二人だけの作戦 ②
カリナが後ろを向くと、夕日が数時間後に沈むであろうことが確認できる。
薄霧が地面を覆い、湿った土の匂いが漂う。森のあちらこちらから聞こえてくる鳥類の鳴き声や昆虫が忙しなく動くさまは一切確認できない。
「静かすぎますね……」
カリナは辺りを見回しながら囁いた。エストンは手を挙げ、静かに合図を送る。
「森の中に潜む敵が、こちらの動きを察知している可能性があります。声を抑えてください。馬も近場の木々へ止めておき、我々だけが入るようにしましょう」
「……えぇ、そうですね」
それをうけた彼女は霧に包まれた森の中、慎重に一歩を踏み出した。足元には湿った土が広がり、靴底がわずかに沈む感覚が伝わる。枝葉の隙間からわずかに差し込む光が、ぼんやりとした道筋を作り出していたが、遠くへ進むにつれ、それさえも霧の濃さに呑まれていく。
エストンはカリナの数歩前を進みながら、手で周囲の枝を払い、足音を最小限に抑えるよう細心の注意を払っていた。彼の背中から漂う緊張感に、カリナも自然と呼吸を浅くし、霧の中に耳を澄ませた。
木々の間を吹き抜ける風の音に混じり、かすかな物音が聞こえた。どこかで枝が折れる微かな音――それが動物によるものなのか、敵の動きによるものなのか、判断がつかない。
「将軍……」
カリナが小声で呼びかけると、エストン将軍は素早く手を挙げて静止を促した。彼は片膝を地面につけ、地面に散らばる落ち葉や小枝を観察し始めた。
「足跡がある。新しいものだ」
彼が指差した先には、湿った土の上に残された靴跡がいくつも並んでいた。形や大きさからして大人のものだが、よく見ると雑多な靴底の模様が混じっている。カリナは顔を曇らせ、しゃがみ込んで跡を覗き込んだ。
「奴隷兵でしょうか?」
「恐らく」
エストン将軍の声には緊張が滲んでいた。
彼は周囲を警戒するように立ち上がり、カリナに目で指示を送る。
「慎重かつ、正確に進みましょう。動きを察知されて囲まれる、死角から一撃もらうのが、最も気を付けるべきことでしょうから」
「いえ、速度は出しましょう。ここまで来た以上、奴隷兵が使われているという確証を掴むべきです。例え危険があろうとも……絶対に、絶対に、捕まえなければなりません」
カリナはアリス達を思い返しながら、語気を強める。自分より何周りも年が短い彼女を見てから、視線をそらして短く息を吐き、手にしていた剣の柄に手を置く。
「……わかりました。歩を早めつつも、戦闘を極力避ける。これでいいですね?」
「了解しました」
カリナは頷き、将軍に続いて再び歩みを進めた。霧の中、二人の足音は土に吸い込まれるように静かだった。木々の隙間から垣間見える影や、かすかな物音に注意を払いながら、彼らは慎重に前進を続けた。
やがて、霧の向こうからぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。それは人影のようにも見えたが、霧がそれを歪めている。カリナは足を止め、エストンの肩をそっと叩いた。
「……あそこに、何かいます」
じっとその方向を見つめ、目を細めた。霧が少しずつ晴れるにつれ、人影の輪郭がはっきりしてきた。遠くに見えるのは、複数の男たちが集まる姿だった。その中には、捕らえられたように見える人々の影も混じっていた。その姿を見て、カリナは目を丸くする。
その男は、以前普通学校で共に学んだことのある人物だったからだ。話したことはなくとも顔見知りが拘束されている姿は、生きていたという喜びと共に緊迫感を彼女にもたらした。
「なるほど……帰還できなかった敵国の兵士を拘束するつもりか。軍閥の考え方は相当過激だ。回収しなければ、きっと誰一人とて残らなかっただろう」
エストンは装備から拘束用の縄を取り出し、カリナに確認の言葉を投げかけた。
「捕まえるのは、拘束されている少年と敵兵一名でよろしいでしょうか?」
カリナは少しの間黙考し、言葉を選びながら答える。
「……可能なら、殺さないように倒すことってできますか?」
エストンは静かに頷きつつも、慎重な口調で返した。
「可能ではありますが……相手は二人ですから。かなり難しいでしょうね」
彼女の眉がわずかに歪む。
「……そうですか。なら、一名は……しょうがないですね」
「わかりました。では、斬ります」
冷静に指示を受けたエストンは、無駄な動作ひとつせず立ち上がり、行動を開始した。
足音を殺して木々の間を移動する。手に持つ剣に震えはない。
カリナは後ろからその様子を見つめながら、小さく息を飲む。これから起こるであろう暴力的な光景に、覚悟を決めてはいても、どこか胸がざわつく。
(殺さずに済むなら、それが一番だと思う。でも、戦場ではそんな理想論が通じないことも……わかっている)
自分の甘さを否定しつつも、心の中では葛藤が渦巻いていた。けれど、今は迷っている場合ではない。自らの無力さを悔いるよりも、前に進むべきだとカリナは自分に言い聞かせた。
彼の指示に従い、音を立てないよう慎重に歩みを進める。
敵兵の声がかすかに聞こえる。どうやら少年を運びながら会話しているようだ。
「おい、そろそろ休まねぇか?」
「いや、まだだ。もう少し歩こう」
「そういうけどよぉ、かれこそ30分は歩いているぞ? 足が棒だよ」
「しょうがねぇだろ……」
二人のやり取りを耳にしながら、エストンは鋭い眼差しで敵の配置を確認する。少年は木に縛り付けられており、その前に二人の兵士が警戒心を持ちながら立っていた。
エストンは再びカリナへ振り返り、小さく手をかざす。
カリナは緊張でこわばる手を握りしめ、ゆっくりと頷いた。戦場で数え切れないほど命を散らしてきた彼女でも、目の前で行われる戦闘に身震いする自分がいるのを感じていた。
エストンは身を低くし、音もなく敵兵の背後に忍び寄る。距離が詰まった瞬間、鋭い刃が夜闇を切り裂いた。喉元を狙われた兵士が一瞬で地面に崩れ落ちる。
「っ、敵襲か!?」
もう一人の兵士が慌てて声を上げ、剣を構える。しかし、エストンはその間隙を見逃さない。次の一撃で兵士の武器を弾き飛ばすと、その隙に無力化するための一撃を加えた。短い戦闘が終わり、森には再び静寂が戻った。エストンは倒れた敵兵を確認すると、少年の元へ駆け寄る。
「大丈夫か?」
怯えた目で見つめる少年に、エストンは低い声で優しく問いかけた。
少年は小さく頷きながらも、縛られた手足を動かせずにいる。
遅れて近づいてきたカリナが、少年の様子を見て静かに言った。
「縄を解いてあげてください。きっと怪我もしています」
エストンは頷き、手早く縄を解くと、少年を優しく地面に座らせた。
「……怖くなかった? もう大丈夫だからね」
カリナの姿を見た少年は、目に輝きを取り戻した。
「カリナ……さん……。 ……! カリナさんだ……!!」
「うわっ……!?」
「怖かった……怖かったよぉ……」
少年の声が響く。久々の知り合いとの出会いに感情が爆発するのは当然だ。
だが――ここではあまり、良いことではない。
「おい、声が聞こえたぞ!」
「こっちだ!!」
遠くから複数の足音が聞こえてきた。
敵の増援だ。エストンは即座に立ち上がり、剣を握り直した。
「カリナ様、私があの者を討伐します。発煙筒と縄を渡しておくので、奴隷がいた場合は、拘束をお願いします」
「……わかりました。お願いします」
カリナも緊張した面持ちで頷く。これ以上ここで時間を費やすわけにはいかないだろう。
そう思いながら、捕縛予定の兵士を無視し、彼女たちは霧の中を再び進み始めた。
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