主なき椅子
ブリアンティス市街における貴族連合勢力の抵抗が、完全に終息した――との報を俺たちが受けた頃、太陽は既にだいぶ西へ傾いていた。実際の戦闘は早朝のうちに終わっていたものの、王都の街路は複雑に入り組んでいる。敵兵力が一掃されたと確認するのには、それなりに時間がかかったようだ。
状況がいったん落ち着いたのを見計らい、俺は衛兵たちに断りを入れて王城の奥へ向かった。できればひとりで、訪れておきたい場所があった。
変わらない白亜の城壁とは逆に、王城の内部はひどいものだった。
豪奢な絨毯が敷かれていた廊下は、多くの乱雑な足跡に荒らされ、ところどころに血痕も飛んでいる。飾られていた
物陰に潜んだままの敵兵がいないか、念のため用心しつつ、階段を上がって目的の部屋へ向かう。
木製の扉には、かつてと同じ竜と双剣の紋が彫り込まれ、目立つ損傷はなかった。安心して良いものか良くないものか、かすかに迷いつつ、俺は扉のノブを回した。
「入るぞ」
聞かせる相手がいないとは理解しつつ、声に出す。
真鍮のノブを押せば、扉は軽くきしりつつ開いた。中の様子は、心のどこかで予期していた通りだった。
「……ひでえな……」
思わず声が出る。
目の前の部屋――ヴィクトールの書斎だった空間は、ここまで見てきた廊下同様、荒れ果てていた。書見台を飾っていた各地の細工物も、書棚に詰まっていた兵法・法学・神学などあらゆる分野の書物も、壁面を飾っていた色鮮やかな絵画や壁掛けも、すべてなくなっていた。書見台の引き出しはすべて開け放たれ、うっすら積もった埃のほかには何も残っていない。王都陥落のごく初期に荒らされ、そのまま放置されていたようだ。
だがひとつだけ、往時の面影を留めるものがあった。机の前に置かれた椅子は、座面こそ埃に覆われていたが、背面に刻まれた竜の紋様は、俺にとって、とても見覚えがあるものだった。
「なあ」
椅子の背に手を置きつつ、小声でつぶやく。
「あんた。……本当に、いなくなっちまったんだな」
数十年もの間、共に歩んだ相手だった。
崩御したと伝え聞いた時は、まったく実感がなかった。年齢的に納得はしても、あの殺されても死ななそうな「炎竜王」は、まだどこかで王様をやっているような、そんな気がしていた。
その後もずっと、感じたものだ。夜の夢でヴィクトールと会うたび、あいつはまだ生きていて、俺をどこからか見ているんじゃないかと。もしかすると、エティエンヌに出会った後でさえ引きずっていたかもしれない。
だから確かめたかった。あいつは本当に死んだのだと。この世のどこからも、消えてなくなったのだと。
だが。
「……だめだ、な」
涙こそ出なかった。だが主なき椅子を前に、ようやく本物として感じ取れた「不在」は、ひどく強烈な圧迫感で胸中を塞いでしまった。時として、あるべき何かが「ない」ことは、その何かの存在感をかえって増してしまう。規則正しく食卓に並んだ皿のうち、一枚だけを抜き取れば、あるはずのものがないと一目瞭然でわかってしまうように。
同じように、座るべき主を欠いた椅子も、「あるはずのものがない」ことを嫌というほど思い知らせてくる。
「あんたが、いないとわかったら……かえって、あんたのことばかり考えちまう」
懐かしもうにも、荒れ果てた部屋に思い出のよすがは残っていない。ひとつだけ昔のまま残された椅子は、そこだけが色が付いたように浮き上がって見える。引きずられている、と、自分でもわかった。
「断ち切るために、来たのにな……どうしようもねえな、俺」
耐えきれなくなる前に、帰った方がいい――そう思って踵を返すと、ちょうど、入口の扉が開くところだった。
敵襲かと身構えれば、入ってきたのはエティエンヌとジャックだった。
「アメール。やはりここにいたか」
「……なんか用か。戦後処理はもういいのか」
「それについて一点、相談したいことがあるのだが――」
言いつつ、エティエンヌは室内を見回した。
「ひどいありさまだな……父の威厳も、こうなってしまっては見る影もない」
「直して居室にでもするか? 王位継承権者はあんただしな、威厳を立て直すにせよ、そうしないにせよ、あんた次第だ」
内心の動揺を気取られないように、冗談めかして言う。
だがエティエンヌの側は、至って真剣な顔で答えてきた。
「ああ、まさしくその点だ。あなたに相談したかったのは」
「戦後処理も終わらないうちから、部屋掃除の話かよ?」
「いや、できれば部屋も片付けたいが、相談事はそうではなく――」
微妙に会話が噛み合っていない、気がする。
傍らを見ればジャックが、どこか可笑しそうな顔で俺たちを見守っていた。
ずれた会話の後、エティエンヌは俺を連れて王城のバルコニーへ出た。眼下に広がる宮殿の前庭には、今は王家軍の者たちが集まっていて、人の塊の隙間を縫うように兵士たちが行き交っている。
「相談したかったのは、戦勝宣言の演出についてだ。父の威厳を立て直すか、それともそうしないか」
なるほどな、と納得する。
かつてヴィクトールが王位を継承した際、あいつは王宮の庭園いっぱいに市民を集め、俺と共に「魔法の炎」を披露した。あの時の派手な演出と演説が、人心に大きく影響を与えたことは疑いない。いや、人のみならず獣にまでも。
伝説となった演説を、俺は今でも鮮やかに思い出せる。
あの日、庭園に集まった大勢の市民の前で、ヴィクトールは手を振り、声を張りあげた。
(フレリエールの民よ。第四王子ヴィクトール・ド・ヴァロワ、ここに王位の継承を宣言する。前王の悪政に苦しんだ市民たちよ、私は諸君らにより良き生活を保証する。そして我が継承の正統性を疑う者たちよ、私はここに証立てる、この玉座は神々の信託によってもたらされた権威あるものであると。なぜなら――)
声と共に、赤い光がひらめいた。
ヴィクトールを囲うように、赤い炎の輪が燃え盛った。群衆がどよめいた。
(――天は我が元へ、失われた『神の料理人』を再び遣わした!)
目で促され、俺は一歩前へ進み出た。眼下に広がる頭、頭、頭……気持ち悪くなるほどの視線が、一斉に俺へと注がれていた。
(彼こそ、神聖なる
事前の打ち合わせ通り、俺は掌に力を籠め、目の前に円を描いた。
赤い光がひらめき、炎の輪がもうひとつ目の前に現れた。
民衆の興奮が、高まった。ヴィクトールは左手で俺の肩を抱き、高らかに宣言した。
(天上の神々と、『神の料理人』の名において、私は約束する。従う者には、前王よりも良き治世を。そして反逆する者には、この聖なる炎での断罪を!)
ヴィクトールが右手を高く掲げた。掌から生まれた炎が、幾筋も天へと噴き出した。赤い筋が青い空を貫くたび、群衆は祝祭の花火を見るように湧き立った。
そして、歓声と熱狂が最高潮に達した時、それは現れた。
炎が飛んだ先に、別の炎のかけらが見えた。はじめ残り火に見えたそれは、見る間に大きくなり、堂々たる翼と尾をなびかせながら、ゆっくりと上空を旋回した。
(……大いなる
衛兵の誰かがつぶやいた。
不死鳥。幻獣の中でも特に力が強いとされ、辺境の霊山にだけ住まうと言われる炎の鳥だ。中でも「大いなる不死鳥」と呼ばれる一羽は、何度も生まれ変わりながら永遠の時を生きるという。
大いなる不死鳥は、普段人里に姿を見せない。だが人の世に優れた王が現れた時、人々の歓喜に応えて現れることがある――と、伝承されていた。
(民たちよ、見よ!)
ヴィクトールが空を見上げ、高らかに叫んだ
(大いなる不死鳥が、我らの前途を祝して現れた! 神聖なる鳥も、フレリエールの未来を祝福しているぞ!)
階下から大歓声がとどろいた。
群衆が、何度もヴィクトールの名を呼ぶ。王城を震わすほどに重なり響く己が名を浴びながら、ヴィクトールは悠然と笑っていた。誇りに満ちた微笑を浮かべながら、ゆったりと手を振っていた。
あの時、燃える炎は確かに希望の光だった――
「……考えているのだ。父のように、ただ一度の演説で民の心を掴めないかと。大いなる不死鳥を
「確かに、それができりゃ理想ではあるが」
無理だな、と喉まで出かかったのを引っ込める。
ヴィクトールの炎は、魔法が長く失われていた世だったからこその衝撃だった。いま同じことをやったとしても、同じ効果は期待できない。むしろ「大粛清」等を経た今では、権力の恐怖を強く印象付けてしまいそうだ。
エティエンヌもどうやら、同じことを考えているようだった。
「炎以外で何かないかと、考えているのだが。やはり見た目の華やかさは、炎に勝るものはない。しかしそれでは民を威圧してしまう」
「だよな……」
ふたたびバルコニーから庭園を見下ろす。俺は、ここに別の思い出も持っている。
大粛清の後、ヴィクトールとの直談判に失敗し、言われるがまま魔法の料理を作るしかなくなった頃だった。今日と同じように庭園を見下ろしつつ、俺はふと気が付いた。
ここから飛び降りれば、なにもかもから救われるのだと。
結局、その時は巡回の兵に止められた。だが考え自体は頭に残った。「不老不死の探求」を名目に霊山へ旅立つ――という案の、おおもとはその時にできた。そう、元々は死にに行くつもりだったのだ。
だが、今、俺は死ぬわけにはいかない。
隣に立つ王子を、一人前の王に育てねばならない。王と認めさせねばならない。戦勝宣言は、その第一歩になるはずだ。
しかし、どうすればいい。
父親のように鮮やかに、だが父親の恐怖は引き継がずに――難しい問いへの答えが出ない。
広がる青い空の下、庭園では相変わらず、兵士たちがせわしなく動き回っていた。
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