窮地 ①
カリナたちが洞窟に足を踏み入れたのは、喧嘩をしてから15分後のことだった。
まず耳に飛び込んできたのは幼い子どもたちの歓声だ。
「ルサにいたち、かえってきた!」
「ヴァナネルサにいちゃ! ねぇちゃも、おかえり!」
「なんかでっかいひとがいる! かじつ、おおい! すごい!!」
奥から小さな足音が響き、泥で汚れた服を着た子どもたちが次々と駆け寄ってくる。その目は眼前に置かれていくご馳走で輝きを増し続けていた。
「おにく、おにくだ!」
「たべていい!?」
「だめだよぉ、ちゃんと、てを、あらって、ひを、とおさなきゃ」
ヴァナネルサは微笑みながら、幼い彼らを安心させるように優しい声で答える。
「うん、これ、みんなで、たべられる……あした、しんぱい、ない……」
その言葉に子どもたちはさらに喜び、ヴァナネルサの周りに集まっては手を伸ばしたり、小さな拳で死体を軽く叩いてみたりしている。
一方で、カリナはその光景を少し離れた場所から見守っていた。彼女の視線はヴァナネルサの背中に注がれている。その背中は、先ほどまでの戦いや死体を運んだことで泥と血で汚れていたが、子どもたちに囲まれる彼の姿は、まるで英雄のように見えた。
ふと、カリナは自分の手を見下ろした。小さく、それほど力強くもない手。その手で剣を握り戦ったばかりだが、どこか無力さを感じてしまう。
先ほどエストンと交わしたやり取りに、不甲斐ない気持ちが宿る。
自分は、結局のところ幼いのだ。赤子のように理想論を並べては、油断・慢心している。行動で誰を救えるのかすらわからずに、友人を奪っていった祝福差別をなくすために掲げている。
だがそれは、掲げたとてそれに見合う経済代価がなければ意味がないのだ。
(……私は、幼い。父の逸話もなければ、ワラガオ卿のような狡猾さもなく、エストン将軍の様な知性もないんだ。12歳だからって甘えてないで、もっと努力しなければ……)
そんな考えが頭をよぎる。エストンの冷静な言葉、ヴァナネルサの覚悟、そして子どもたちの無邪気な期待――それらが彼女の胸の中で複雑に絡み合い、彼女を焦らせた。
「……カリナ様」
後ろから、エストンがそっと声をかけてきた。彼の表情は落ち着いているが、どこか険しさが感じられる。
「お伝えしたいことがございます。こちらへ来てください」
「わかった」
カリナは一瞬視線を彼に向け、うなずくと足を進める。
案内されたのは、人気のない場所に設置された焚火跡だ。近場には着火道具も置かれている。
「これで火を起こせる可能性があります。ランタンだけを光源にするよりは、幾分ましかと」
「……あぁ、そうだな。呼んでくるとしよう。因みに、あの肉はいつまでもつ?」
「この気温から察するに、長くはもちません。老廃物の除去などを早めに済ませなければ、過食部分はどんどん消えていくという認識でよいでしょう」
「わかった。急ぐとする」
エストンが淡々と現実を口にする。その言葉がカリナの心にさらに重くのしかかった。
「長くは……もたない、か」
カリナは低くつぶやきながら、洞窟へと急いで戻る。
洞窟内に戻ると、カリナはすぐにヴァナネルサを探し、彼に声をかけた。
「ヴァナネルサ。着火道具を見つけたから、こっちへ運んでもらってもいいかな?」
ヴァナネルサは肩に魔獣の死体を担いだまま、少し戸惑った表情で振り返る。彼の額にはうっすらと汗が滲み、疲労が見え隠れしていたが、すぐにこくりとうなずいた。
「カリナ、さま。えっと、はい。わかり、ました……」
彼は力強く返事をすると、ゆっくりとした動きで死体を担ぎ直し、エストンのいる方向へ向かって歩き始めた。その背中を見送ったカリナは、洞窟に残る子どもたちに視線を向ける。
「みんなは、さっき集めた果物や木の実を外に運んでくれる?」
カリナの提案に、年上の子どもたちが元気よく声をあげた。
「うん! わかった!」
「じゃあ、これもって、いくね!」
健気なその様子を見て、カリナは一瞬だけ肩の力を抜いた。しかし、彼女の心の中では未だ焦燥が入り混じっていた。
自分がブレス王国へ呼べば、彼らに待っているのは戸籍なしの苦しい生活だ。
カリナは無意識に拳を握りしめる。王国での無戸籍者の扱いを彼女は知っていた。
どれだけ頑張っても正当な労働機会は与えられず、生活物資も十分には手に入らない。
街で居場所を失い、最終的には再び飢えに苦しむだけ――それが彼らの未来だとしたら、自分の選択は本当に正しいのか。
(本当に、彼らを連れていくべきなのだろうか……)
「……くそっ」
カリナは残っているものがないことを確認した後、声に悔しさをにじませる。
どれだけ無力を感じ、悔しさを抱えていても、選択の時はやってくる。今は頑張るしかないと分かっていても、やはり過去の失態は思い出すのだ。
(どうして……もっと早く、力をつけられなかったんだろう)
あの時のアリスが、脳裏によぎる。爆風と共に即死した彼女を助けることができたのに、それほどの実力差があったのに、一瞬だけ慢心したことで死なせてしまったのだ。
寒風が心を冷やしていく。そんな頃。
聞こえるはずのない男の声が、闇夜から響く。
「不思議な煙につられてきましたが……ひひっ――こんな所に、いたんですかぁ」
声が不気味によどみ、周りの空気を重々しいものへと変化させる。
「おやおや。先ほどの美人さんではないですか。いひひっ、こんなぁ所で出会えるなんて。私、うれしい限りですよ。えぇ、本当に」
その声に、カリナは反射的に体を硬直させた。闇の中から響く不気味な笑い声。予感が、胸の中で膨れ上がる。自分の心が、すでに彼に対する憎しみと恐怖で満たされていくのを感じた。
「ひひっ――こんな所に、いたんですかぁ」
声が近づいてくる。草木がかき分けられ、足音が次第にはっきりと響く。カリナの手が自然と剣の柄に触れ、体が戦闘の構えに入る。乱れた髪、血にまみれた白衣、そして手には血の滴る短剣。その顔には醜悪な笑みが浮かび、目には冷徹な光が宿り、けけけと笑い声を出している。
「お前は――さっきの狂人!?」
カリナは驚愕したような顔で語気を強める。
男はその言葉に反応して、より一層醜悪な笑みを浮かべた。薄暗い光の中で、その表情が歪み、まるで人間とは思えないほどの狂気を漂わせている。
「けけけっ、そうです、そうです! いやぁ、覚えていただけるとは光栄ですねぇ。先ほどは急ぎで挨拶もろくにできませんでしたからねえ……美人さんが逃げちゃうなんて、悲しいったらありゃしない。何より……一度殺されかけたからなぁ!! おかげで甦るのに苦労したぜぇ! 僕はよぉ!!!」
「――!?」
男が突然、人称を変えて言葉を荒げると、地面を強く踏みつけた。その瞬間、彼の体が空気を切り裂くように、矢のような速度でカリナに向かって突進してきた。
「速い……!」
カリナはその異様な速さに目を見開いたが、すぐに剣を構えて防御態勢をとる。だが、男の動きは予想を超えていた。短剣を低い角度から突き上げるように振り抜き、同時に横へと大きく跳ねる。その動きには、計算された残虐性と異常な俊敏さが宿っている。
「どうしたんです、美人さん! さっきの威勢はどこへ行きましたかぁ!?」
彼の声は狂気に満ちていたが、その目には冷酷な計算が光っていた。カリナは咄嗟に一歩下がり、攻撃をかわすと同時に反撃の隙を探る。
しかし、その一歩が男に新たな攻撃の機会を与えてしまった。
「けけけっ、甘い甘い!」
男はすかさず短剣をカリナの肩めがけて振り下ろす。反射的に剣を横に振り、刃を受け止める。金属同士がぶつかり合い、火花が飛び散った。
「くっ……!」
カリナは力を込めて押し返すが、男の腕力は予想以上だった。痩せた外見からは想像できないほどの力が剣を押し返し、じりじりと追い詰められる。
「どうしましたぁ? その程度の力で、僕を倒せるとでも思ってたんですかぁ!」
彼女は体の力を一点に集中させ、剣を大きく振り払った。その勢いで男は後方に飛び退くが、その顔には余裕の笑みが残っている。
「――痛いな」
カリナは左腕の痛みを感じながら、呟く。その痛みは肘からじわじわと広がり、鈍い重さを伴っている。腕を動かすたびに、傷口から血が滲む感覚が伝わってきた。
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