サディストとの闘い

「……それにしても、3か月の間、よく生き残れましたね」


 目の前の少年に目を落とし、カリナは静かに呟いた。その腕には食い込んだ縄の痕が赤黒く残り、擦り切れた制服からは痩せた体が透けて見える。


 戦争が昨日、ようやく終結を迎えた。しかし、戻ってきた人々の中には、王立学院の生徒や既に高位の役職を持つ兵士がほとんどを占め、普通学校に通う生徒たちの姿はほとんどなかった。


 ――それほどまでに、今回の戦争は悲惨だった。


「運が良かっただけですよ。それに、最近までは猫亜人に助けて貰っていました」

「……猫亜人?」

「はい。服装がみすぼらしい、女性っぽい顔立ちだったと思います。お礼を伝えようと思っていたんですが、あの兵士たちが来たときに見捨てられちゃったんですよね」


 奴隷の中に、魔法を扱える者がいる――それは、カリナにとって非常に興味深い情報だった。もしその猫亜人が戦場で力を発揮したのならば、教育と指導次第で手元に置き、大きな戦力に変えることができるかもしれない。


 「その猫亜人がどこへ行ったのか、わかりますか?」


 少年は首を振った。


「わかりません。ただ、兵士たちが来たとき、彼女はすぐに姿を消しました。あっという間に……。あんな動き、普通じゃないですよ」


 少年の言葉に、カリナの思考は鋭く動き出す。魔法だけでなく、卓越した身体能力まで備えている可能性――それは、未知の戦力としての価値を強く感じさせた。だが同時に、焦りや欲を抱いて冷静さを失えば、判断を誤ることになる。それだけは避けなければならない。


 「そう……。話してくれて、ありがとう」


 冷静を装いながら答えるカリナに、少年は一瞬だけ驚いた表情を見せた。


「いえ。むしろ感謝するのはこちらですから」


 少年の声はどこか落ち着いていたが、その裏に疲労や戸惑いがあるようにみえる。カリナは、彼の言葉を表面的に受け取るのではなく、その奥に隠されたものを探るように考えを巡らせた。


 過酷な戦場を生き延びた者の姿――そこにある痛みや苦悩。きっと、言葉では語り尽くせないほどのものを抱えているのだろう。そう思うと、自然と背筋が伸びた。


 王女である以上、弱さを見せるわけにはいかない。


「あなたが生き残ったこと、それ自体が重要なのよ。これから先、もっと力をつけていけばいいわ」


 意識して冷静な声を保ちながら、カリナはそう言葉を紡いだ。

 これ以上彼に踏み込むべきではない。今はただ、彼が安心できるように励ますのが最善だと判断したのだ。少年は頷いてみせる。その動きに、わずかな喜びが宿っているようにも見えたが、彼が何を感じているのかは推測するしかない。


 ふと、彼が顔を上げる。


「……そういえば、アリスはどうしたんですか?」


 その瞬間、まるで心臓を掴まれたような感覚が襲ってきた。


 頭の中で響く彼の声が、喉元に鋭い刃を突き立ててきたような錯覚を覚える。思考は数秒の間、完全に停止した。ラグが少し生じてから、唇を噛む。

 反射的に感情を抑え込もうとする自分を感じる。


 が、意識すればするほど、心臓がひどく高鳴り、内側から破裂しそうな衝動が押し寄せてきた。なぜ彼がその名前を口にしたのか。

 どうして今、ここで聞く必要があるのか、なぜ、なぜ、なぜ。


 怒りと陰鬱な気持ちに支配されそうになる中、彼女は沈黙する。


「…………あぇ」


 落ち着いてから言葉を言おうとしたら、喉が焼けるように熱くなる。

 息を整えようとしても、うまくいかない。目の前の少年が何か言葉を発しているようだったが、耳に届く音は曖昧で、内容を理解する余裕がなかった。


 少年の声が何かを察したように強くなる。

 まずい兆候だ。そう判断した彼女は咄嗟に指を唇の前に持っていき、制した。

 静かに、落ち着け――そう自分にも言い聞かせるように、深く息を吸う。


「……アリスは――」


 言おうとした言葉が途中で詰まる。何を言えばいいのか、どう答えればいいのか、わからなかった。アリスのことを語るには、自分自身の心の整理がついていない。

 ましてや、目の前の少年にどう伝えたらよいのか、皆目見当もつかない。


 だって彼女は――自分を手りゅう弾から守るために庇って死んだのだ。

 友のために一度だけ手を汚しただけで、利益を貪る賊どもに殺されたのだ。


 もっと、遊びたかったはずなのに、できなかった。

 もっと、幸せを享受できたはずなのに、できなかった。


 すべて、自分が油断して彼女に庇わせたから。


「…………勇敢に、死んだ」


 頭が真っ白になりながら、記憶をこねくり回す。

 少女の死が無駄でなかったと自分に言い聞かせるように、言葉を選ぶ。


「……誰よりも気高く戦って――死んだわ」


 平坦に言おうと努力した声は、微妙に震えていたかもしれない。


 これ以上何かを言う必要はないと自分に言い聞かせる。少年がその言葉をどう受け取ったのか――そんなことを気にする余裕は、今のカリナにはなかった。


 胸の奥で渦巻く感情を、必死に抑え込む。後悔、痛み、怒り、そして弱さ――それらが混ざり合い、形を成さないまま暴れ回る。ここで崩れるわけにはいかない。自分は将来王になる。そして、亡き友が差別されていた世界を変えるのだ。


 弱さを見せるべきではない、決して。

 その思いだけが、彼女を何とか支えていた。


 次に声を発したのは少年だったが、その言葉はカリナの耳にはほとんど届かなかった。音だけは認識しているものの、内容は霞んでいた。彼が何を思い、何を感じているのか――それを知ることは、今のカリナには重要ではなかった。


 (友のために立つと誓ったのに、あまりにも弱すぎる。早く、死を乗り越えて世界のために魂を捧げろ)


 心の中で自分にそう叱咤する。いつまでこうして揺れていればいいのか。感傷に浸る暇があるなら、目の前の現実と向き合わなくてはならない。


 彼女はゆっくりと顔を上げた。気丈に振る舞おうとするその動きは、一瞬だけためらいを帯びたが、次にはしっかりと正面を向いていた。


「……ごめんなさい。さっき、何を言おうとしていたのかしら?」


 いつものように柔らかな微笑みを浮かべようとするが、それはうまく形をなさなかった。少年に気づかれたかどうかはわからない。


「……え?」


 いや、少年は気が付かなかったと断定できるだろう。

 なぜならその少年は――投げナイフで左肩を刺され、苦しんでいたのだから。


「うぅっ……」


 疲労がたまっているが故に声が出ていない。周りの兵士が来る可能性は低いが対処を早めなければ失血か感染症によって死ぬ可能性があるだろう。


「おや。あなた……相当幸運ですね。うなじを刺そうとしたんですが……狙いが外れ残念です、えぇはい。はい」


 冷たい残虐さをのせたような声が、暗闇から聞こえてくる。

 草木をかき分ける形で姿を現したのは、三十路ほどの男だった。

 

「おやおや。こんな所に装備が真新しい美人さんが一人ですか。全く、驚きましたよ。そんな人間がいるなんて、雇い主さんからは聞いていませんでしたねぇ。おっと、まずは謝罪を。失礼しましたね。興味を持っていただきたくて、つい貧民の男の子を殺してしまいました。まぁ、安心してください。同じ場所に、あなたもお送りして差し上げますよ」


 乱れた髪が汚れた顔にまとわりつき、その醜悪な笑みは人間性を感じさせない。身に纏う白衣から漂う医者の要素は、手には血塗られた短剣が否定する。


 その刃先からは生温かい赤い滴がポタリと地面へ落ちるなか、カリナはわずかに眉をひそめ、瞬きを数回して涙を流す。袖で拭えば攻撃が飛んでくるからだ。


「……おや? その容姿……事前に依頼者から見せられたものに似てるな……あちらの絵師が落書きのようなものを見せてきたからこんな不細工がいるかと思っていましたが……なるほど、理解しました」


 男は突然、短剣を軽やかに投擲した。刃は音を立てて一直線にカリナの喉元を狙って飛ぶ。彼女は剣を構える素振りすら見せず、わずかに首を動かすだけでその一撃を躱してみせる。刃は髪の一房を掠め、後方の幹に突き刺さる。


「おぉっと、これは驚きました!」


 男は大袈裟に手を打ち鳴らしながら、興奮したように声を上げる。その口元には舌が覗き、短剣の柄を掴むと、刃に付いた血をねっとりと舐め取った。


「なるほど……これは本物ですねぇ。貴女、ただの美人ではなく、動きも一級品のようだ……いいですねぇ!」


 鼻息を荒げながら、男はさらに一歩カリナに近づく。その目はまるで獲物を前にした猛獣のように輝いていた。


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