窮地 ②
「おやおや、その顔はもしかして痛いんですかぁ? それとも……悔しいんですかねぇ? ははっ、まぁいい。俺がやりたいことが、できるからなぁ」
男はまたもや人称を変えてから、軽く血塗られたメスを口元へ近づけると――血を舐めた。
男の舌が血をなぞり、その不気味な行動にカリナの眉がわずかに動く。吐き気を催すような光景だが、彼の顔には狂気に満ちた笑みが浮かんでいた。
「おいしいなぁ……こういう新鮮な血ってのはたまらない。ああ、もっとその絶望に染まった表情を見せてくれよぉ!」
彼の声は高揚感を帯びており、その姿はもはや人間というより化け物じみていた。
「……くだらない、人間の血がおいしいわけがないだろ? 化け物でもないのに」
カリナは傷の痛みをこらえながら、毅然とした声で挑発する。その目には強い怒りが宿り相手に隙を与えない覚悟が滲み出ていた。
男はその言葉に反応して肩を震わせるように笑い出す。
男の唇が、醜悪な笑みに歪む。
「けけけっ! いいねぇ、その言葉、その目! 僕を化け物って言うけどなぁ、君だって同じだろう? どうせ戦場で山ほど殺してきたんだろう? 僕と何が違うっていうんだい?」
彼の指先が胸元の「顔」に触れる。その瞬間、顔の一つが大きく歪み、涙を流しながら笑い声を上げる。その声は異様に高く、不快な音がカリナの耳に突き刺さるようだった。
「聞こえるかい? こいつらはみんな、僕に感謝してるんだよぉ。死んだ後もこうして僕と一緒にいられるんだからなぁ! ほら、見てみろよ――彼らがどれだけ嬉しそうにしてるか!」
男が胸元を指差すと、埋め込まれた顔たちが一斉に動き出す。その表情は引き裂かれるような苦悶に満ちているが、同時に笑い声が混じっており、異常性を際立たせていた。
「……救いようのない狂人だな」
カリナは冷たく言い放ち、剣を握る手にさらに力を込める。
「君に何がわかる! 僕は彼らを救ったんだ! この無情な世界で命が終わるなんて、そんな哀れなことを許すわけにはいかないだろう!? だから僕が、永遠にしてあげたんだよぉ!」
男の声には歪んだ信念すら感じられるが、結局は狂人の戯言に過ぎない。
目の前にいるのは、自分の欲望を語り、人の尊厳を踏みにじる快楽生物なのだ。
「……言っていることが矛盾しているな。お前のしていることは救いではなく、ただの冒涜だ」
カリナの言葉が鋭く刺さるように響くが、男は肩を震わせて再び高笑いする。
「けけけっ! いいぞ、その正義感! 僕はそういうのが大好きなんだ! 君みたいな真っ直ぐな奴を見ると、一体化したくてたまらない! 君の頭を食べて記憶を見て、一体化する! あぁなんて優しい世界なんだろう! 素晴らしいんだろう! 最高じゃないかぁ!!!」
男は一歩、また一歩とカリナに近づく。その胸元の「顔」たちが、まるでカリナを見つめるように目を動かし、不気味な笑みを浮かべたように見えた。
「さあ、君の血と魂も、僕のコレクションに加えようか!」
男が狂気じみた笑い声を上げながら、メスを振りかざしてカリナに襲いかかる。
あまりに低い体勢から放たれる瞬歩と、相手をしとめるための銀メスが投げられる。
その攻撃を見切り、避けようとするが――身体はついてこない。
バランスを崩し、転倒した。刹那、投げられた銀メスがカリナの肩をかすめ、闇夜へと消えていく。
「ぐっ……!」
「あららららららら? もう終わりですかぁ!?」
カリナは肩に手を当てて痛みに耐えるが、すぐに視線を上げて男の次の動きを捉えた。その間にも男はさらに低い体勢から滑るように近づき、まるで蛇が獲物を襲うかのように執拗だった。
「どうしたぁ、美人さん! さっきの余裕はどこいったんだい!? 疲れた? それとも、怖くなったのかなぁ? かわいそうでちゅねぇ! そんな若いのに、死んじゃうなんて!!」
男の声が不快なほど楽しげに響く。その言葉にカリナの眉がわずかに歪むが、彼女は動揺を押し殺して冷静さを取り戻そうとする。
「……うるさい化け物が。お前なんかに、やられるわけがないだろう!」
彼女は自らを奮い立たせるように叫び、剣を握る手にさらに力を込めた。しかし、体が思うように動かない。先ほどの戦闘での疲労と出血が、じわじわと彼女の力を奪っていた。
「けけけっ! その必死な顔、たまらないなぁ! でも……そろそろ、食べないとね! 死ぬと鮮度が落ちるからさ!! じゃ……いただきますっ!!!」
男は動けないカリナめがけて、突進する。銀剣を投擲する力がない。最早このまま、死ぬしかない。彼女がそのように悟っていた時――
「させぬ!」
巨体が、彼女の前に立ちはだかり攻撃をはじき返した。
「……エストン!」
カリナが驚きと安堵の入り混じった声を上げる。その前に立つのは将軍エストンだ。
「間に合ってよかった……! カリナ様、奴を倒せばいいのですね!」
「えぇ、そうです! 一緒に――」
「いえ、逃げてください!」
「――なっ!?」
カリナは思わずエストンの顔を見上げた。力強く告げられたその言葉の意味が理解できず、目を見開く。
「将軍、何を言って――」
「ここは私が食い止めます! ヴァナネルサ殿とともに、子どもたちを連れて逃げてください!」
エストンの声は、これまでにないほどの真剣さと覚悟に満ちていた。その巨体は幾多の戦場を駆け抜け、無数の傷を刻まれてきたが、今、その背中には微塵の迷いも恐怖もない。
数多の死線を超えてきた故の力が、そこにはあった。
「冗談じゃないわ! 一人でこんな奴を相手にできるはずが――!」
カリナが激昂する間もなく、エストンは戦槌を高々と振り上げ、地面へと叩きつける。
「舐めるな小娘ぇ!」
大地が揺れるほどの大声に、カリナの背中がびくっと跳ねる。
「私は! 現アルドリック政権将軍、エストンである! 越えてきた死線は数知れず! 数多の危機を一人で乗り越えてきたっ!! 眼前にいる化け物など、取るに足らずっ!!! ゆえに、逃げろ! 私を置いて、逃げるのだ!!!」
「――わかりました。その代わり、生きて帰ってきてください。」
カリナは、エストンの決意を受け取り、背中を見せて逃げ出した。
「さぁ、来い! 化け物よ! ともに闇夜に踊ろうぞ!!」
エストンの叫びが、戦場に響き渡る。彼の戦槌が再び振り上げられ、力強く地面に叩きつけられる。その瞬間、土煙が舞い、空気が震えた。
決意の背中に、カリナは何度も振り返りたくなった。しかし、彼女は決して足を止めず、足早にその場を離れた。エストンが無事に生き残り、再び会うことを心の底から願いながら――。
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