第2話

気が付いた時には、保健室のベッドの上にいた。さっきまで聞こえていた入学式の喧騒とは打って変わって静かだ。消毒液のツンとした匂いと、洗いざらしシーツから香る優しい石鹸の匂い。


「俺、倒れたの?」


 天井を見上げたまま、千秋はぽつりと声を出した。健康優良児で、病気らしい病気をしたことがなく、倒れたのも初めてだった。自分が倒れたという事実にショックを受けていた。


「そうです。体育館出たところでな、しかも俺の目の前。迷惑な話だ」


 横を向けば細身のブラックスーツを着こなしている二十代くらいの若い男が立っていた。ずいぶん若い見た目から入学式に来た誰かの父親でないことは分かる。

 千秋も背が高い方だが、それは高校一年生としての平均より高いというだけで、男は、自分よりも上背があった。ファッションモデルだって言われたら多分納得する。


 斜め奥にある机の前には白衣を着た女性の保健医が座っていた。その人が男に「先生なら安心だから、あとは指導をお願いしていいかしら」といったので、隣の男が「先生」だと分かった。


 保健医が部屋から出て行くと、先生は「まだ四月なのに、今日は暑いな」と言いながら、ジャケットを脱いで机の上に置いた。そして丸椅子を持って千秋が寝ているベッドの脇に座った。


「お前みたいなデカい野郎を、ここまで引きずってきた俺、すごいと思わないか?」


 先生は大きなため息をついた。


「え?」

「無駄に鍛えてる体育教師だって近くにいるのにだぜ? ひどくね? 一番、若いからって理由でお前のこと押し付けられたの!」


 まだ、くらくらする頭を振って、ベッドから上体を起こした。


「で、ちゃんと朝飯は食ったのかよ」


 不機嫌さを隠しもせずに先生は言葉を続けた。

 人を小馬鹿にしたかのような冷めた切れ長の目が千秋をじっと見ている。

 街を歩けば、つい視線で追ってしまうような容姿なのに、口調は雑で、おおよそ先生という生き物には見えない。


「食べてない、なんか朝から気持ち悪かったし」


 起きて学校にくるだけで精一杯で、食事まで気が回らなかった。


「はぁ、女子高生かよ。……あー、いや、悪い偏見だ。まぁ、男も女も、見た目を気にするお年頃なんだよなぁ? ダイエットとか? 思春期だし。で、何が不満だ? 言ってみろ。先生が全部解決してやるから」


 そんな上から目線で解決してやると言われたところで、千秋は特に悩みなどなかった。強いて言うなら、今の体の不調をどうにかして欲しいくらいだ。


「不満……は、ないけど」

「そう? 別に身長もそこそこ高いし、適度に筋肉もついてるし? 特別太っても痩せてもない、普通に健康。顔だって……多少、丸っこいけど、別に、あと三年もして卒業する頃には、顔なんて伸びて変わるよ。今丸いのは、子供だからだし」


 言い方に気を使っているようだがフォローの仕方が雑だった。なんで、こんな人に任せて、大丈夫と判断して保健医は、席を外したんだろうと思った。

 自分の見た目なんて気にしたことがなかったのに、今「平凡」で「顔が丸い」って言葉で地味に傷ついた。大人で見た目が良い方に分類される、勝ち組な男の前にいるから余計に、そう感じた。


「先生は、保健の先生?」

「技術と家庭科の先生です」


 高校の技術家庭の男性教師が何を教えているのか、千秋は、いまいちピンとこなかったが、中学の時に、はんだごてとか使ってラジオを作ったとか、そんなことを思い出していた。


「はんだ付けとか、中学の時やった」

「もちろん、そういうこともする。けど最近じゃ、高校の家庭の先生は、日々の生活から、資産運用まで教えないといけないから、やることも多くて、忙しいんだよ」

「へー高校の先生って大変なんだ」

「そう、大変なんです。で。そろそろ、頭はしゃっきりしてきましたか?」

「うん」

「そりゃ良かったな」


 喋っているうちに段々と普段通りの体調に戻っていた。相変わらず、胃はムカムカしていたけれど。


「で、見た目が気になってないなら、なんで朝食抜いたりしたんだよ。育ち盛りなんだから、食わなきゃ倒れるだろう?」

「先生」

「なんだよ」


「俺、なんか病気で倒れたの?」

「ただの貧血だろ」

「俺が貧血? なんで?」


 自分という健康優良児と、貧血がイコールで結ばれない。


「えーそこから、説明しないと駄目なの? あのな、人間は一日に必要な栄養とエネルギーが足りないと、どこかしら不調になるもんなんだよ。小学校中学校で勉強してこなかったのか? つか、最近の自分の生活がどうだったか、ちょっと振り返ってみろよ」

「生活、なぁ」

「分かったか」


 さっきまで口の悪い綺麗なモデルみたいな人だったのに、急に腕組みして先生みたいな顔をしている。

 もちろん正真正銘「先生」なんだけど。


「父さんが、単身赴任で」

「へぇ、大変だな」

「母さんが、毎日爺さんの病院に寝泊まりしてるから、今、一人暮らししてるんだよね」

「で、お前の食事は?」

「母さんが、もう高校生だから、自分で出来るでしょうって」

「なるほど。どうせ、その両親の信頼を裏切って、毎日適当な生活してたんだろ?」

「適当って」

「家庭環境にもよるけど義務教育中のガキに自己管理なんてもんは、普通は無理な話なんだよ。見た目が大人に見えても、頭は子供」

「さっきから、子供子供って……先生ひどくない?」

「ひどいっていうか、普通に、先生は大人で、生徒は子供だろ?」


 高校生だし、もう自分は、大人だと思った。

 入学式に両親がいなくたって、一人で学校に来られるし、必要なものだって、自分で買い揃えられる。お金は稼いでないし、立派な大人じゃないかもしれないけど、そんなに子供じゃないって思っている。だから両親だって千秋に家を任せても大丈夫と一人家に置いていった。


「お前を責めてるわけじゃなくてな、お前と同じ状況なら、八割の子は、適当な生活してるだろ。春休みだし? 学校行く必要もないから余計にな」

「そこまで……て、適当じゃないし」

「じゃあ、寝た時間、起きた時間、食べたものを言いなさい」

「に、二時に寝て」

「遅いな?」

「昼、すぎに起きて」

「何食った?」

「カップ麺」

「ほらな? 適当だ。毎日そんな生活してたら、すぐに体のどっかが変になるよ」


 案の定と言うふうに、先生は、にやと笑った。先生のくせに悪いことする大人の顔だ。


「別に、カップ麺が悪いとか食うなとは言わない。ただ、カロリーは十分に足りてても、栄養価が不足してるんだよ。タンパク質、ビタミン、食物繊維なんかが全然足りてない。食い足りないからって、コンビニおにぎりとかパンで補ってる場合なんか、特に最悪だな。もう食生活、零点です。ダメダメだ」

「れ、零点」

「図星か、まじで教え甲斐のある生徒だな。こんなの基本だろ、小学校で習う」


 事実、先生が言った通りの食生活だった。


「けど、そりゃ食べるもの適当だったかもしれないけど、でも、いきなり、いつも母さん作ってるみたいな料理なんて無理じゃん。コンビニとかで買うしかねーし」

「お、いいところに、気づいたな」


 先生は、そう言ってふっと笑った。


「お前の日々の健康は当たり前じゃなくて、今まで両親に作ってもらっていたもんなんだって自覚しなさい。で、次にお前がすることは、自分が一人になった時でも健康であり続けるにはどうしたらいいか、学ぶことだ」


 なんだか先生は生き生きしていた。


「お前の場合は、親っていう見本があるんだから、その通りすればいいよ」

「その通りって」

「コンビニでもスーパーでもいいけど、毎日どういうもの食べていたか思い出して、惣菜を買え。あと、米くらいは炊けるんだろ? 高校生なんだから」

「それは、まぁ、はい」


「子供じゃないっていうなら、それくらいは面倒臭がらずに自分でする。あと、健康は、与えられた人と、学んだ人にしか手に入れられない貴重なものだから、努力して大事にしなさい。いいか?」

「……はい」

「以上、先生の特別授業は終わり」


 先生は、そう言って椅子から立ち上がると、保健室にある冷蔵庫から、ビニール袋を持って千秋のところまで戻ってくる。

 先生は千秋の膝の上にビニール袋を置いた。


「いろいろ言ったけど、子供に、今すぐ食生活を改善しろって言っても無理だろうから、先生がいいことを教えてやろう、とりあえず、それ飲んで米食ってりゃ、倒れることはねーよ」

「野菜、ジュース? とおにぎり?」

「これが、中々バカに出来ないんだよな。まぁ野菜ジュースなんて気休めだけど。昼前なのに、わざわざ購買の人に言って先生買ってきたんだから、感謝しろ?」

「……あ、りがとう、ございます」

「素直でよろしい。それ食べて元気になったら、職員室来い。もうオリエンテーションも終わってるだろうし、渡すものあるから」


 そう言って技術と家庭の先生だと言ったモデルみたいな先生は、保健室を出て行った。

 見た目は、まったく先生に見えないけれど、口から出てくる言葉は、本当に先生だった。

 そして千秋の悩みだった謎の体調不良は、朝ごはんを食べたら、あっさりと治っていた。


 先生は自分で宣言した通り千秋の悩みを全部解決してくれた。

 ただ胃がムカムカしていたのは治ったけど、代わりに子供だと小馬鹿にされたことにムカムカしていた。


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