第40話 逃走
「さっ行くわよ」
皐月は、急に立ち上がって言った。
何という切り替えの早さだ。
「もう大丈夫なんですか?」
ダイヤはタオルで皐月の服に付いてしまった胃液を拭きながら訊ねた。
「ええ。情けないところを見せたわね。もう大丈夫よ」
皐月の言葉は嘘ではないようで、顔色は元の健康的な赤みを取り戻している。
「もう少しゆっくりしててもいいんですよ」
「そうもいかないわ。日が暮れる前にこの山を越えましょ」
こんなに大きな山1日で本当に超えられるのだろうか。俺は不安になってきた。それに山と言えば苦い経験もある。ダイヤが蛇型の魔物アスピスに噛まれた件だ。あれを思い出すと、どうも気分が沈む。
「ええと、あの村の若者曰く、この山をずっと南に行くのが最短だって言ってたわよね」
不安がる俺を置いて、皐月はそそくさと歩き出した。もっとも、未だに足取りは怪我の影響で遅いのですぐに追いつく。
険しい山道だったが綺麗な紅葉のおかげで気分も沈まない。太陽が1番空高くに上がったとき、俺たちも山頂を超えて下りに差し掛かった。
「また機会があったらエイデン君に空を飛ばしてもらいたいですね」
ダイヤは微笑みながら、俺たちに言った。
「あんまり高く上げないんだったら、俺も、もう1回くらいは体験してみたいな」
「ですよね。他にもテレキネシスが能力の人っているんですかね?」
「私は嫌よ、絶対に。あの人の顔も見たくないわ」
皐月が不機嫌そうに言った。親切にも、5万ケルマの代わりにポーションで俺たちをこの山まで運んでくれたというのに、酷い言い草だ。八つ当たりも甚だしい。
ザザッ。
ふいに、背後で物音がしたような気がして俺は振り返る。
「どうしたんですか? 何か落としましたか?」
皐月とダイヤには聞こえていないようで、不思議そうに俺を見ている。
「いや、何か物音がしたような気がして」
「気のせいでしょ。疲れて頭がおかしくなったんじゃない?」
相変わらず酷い言いようだ。俺にしか聞こえないのであれば空耳かなと思い、再び歩き出した。
ザザザザッ。
やっぱり空耳じゃない。今度ははっきり聞こえた。俺は瞬時に振り替える。皐月とダイヤも今の音は聞こえたようで、俺と同時に振り返った。
「今何か物音しましたよね。魔物でしょうか?」
俺たちは目を凝らして辺りを観察してみたが、魔物らしきものは何も見当たらない。
俺は適当に石ころを茂みや木の上に投げてみる。だが何の反応もなかった。
「3人同時に空耳ってことはないと思うけど。木の葉の揺れた音だったのかもね」
そうだろうか。それとは音の性質が違っていたようにも思う。
「いつまでも、いるかどうかもわからない物に気を取られていても、仕方ないわ。行きましょ」
そう言って皐月は、先陣を切って歩き出した。俺は背後を気にしながらも、皐月の後を追う。
ザザッ。
また微かに音が聞こえた。気のせいかもしれないが、背後の無数にある木の1本が少し動いた気がする。
「あの木、ちょっと動かなかったか?」
俺と同じように、背後をちらちらと気にしていたダイヤに訊ねる。
「さぁ。あたしにはわからなかったです。でも音は聞こえました」
「逆に言うと音しか聞こえないんだから気にしないでいいんじゃない」
皐月は振り返ることもせずに先を歩きながら言った。今日の皐月は慎重さに欠けるようにも思えた。日暮れが近づいているのに、まだ山の中にいる状況に焦っているのだろう。その原因が皐月自身の怪我で、ゆっくり進まざる得ない状況も追い打ちをかけているに違いない。
俺は今度は完全に進行方向に背中を向けて、後ろ歩きで進む。ダイヤも俺を真似て、同じように歩いている。
ザザザッ
またすぐに同じような物音がした。さっき動いた木を注目していた俺には、わかった。完全にあの木は、今動いた。
「本当だ! 伊織君の言う通りあの木動きました」
今度はダイヤも気づいたみたいだ。
「噓でしょ。植物型の魔物なのかしら」
皐月が振り返り、俺たちが指さした木に近づく。すると突然その木は、もうだるまさんが転んだは終わった、と言わんばかりに大胆に動き出した。何かに擬態している魔物なんか初めて見た。そいつは明確に俺たちを狙って近づいてきている。見た目は木そのものなので、知性があるのが信じられない。どこが目でどこが口なのか、そもそも呼吸をしているのかさえ分からない。とりあえず俺は能力を使って攻撃を試みる。
「ファイアー……」
「待って!」
直前で皐月に止められた。
「こんな森林が生い茂って乾燥しているところで、火の能力なんか使ったら、最悪山火事の危険性もあるわ」
「じゃあどうすれば?」
俺たちが話している間にも木の魔物は着実に距離を詰めてくる。焦る気持ちで皐月の答えを待つ。
「山を抜けるまで逃げるしかないわ」
単純明快な答えが返ってきた。確かにそれしかなさそうだ。俺たちは全力で山を下った。木に擬態している魔物は、俺たちが走って逃げていることが分かるとスピードを上げた。でかい図体のくせにとんでもない速さだ。木の上半分を前後に揺らしながら、地面を抉ってどんどん近づいてくる。途中木の枝が足に擦れたり、大きめの石ころに躓いて転倒したりしたが、それでも走る。相手の位置を確認しようと後ろを振り返ると、皐月が走っているのが目に入った。かなり後れをとっている。やはりまだ全力で走れないようだ。このままでは皐月は追いつかれる。俺は今来た道を引き返して、皐月のもとに駆け寄る。
「なんで引き返してるの! 早く逃げなさい!」
皐月の言葉を無視して、俺は皐月の手を握りそのまま手を引いて、再び魔物から逃げ出した。
「痛いと思うけど今は無理をしてくれ」
痛みに顔を歪めている皐月に、俺は声をかけながらもスピードを緩めない。
「痛くないわよ、これくらい」
その言葉が嘘なのは明白だった。もし皐月が動かなくなったら負ぶって逃げるしかないだろうが、恐らくそれではあの魔物に追いつかれるだろうな、と考えていると傾斜はだんだん緩くなり、植物の密度も少なくなってきた。もうすぐ山を抜けるかもしれない。俺は渾身の力で皐月の手を引いて、ラストスパートをかける。すぐに平地が見えてきて、木々もほとんどない場所までたどり着いた。
「はぁはぁはぁはぁっ」
俺たちはそこで1度立ち止まり、迫りくる魔物の方に体を向けて息を整える。いつの間にか足元は血だらけだ。幸いなことにどれも擦り傷程度なので痛みは大したことはない。
「あいつ、はぁはぁ、何て魔物なんだ?」
「ぐぅぅっ」
俺の質問には答えず皐月は短い声を漏らして、その場に座り込んでしまった。無理をさせ過ぎたみたいだ。少し前までボロボロで死にかけていた人が全力疾走するなど、常人では耐えられないほどの痛みだろう。皐月は苦悶の表情で体を苦の字に曲げて、荒い呼吸を繰り返している。俺は慌てて皐月にヒールをかけようとするが、またしても直前で止められた。
「馬鹿ね。はぁっはっ、今から魔物と戦うのに、魔力を、無駄使いしないで」
皐月の言っていることが正しいのはわかるが、どうしても納得できずに俺は2発だけ皐月にヒールを使った。
「はぁはぁはぁ。伊織君って、あんまり私の言うこと、聞かないのね。はぁはぁっ。少しだけ楽になったわ。ありがと」
「もう少し離れてた方がいい。ダイヤ、皐月を……!」
そこまで言って気が付いた。ダイヤがいない。慌てて周囲に目をやるが、ダイヤの姿はどこにもない。まさか魔物に、と思ったがダイヤは俺より先を走っていたはずだ。俺は皐月にばかり気を取られ過ぎて、ダイヤとはぐれたことに今になって気づいた。
「ダイヤー!! ダイヤー!!」
必死に呼びかけるがダイヤの声は返ってこない。ダイヤは、はぐれて皐月は瀕死状態。どうやら魔物とは俺1人で戦わないといけないようだ。俺はもう目の前に迫っていたそいつを睨みつけて、皐月を守るように1歩前に出た。恐怖で心臓の音がうるさかったが聞こえないふりをする。
「ウォーター
今まさに攻撃しようとした瞬間に、皐月の蚊の鳴くような声が聞こえた。無理をして戦おうとしているのかと思ったが、皐月の出した水は真上に向けられ、そのまま雨の様に降ってきて俺と皐月を濡らした。皐月が何をしようとしたのかわかった俺は、ありがととだけ言って再び魔物と向き合って、今度こそ攻撃を開始した。
「ファイアー
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