそめ、ケビンに視線を向けた。


「これ……結構な高級品だぞ。どこで手に入れた?」


 ケビンは軽く鼻を鳴らし、肩をすくめる。


「借りたんだよ、馬ごと。博打好きだから、そういうコネは強いんでね。忙しすぎて用意してなかったんだろうけどよ、あってよかっただろ?」

「将軍に対して何たる口ぶりだ……と言いたくはなるが。まぁ、助かったよ」

「誠意は言葉ではなく金額だからな。報酬弾んでくれよ?」

「…………銭ゲバめ」


 エストンは短く応じると、再び通信装置の操作に戻った。ヴァナネルサはケビンとエストンの会話には目もくれず、カリナの手をそっと握りしめる。


「カリナさま……きず、なおす。あたしの、ちからで……」


 ヴァナネルサの声は震えていたが、目には決意が宿っていた。彼はゆっくりと股を閉じると、手をカリナの体にかざし、治癒魔法をかけ始めた。


 血と泥で汚れたその体が、まるで時間が巻き戻されるかのように、次第に元の状態に戻っていく。傷が塞がり、汚れた顔がキレイになる。


「おや。これまたきれいになったようだねぇ。あんがとなぁ、にいちゃん」


 ケビンは片手を腰に当て、気安くヴァナネルサに話しかける。その仕草からは、まるで何も驚いた様子がないかのようだ。


「……あなたは?」


 ヴァナネルサは冷静に尋ねる。ケビンは少し首を傾げ、肩をすくめた。


「俺ゃ、ケビンっていうんだ。姫さんとは、それなりに交友がなげぇのよ」


 その言葉に、ヴァナネルサの眉がわずかにひそまる。


「……それって、どういう、こと?」

「簡単にいや、昔からの知り合いってこった。こんなんでも、姫さんの友人としては永遠の二番手を誇れる自信があるぜ? 間違いなくな」


 けっけっけっと笑う男に対し、ヴァナネルサがむっとした顔を見せる。


「……あたし、せんぞ、く、しようにん」


 ヴァナネルサが言葉を切り、重く吐き出すように告げると、ケビンは一瞬言葉を失った。


「……は? 専属使用人……?」


 ケビンは少し間をおいてから、驚いたように問い返した。ヴァナネルサはその返答に目を細め、再び言葉を吐く。


「……あたし、カリナさまとずっと、いっしょ。これから、まいにち……」


 嬉しそうに言葉を弾ませて、少女の髪をなでる。

 それに対し、ケビンは右手を掴んで止めさせた。


「汚い手で触るな。姫さんは、美しくあるならいいが……穢されるのはごめんだ」

「けが、す……? あたしが、ってこと?」

「あぁ、そうさ。大体、ありえねぇだろ。見ず知らずの奴隷に対してそんな言葉を、かけるなんて……いや、姫さんならありえねぇとはいえねぇな……」



「あたし、そんなこと、しない。カリナさま、たいせつ。ぜったい……!」


 ヴァナネルサは頬を膨らませ、しっかりとした口調で反論する。目に強い決意を宿らせ、ケビンの言葉に立ち向かうように。


 ケビンはその様子を冷めた目で見守っていたが、やがてゆっくりと息を吐き出す。


「あぁ、そうかい。ならいいよ。その代わり、てめぇが手を出したりしたら……俺ぁ許さねぇからな」


 彼の言葉には、深い警告の色が含まれていた。


 ヴァナネルサはその言葉を耳にし、少し息を呑んだが、すぐに自分の意思を強く持ち直す。


「わかってる。ぜったい、なにもしない」


 その言葉に、ケビンはわずかに口元を緩めると、少し挑戦的な笑みを浮かべた。

 ケビンは、その表情の意味が自分に近いそれを含んでいると理解する。


 バチバチと、互いに火花を散らしていると――背後から、エストンの声が静かに響く。


「二人とも、ちょっといいか」


 その一言に、ヴァナネルサとケビンは同時に振り向く。ケビンは眉をひそめ、少し不満そうな表情を浮かべながらも、エストンに視線を向けた。


「姫様を回収するための馬車について、手配した。私は現在の状況について、事前に報告するべく国へと戻る予定だ。それにあたり……二人に監視してほしい」

「監視っていうと……あれか? 敵兵がいないか、確認するってか?」

「そういうことだ。私は、貴様らを信用する。代わりに……カリナ様を守れ」


 エストンはケビンの前に顔をこわばらせて、いう。


「それと……変なことをするなよ。私に噓をついたら、その時は……分かるな?」


 エストンの問いに、ケビンが割り込むように返答する。


「しやせんよ、んなこと。姫さんに金貸して貰ってんすよ?」

「……そうか。なら、信用することにしよう」

「意外に、軽いっすね。なんでっすか?」

「あの化け物を倒して見せたのだろう? 当然ではないか」


 ふっとエストンは笑ってから言い、馬に乗る。


「それじゃあ、頼んだぞ」

「へいへい」

「わかり、ました」


 エストンはそう言ってから去っていった。

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