第3話
結局、入学式の当日は教室に行けなかったので、翌日初めてクラスメイトたちの顔をはっきりと見た。教室の後ろのドアを開け、一歩足を踏み入れた瞬間、ちらちらと様子を伺うような視線を感じた。
同じ中学校出身の知り合いが誰もいないので、友達に声をかけることも出来ず、なんだか気まずいなぁと思いながら席に向かった。
昨日の保健室帰り、花妻から自分の席を聞いていたので、教室の窓側一番後ろの席に座った。
「お、姫じゃん。おはよ」
姫、と言われて千秋は、隣の席に座っている男の顔を見た。クラスに一人はいそうなスポーツ万能そうな長身の男だった。凛々しい眉毛にちょっと威圧感がある。
隣を向いて視線を逸らされなかったということは「姫」は自分なのだろう。
「え、俺のこと?」
「そうそう。入学式のあと姫抱きで亜樹ちゃん先生に運ばれてたから。女子が言ってたよ」
さっきの変な視線の意味を理解した。不審者を見る目じゃなくて、好奇心と心配だったらしい。
「別に、虚弱体質とかじゃないんだけど」
初対面の相手に毎日適当な生活した結果倒れました。なんてことを話すのもなぁと迷っていたら、にっと白い歯を見せて笑顔を返される。
「そっか、普通に元気そうだし良かった良かった。俺、田島よろしくな」
入学早々、倒れてしまい高校生活で出遅れてしまったけど、教室で喋る人が出来て少しホッとした。田島いい人! って相手のことをまだ知りもしないのに懐きそうだった。第一印象は少し怖かったけれど、喋ってみると人の良さそうな田島は、昨日のオリエンテーションのことを教えてくれた。
「なぁ亜樹ちゃん先生って?」
「千秋、保健室で顔見なかったのか? モデルみたいに背が高くて若い先生。うちの副担任だよ。花妻亜樹。昨日、クラスには顔だけ出して、すぐお前のところ行ったけど」
「あぁ、技術家庭の」
「そうなの? 俺、教科までは知らんかった」
生徒は個人を識別する名札を付けているのに、先生は名札を付けてない。なんだかこれって不公平だなと思った。
技術家庭の先生、ジュースとおにぎりくれた先生。ちゃんと食えと叱ってくれた先生。
今まで自分は、学校の先生を「先生」って記号以外で見ていなかったことに気づいた。一組の先生とか、隣のクラスの先生とか。けれど、まだ入学して二日目なのに花妻だけが、他の「記号の先生」より解像度が高い。
個人的に関わったせいで特別を感じていた。
このクラスの誰よりも、先生を知っているみたいな、特別。
――違うな、優越感みたいな?
そう自覚したのと同時に花妻に言われた、子供の自分を思い出してしまう。急に寂しいと感じた。その寂しさの正体を探していたら、教室の後ろのドアから当の本人が顔をのぞかせた。
「千秋ー。いるか?」
「ッ、はい!」
つい、教室に響き渡るような大きな声で返事をしてしまった。卒業式かよって自分で自分にツッコミを入れる。そんな、自分の声に花妻はふっと人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。知っていた。先生は、そういう顔で笑う人だ。
バタバタと走って廊下に出たら、朝のホームルームのベルが鳴る五分前だった。すでに生徒は教室に入っていて、誰もいない。
形の良い唇が、自分に向けて口を開いた。それを、なんだか落ち着かない気分で見つめていた。
こんな気持ちは知らない。
「今日は元気そうだな。昨日、お前が学校から家に電話するなって言うからしなかったけど、その様子なら問題なさそうだな」
「先生。昨日は、おにぎりとジュースありがとうございました」
個人的な会話をしている今の状況に、やっぱり自分は特別を感じていた。
相手のことを、今よりもっと知りたいって思う。けれど、それを知った先に何があるのか分からないし、分からない気持ちがもどかしかった。
「どういたしまして。大丈夫か? いま一人暮らしみたいなもんなんだろ? やっていけそうか?」
「ねぇ先生、俺のこと心配したの?」
「まぁ、そりゃ先生だからな」
にこりと先生の顔で笑われる。
先生だから、心配した。そう、当たり前のように言われて、腹が立つ。
それで、気づいてしまった。あ、好きなんだって。
自覚した瞬間、男の人に恋をした戸惑いよりも、相手が先生だったことに絶望した。
「子供じゃないし。飯だって昨日は自分で炊いた!」
そんなことを不機嫌顔で言って、その程度のことでしか大人ぶれない自分に悲しくなった。朝ごはんだって、ちゃんと食べてきたのに、この場で言うべき正しいセリフも浮かばない。ポンコツな頭。
「難しいお年頃だなぁ。中学みたいに先生はあれこれ生徒の家庭のことに関われないけど。家、色々大変なんだったら、俺でもいいし、担任の渡先生でもいいから頼って相談しろよ? 俺のお話はそれだけ」
ひらひらと手を振って職員室の方へ歩いていく花妻の背中を飛び蹴りしたくなった。
恋って、人を好きになる気持ちってそんな暴力的な感情だっけって、考えたらこれが初恋だった。どうりで分からないはずだった。
先生って生き物は、生徒が、子供が、こんなことを考えて、こんなことをするだろうって全部想像出来て、千秋が昨日倒れた時だって、きっと子供だったらこんな生活をしているだろうって簡単に予想出来ていた。
そうやって世の中の全部を分かった気になっている花妻に「俺は、こんな人間だぞ」って言いたかった。
そんな子供のわがままをぶつけたい衝動は、花妻と同じ大人になりたいって欲望に制御される。
だから、これが恋なんだって理解した。
教室に戻って席に座って、小さく息を吐くと、隣の席の田島に顔を覗き込まれた。
「亜樹ちゃんセンセなんて?」
「……ムカつく」
「なんだそりゃ」
先生が好き。それはこの教室の誰にも言えない。だから、ムカつくって代わりの言葉を吐き出していた。
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