第10話


* * *


 このまま、もやもやした気持ちでゴールデンウィークの長期休みに入るのが嫌だった。

 翌日、千秋は意を決して家庭科準備室に向かった。また、呆れられたり、怒られるかもしれないけど。自分の今の気持ちだけは伝えたいと思った。

 放課後は、家庭科準備室で仕事をしているのを知っていたので、まっすぐに向かった。


「なんだ、千秋か。今日も一緒に飯とか言うなよ」

「先生、タバコ吸うんだ」


 ちょうど口にくわえたところだった。悪いことをして見つかった男子高校生みたいだ。学校は禁煙だし、喫煙所はない。多分悪いことをしている自覚はあるのだろう。

 そのくわえタバコの姿は、千秋の想像した通りだった。

 似合ってるし、さまになっている。にやり、と悪い笑みを浮かべられると、そわそわして落ち着かない気持ちになった。

 放課後で外からはサッカー部の練習の声が聞こえている。窓からさす夕日で、花妻の前髪がキラキラと光っていた。

 花妻はシガレットケースを机の引き出しにしまって、椅子に座ったまま千秋と向き合った。


「内緒にしてよ」

「俺が、嫌って言ったら、どうなるの」

「困るなぁ」


 その声は、あまり困ってない声だった。


「口寂しいから、くわえてただけで吸っていません」


 花妻は両手を上げて、無罪を主張した。自分が入ってこなかったら、絶対に吸っていたはずだ。


「じゃあ花妻先生、チョコ食べる?」

「チョコぉ、学校にお菓子を持ってきてはいけませんね。没収してやろ」


 千秋は花妻の手のひらにチョコの包みを置いた。


「先生って、先生みたいなこと言うよね」

「先生だからね」

「あのね、花妻先生、俺、先生を困らせたい訳じゃないよ」

「うん。千秋は、いい生徒だしね」

「昨日のこと、ごめんなさい。その、謝りたくて」


 そう言って千秋は勢いよく頭を下げていた。顔をあげると、花妻は、なぜか目を丸くしてた。千秋が頭を下げたのが意外だったらしい。少し固まっていたあと、ばつの悪い顔をしていた。


「先生の名前の由来、聞いて、ごめん。先生にだって聞かれたくないことあるのに。だから」

「ああ、そっちか。――別に、それは、別に大したことじゃないよ。あきは、元々先生のお姉ちゃんの名前なんだよ」

「え、お姉ちゃんって」

「よくある話じゃないかな。生まれてこられなかった子の名前を次の子に付けるって」


「それは、大した、ことだよ」

「まぁ、子供だった頃は、大したことだったよ。でも先生は、もう大人だからね。気にしてない」

「でも先生は、嫌だったんでしょう」

「うん」

「だったら、大人になっても、それは同じだから、気にしていいと思う。先生の嫌だった気持ちは、なしにならない」


 千秋はまっすぐに花妻の顔を見ていた。


「千秋は、本当……いい子だよなぁ。素直で優しいし。ご両親が大事に育ててくれたのがよくわかる。――だから、先生は、今から卑怯なこと言うよ。先生も、お前が可愛いし、大事だから」

「大事って」

「な、生徒と先生が、付き合うメリットってあんの?」


 凍るような冷たい目をされた。昨日と同じだった。


「……ッ、だって」


 好きになった人に、同じように好きになってもらえたら、一番、幸せだと思っている。

 それが、千秋が花妻と付き合う、一番のメリットだった。


「帰ってくれ」


 そう言って花妻は、千秋に背を向けた。男だから、女だからじゃない。先生だから駄目。そう言った花妻は、正しい先生で、千秋が思う理想の先生だ。

 千秋は先生が自分の先生でなくなるようなことはしたくない。

 けれど、ここで自分の気持ちを全部なかったことにするのが、大人になることだとは思えなかった。 


「――家庭科の、花妻先生が好きです」


 先生の背中に向かって、話していた。

 自分の気持ちだけは、最後まで伝えたいと思った。


「千秋、先生の言ったこと理解出来なかったか、先生と生徒は付き合えません」

「分かって、る。分かったから、先生、聞いてよ!」


 そう叫ぶように言うと、花妻は振り返った。

 ぼたぼた、と情けなく涙をこぼしている顔を、花妻に晒していた。そんなぐちゃぐちゃの顔を、花妻は椅子に座って静かに見ていた。


「だから、勉強も頑張るし、いい大学にも行く。健康で、誰よりも元気な生徒でいる」

「千秋、もう……いいから」

「どんなに、考えても、俺が、それくらい、しか、先生のメリットにならない生徒なのが、すごく悔しいし、自分に、ムカつく」


 言い終わると床に座り込んでいた。全部言えた、と思った。この小さな達成感は、子供の達成感だ。少しも誇らしくない。


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