ヒマ・ミサキ事件
@Midosuji-634
第1話
背中の方で革靴を鳴らす音が聞こえた気がして、振り向いた。ただ、黄色く染まった通学路が続いている。人の影はまるでなくて、少し気味が悪かった。——ただ、気味が悪いだけなら、どんなによかっただろう。
翌日の朝、同じ足音を聞いた。私の歩く間隔とは全く異なって、アスファルトに歪な三角形を描くようなリズムがしていた。それは自分の足音よりいくらか早いペースで歩いているみたいで、私は怖くなって何度となく背後を振り返ったけれど、学校に着くまでの間にその姿を目にすることはとうとうなかった。私はその日、それなりに仲の良かった然田という子に付き添ってもらえるように頼んで、それでようやく帰ることが出来た。
帰り道、然田さんに笑える話をしてほしいと言った。彼女は快く引き受けてくれて、上機嫌で面白い話をいくつも聞かせてくれた。本当に、飽きが来ない時間だった。
「で、岬。誰の恨み買ったの?」
ひとしきり話し終わって、私もそろそろ平気な顔になって。然田さんはいきなり訊ねた。誰の恨み買ったの? ——彼女がそう訊いてくるからには、きっと勘づいたのだろう。まだ、足音の話はしていなかった。私は焦りながら身を翻した。やっぱり、誰もいない。
「あれは大人の男だね。ストーカー? なら、気をつけなよ。ああいうのは、平気な顔して人を刺す」
正面を向いたまま声を潜めてそう言った。私はぞっとした。
家に帰ってから、外に出るのが怖かった。警察に通報しようかと思ったけど、杞憂だったら恥ずかしい。あまり安全ではない手だと分かりながら、私は通販サイトで監視カメラを注文した。届いたのは翌々日、つまり今日だ。
窓から入る日差しが痛い。足音に怯えるあまり学校を休んで、外にも出る気がしなかった。そうすると、自然と気分も塞いでくる。昨日の昼から閉じたままの寝室のカーテンは朝日を遮るには少し厚みが足りなかったらしい。詰るような明るさに感情をかき乱されながら身体を起こした。同時に、ぴんぽん、と玄関チャイムの鳴る音がする。なんだろう、お客さんかな。まずはそう思った。次に、私は怯えた。足音がそこまで近づいてくるようなおぞましい想像をした。最後に、安堵した。それは注文していたカメラを運んできた宅配業者が私を呼ぶ音なんだと理解できた。私はパジャマ姿のまま興奮気味に玄関まで駆けていった。
業者は緑の服に黄色いラインが入った制服で淡々と署名を求めた。ぼそぼそと小さな声に目深に被った制帽のおかげで全く暗い印象しか抱かなかったが、私はそれに従ってボールペンをすらすらと走らせ段ボール入りの荷物を受け取った。終わり次第業者はそそくさとその場を去っていった。
カメラは黒い筒型のレンズと根元にあたるドーム状の部分が繋がったねじれた巨大なしいたけのような形をしていて、かさの部分にはねじ止め用の穴が開いていた。ドライバーはあったかな。考えながら物置を漁って、見つかった。ねじ山を載せる螺旋がやや赤く錆びている。使えるか不安だったけど、ねじは立った。それを携えて、玄関を恐る恐る開き、手早くその壁にしいたけのかさを固定する。カメラは無線接続に対応していて、私は家に閉じこもってケータイとにらめっこしながらその設定を済ませた。動作確認をすると、問題なく動く。
カメラの初仕事は、同じ日の夜中だった。かすかな物音に元々浅かった眠りを妨げられた私は、少しの恐怖と、大部分の征服感を噛み締めながらカメラと繋がったケータイを開いた。外には賃貸前の路上で薄ぼんやりと光る街灯が一基あるばかりだ。見ていると、玄関前、建物の二階廊下に不自然な影が出来ているのに気がついた。影はその空間にぽっかり空いた穴のように淡い光の中でも黒い点を投げている。一見して理解出来なかった。次第に私はそれが微かに揺らいでいることに気がついた。それが人間が電光の下地面に落とす類の影であることに気がついた。そして、その存在に気がついた。
コンクリート打ちっ放しの廊下に出来た黒点は玄関の右手前にかけて長く伸び、光源を鑑みてその立ち位置は玄関の真正面にあるらしい。私は直感した。——足音の主がそこにいる。——私はそのことでもうほとんど怯えてはいなかった。足音は実体のある人間であり、存在は杞憂でもない。警察に通報すれば、この映像を基に捜査でもなんでもしてもらえる。私はちょっとした興奮を覚えた。
しばらく思案して、私は閃いた。そしてそれを実行に移した。
やられる前にやれ。心の中でそう呟いていた。
玄関ドアを開いて飛び出した。次の瞬間、ずっしりと重い物がぶつかる感覚が全身に伝わる。もう一歩分踏み出して、相手の体勢を崩した。外向きに曲がった胴体を押してみると、手応えがない。それはその体が宙に浮いたことを示していた。それで私も、飛び掛かるように地面を蹴った。
顔を上げると、コンクリートの少しくすんだ床面が見えた。あたりに人の気配はない。私は立ち上がり服についた埃を払うと、周囲をもう一度見渡した。やはりそこには誰もいない。ただ夢が覚めたように静かで、寂しくて、どこか心細い。けれど、一つだけ変化があった。
目の前のフェンスが外側に大きくぐにゃりと曲がっている。私は身を乗り出しその下を覗いた。階下の黒い地面は明るさに乏しくよほど目を凝らさないことには見られない。私はなんとなくそわそわして、それをよく見ようと外階段に向かって歩いた。
私の部屋の前のフェンスを跨いだその下には、死体が転がっていた。——本当は、始めから見えていた。コートを羽織った大人の男だ。うつ伏せになって、倒れていた。けれど、それは、あまりにも信じがたい光景で。それで、見えていないことにしたんだ。
現実にそこに倒れている男の人を、どう受け止めたらいいんだろう。いっそ夢だと思い込むか、それとも警察に自首するのか。そんなことを考えている暇も果たしてあるのか。私の腕も足も恐怖に震えていた。
ひとまず、それを隠しておくことにした。近くのゴミ収集所に大きめのブルーシートがあるのを知っていた。私はなるべく足音を潜めながら走って、それを持ってきた。死体の上にばさっと広げる。サイズは十分あった。しかし、これからどうしていいのか分からない。死体を包んで、それを埋めるか。それか、部屋に持ち帰って解体したりするのも悪くはないだろう。ただし、私にその度胸があればだが。
結局、部屋に運んでいた。やっとの思いで担ぎ上げた死体にはまだほんのりと熱が残っていたが、微動だにしていないのがそれが死んでいるという事実をはっきりと突きつけるようで、私は改めてぞっとした。
そうして今、死体入りのブルーシートが私の部屋の中央に佇んでいる。表面に浮かんだいくつかの砂や土の線は階上へ登らせるときに付いたものだ。——本当に重かったけど、なるべく跡が残らないように気をつけた。階段の赤さびた鉄板が死体から流れ出した血の色に見えて、いろいろな不安に駆られた。——死体をどうするか、私はこれからどうなるのか。様々な考えが私の頭の中をぐるぐる回った。結論なんて出てこない。ただぐるぐるぐるぐる回っているだけだ。だんだんと疲れてきて、気がつけば眠りに落ちていた。
見知らぬ駅のホームだった。私は線路のずっと向こうを見て、電車の到着を待っている。視界全体にうっすらと靄がかかったようで見えづらかったけれど、次第にヘッドライトを点灯させたそれが一両だけ走ってくるのが分かってきた。停車し、ドアが開かれた。私が立っているところのすぐ真横だ。私は体を滑らせそれに乗りかかった。車内には左右に向かい合う形のシートと進路方向を見据えるシートがあって、私は後者を選んだ。まもなく、人をほとんど乗せないまま、電車は発進した。線路の両側を寂しい町並みが囲んでいる。雨どいのひね臭い色味や木地がむき出しの壁に出来た濡れた染みを見放すように鉄製の車体が往く。その最中、私は不意に理解した。——この電車は、死に向かっている。——運転士は自殺志願者だった。鉄道は線路を逆行し、別の鉄道に正面衝突をすることで乗客乗員全員の命を奪う。ああ、現実に、運転士室前方のガラス越しに同じ会社の青い塗装がされた車体が見える。次の瞬間、私は呆気なく死んだ。
全ては夢だった。目が覚めてすぐ、そうだと分かった。私は部屋の中を見回す。死体はない。やっぱり、夢だった。跳び上がりそうなくらい嬉しくなる。やった、と吐き出した言葉が、いやに響いて驚いた。私はもう一度部屋を見回す。掛け布団がない。家具がない。何より、天井がひどく高くにあった。
見たこともない、どこか倉庫のような所だ。トタン張りの壁は全くの遠景にあるようで、空間の境目さえはっきりしない。まだ、夢を見ているのかと思った。
「やっと起きたな」
柔らかくて高い声だった。女性の物とも少し違って、声変わり前の男の子の声みたいに聞こえる。ぎょっとした。私に向かって言っているんだと思った。
「誰ですか」
だだっ広いがらんどうに自分の声が響き渡る。全く距離感が掴めなくて、相手の姿も見えないうちに無我夢中で声を張り上げた。反響も失せてしばらく、そのあまりの静けさに、さっきのは空耳だったのかと思い直す。が、再び聞こえた。
「然田望って言ったら分かるか」
然田望。それは、前に私が家まで同行してくれるように頼んだ、あの子の名前だ。どうしてここで然田さんの名前が? 私は心持ちちんぷんかんぷんで、言葉を発することもできなかった。
「望は俺の姉なんだよ」
そう叫ばれた。けれど、私は一層理解から遠ざかる。あの少年が然田さんの弟なら、なぜ私と二人きりでこんなところに居る必要があるのだろう。その疑問を、気づけば口にしていた。どうして、然田さんが関係あるの?
「やっぱり、覚えてない」
呆れるような呟きも、私の耳に届いてしまった。覚えてないって、何を。それとも、覚えていないことを忘れてしまったのだろうか。
「何のこと?」
「この、姉殺しが」ひどく憎しみの滲んだ声だった。
然田さんは、死んでいない。前に会ったとき、私はちゃんと言葉を交わして。まして殺してなんて、然田さんに限ってはそんなはずはなかった。
「……何のこと?」
返事はない。——足音が聞こえた。冷たいコンクリートを踏んで、歪な三角形を描くようなリズムだ。すぐにそれと知れた。私は慄然とした。そうして、すぐに振り向いた。
コート姿の男が立っていた。業者の制帽のような褪せた緑のキャップを目深に被っていて、その取り合わせはどこかミスマッチに感じた。私に見つかると、だるまさんが転んだでもしているように、ぴたりと動かなくなった。
「林さん、教えてあげて」
コート男の十メートルくらい後ろの高台で男の子が再び言葉を発する。一転、子どものような口調だった。林、と呼ばれた男は、頷き、私に歩み寄り、秘麻岬、と私の名を口にした。初めて聞いたその声は、ひどくしわがれていて、その立ち姿に似合わない老人のような弱々しさを持っていた。
「俺はここからそう遠くない町の方で探偵をやっている、森木という者だ。そこの渡という子どもに頼まれて、一月ほど前からお前のことをつけていた。
渡はお前のことを恨んでいたよ。初めて会ったときからそうだ。予約も入れず事務所に上がり込んで来たと思ったら、写真を見せて、こいつを尾行してくださいって。冗談だろうと思った。こんな子どもが、わざわざ俺みたいな奴を頼るもんか、ってな。
渡が言うには、お前は去年の冬、然田望を惨殺したんだってな。なにか重い物を頭にぶつけて、そのあと、バラバラに解体した。……女子高校生の犯行とは思えねえな。埋める場所が高校のグラウンドっていうのは、ちょっとは子どもらしい杜撰なやり口だったとは思うが。
第一発見者は渡だった。夜中、いつまでも帰ってこない姉を心配して、知り合いたちに訊いて回って、学校で目撃されたのが最後だったってことを突き止めた。その足で高校まで走っていって、見つけた。ひどい臭気を放つ変わり果てた姉の姿を見て、まあ、吐いたんだろうな。すぐに警察を呼んで、捜査してもらおうとした。——見つからなかった。秘麻岬っていう人間は、捜査線上には浮かばなかった。まさか、高校生がやるなんて、誰が思うんだろうな。事件はものの数週間で迷宮入りって結論が出た。
納得しなかったのは、渡だ。何回も何回も警察によく調べろって訴えて、でもいい返事は来なかった。とうとう痺れを切らして、自分で捜すようになったんだと。調べた先はクラスメートだ。直感でそこが怪しいと思ったらしい。……ほんと、いい嗅覚してるよな。助手に欲しいくらいだ。元々親交のあった奴に問い質して、やっと分かったことがあった。
望は、放課後は大体一人で、しかも必ず一番に帰ってた、と。そんでもって、その日誰かと一緒にいたとしたら、それは岬って女子しかいなかったんだってな。それでようやく、俺に依頼するに至った訳だ。
俺は尾行を始めた。お前の身の回りの全部分かるようになるまでな。学校からつけて、家を把握した。ぼろぼろの賃貸に住んでることが分かった。普段行くスーパーで買った内容から、食の好みを把握した。甘い物が好きな、至って普通の女子高校生をやってることが分かった。で、お前に妄想の友達がいることが分かった。
ある日の帰り道、お前は誰もいないところに向かって話しかける真似をしていた。身振り手振りで一生懸命に、時折腹を抱えて笑った。異様としか言いようがなかった。耳を澄まして聴いてみて、もっと驚いた。お前はその友達を、然田ちゃん、と呼んでるじゃないか。俺は、ぞっとしたよ。何だか分からないけど、お前が然田望殺しに違いねえと思った。
翌日から、お前は家を出なくなった。とうとう勘付かれたと思って、俺は別の行動を取ることにした。秘麻岬が本当に人殺しなのかを検証するために、お前の身の回りに凶器かなんか転がってないかと思って、探し始めた。いやあ、正直、お前が学校かなんかに行ってるうちに探せばよかったと後悔したよ。それでも、カメラを仕掛けたりするのは難しくはなかった。
俺は宅配業者を装ってお前の家のドアを叩いた。たまたま怠け者の社員だったから、服やら何やらは貸してくれて、助かった。段ボールの隙間に小型のカメラを仕込んで、部屋の様子を見た。別に、平凡な部屋だったと思うが、お前が押し入れから取り出してきたものはちょっと異常だったぜ。あれは、血のついたドライバーだっただろ。確かに、ちょっとした錆びにも見えたよな。だが、逃げたって無駄だ。
そんで、昨日の晩、俺はお前の家を訪ねた。夜中に行っても、お前は出てくるだろうと踏んでた。なぜって、殺人者は夜安心して眠れなんかしないからだ。
寝間着姿の高校生がドアを飛び出してタックルしてくるのは予想外だった。俺は思い切り吹っ飛ばされて、鉄柵の向こうの地面に叩きつけられた。いや、痛いの何のって。呼吸もできなくなるくらいだったが、でも、生きてた。
階段を降りて、倒れてる俺を見て、お前は口元を覆った。いたく怯えてるみたいで、違和感を持った。で、俺はブルーシートに包まれて、埋められかけたが、今ここにいる。渡が救い出してくれたおかげだな。
最後に訊くが、秘麻岬、お前は本当に、然田望を殺したのか?」
男の問いに、私は動揺して、ただ首を振るしか出来なかった。男の言い分は、訳が分からないことばかりだった。然田さんが、前の冬に死んでいて、私がその犯人。でたらめだ、あり得ない。何度となく否定しようとしたけど、思い浮かぶのは、あの嫌な雪の降る日の光景だった。
「秘麻さんはさー、人の彼氏取って、恥ずかしくない訳?」
冷たい風の下、然田さんにそんな言いがかりを付けられたのは、一体何度目だったのだろう。私はいつもと同じ返事をした。
「だから、あれには手出してないって」
半笑いの声で、でも、実際には笑っていない。そういう冷たい感情を思い出す。きっとそろそろ、うんざりしていた。
「私さー、この話、勇紀にしようと思ってるんだよね」
「な」
何を、と言おうと思った。勇紀、私の彼氏だった男の子の名前だ。背が高くて、声が大人っぽくて、もちろん優しい。自分と付き合ってくれたのが嘘のような、自慢の彼氏だった。彼女はそれを奪おうとしている。改めて、私は怒鳴った。
「ふざけないで!」
「それはこっちの台詞!」
然田さんが私を睨み返して言った。怒りのこもり方は私の何倍もあって、正直怖い。けれど、負けてはいられなかった。私は落ちていたコンクリートのブロックを持ち上げて、彼女を脅した。
「絶対にやめて」
「いいよ、今から電話する」
彼女はケータイを取り出し、キーを叩いて、耳に近づけた。私は、もう、仕方がなくて。手に持ったブロックを、彼女の頭の上に振り上げた。
頭から血を流して動かなくなった彼女を、私は、片づけなきゃ、と思った。
「その顔だと」
渡、というらしい男の子が言った。その顔だと、思い出したらしいな。私は呆然としていたと思うけど、それでも頷いた。
「姉ちゃんの最後の言葉、教えてよ」
語尾にある種の切実さを滲ませて、渡は訊ねる。彼は、こんな風なことをしていても、本当に子どもだったのだろう。私は答えた。
「ふざけんな、だよ」
男の子が息を漏らして笑う、嫌な響きがした。
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