夜食の膳
会議はさらに続いた。多くの細かなことがらは出席の諸将たちが決めていったが、途中、エティエンヌはいくつかの事項に異議を唱えて却下させた。それらはすべて、ベルフォレの民に不利益をもたらす事項だった。諸将は抗弁を諦めたのか、表向きは従順に修正を受け入れていた。
会議の後、エティエンヌは中央庁舎内の自室へ入った。市長が使っていた、手狭ながらも品の良い家具で飾られた部屋だった。籐の椅子に、エティエンヌはぐったりと背を預けた。
「疲れました」
それだけを言って彼は黙り込んだ。身体を動かす気力も尽きているようだった。よくやったなと俺が声をかけると、わずかな微笑みが返ってきた。が、首から下は動かない。
本当に疲れたのだろう。最初の軍議を思い返してみれば、あの時と今日とで、彼の態度は雲泥の差だった。最初の軍議の席で、エティエンヌはわがままな子供にしか見えなかった。「神の料理人」さえ得ればなんとかなる――それ以外の考えなどなさそうなまま、苛立った反発ばかりを繰り返していた。守ろうとしていたのは、王子の矜持ばかりに見えた。
だが今日、目の前の青年は強かった。浴びせられる言葉の嵐に揺るぐことなく、屈することなく、守るべきものを静かに守り抜いた。
エティエンヌは少しずつ認識しはじめたように思う。己がどんな力を持つか、その力で何ができるか、いつどのように使うべきなのか、を。とはいえ、守るべきものを持った時、人がこうまで変わるとは正直なところ驚きだった。
感心しながら、俺はエティエンヌに声をかけた。
「ありがとうな。あんた、かっこよかったぜ」
「……ありがとう、ございます」
エティエンヌは椅子の背にもたれかかりつつ、それだけを言ってまた黙り込んだ。会話の気力も尽きているのだろう。
今はそっとしておいた方がよさそうだ。だがそれでも、どうにかして労ってはやりたい。
料理人が用意できるのは、やっぱり飯だよな――などと考えつつ、力が抜けた様子の長身を見ていると、不意に目の前へ蘇るものがあった。
――ヴィクトール。
夜半の執務室、山積みの書類を前に椅子にもたれる偉丈夫の姿が、目の前の痩せた青年に重なった。表情から苛立ちと不安が抜け、力と誇りとが備わると、目鼻立ちの相似がますます際立ってくる。リヴィエルトンでの戦後にも感じたが、今はよりはっきりと表れている。
不意に、俺の頬を涙が伝った。長い統治の間、あいつは多くの人間を殺した。多くの者を不幸にもした。それでも俺はいまだに、あいつの姿を思い出す。幾度振り払おうとも、あいつは、俺の中から消えることがない。
――霊山で忘れられたと思っていた。すべてを断ち切り、名も棄て、俺は俺として生きられるはずだった。だのに。
とめどなく落ちる涙が止まらない。隠さなければと、思った。
「落ち着いたところで、腹減ってねえかエティエンヌさんよ」
内心の焦燥を隠すべく、あえて鷹揚に言う。
エティエンヌとジャック、ふたりが同時に俺を見た。少し考え、王子は言った。
「……なにか、軽いものでもあれば」
「よっしゃ。作ってきてやる、少々待ちな」
答えを待たず、俺は部屋を飛び出した。
食糧庫から使えそうなものを見繕った。幸い、さつまいもとチーズがあった。今更ながら俺は、エティエンヌの食べ物の好みを知らないことに気付いた。これまでは、好む食事ではなく必要な食事を作ってきたから。
この品で良いのか迷いつつ、俺は薄切りにした芋を水に泳がせた。椀の中でくるくると舞う芋を見ていると、不思議と落ち着きを覚えた。無心に手を動かしていると、余計なことを考えずにいられた。
芋を煮る。潰す。牛乳を入れて温める。立ち上る甘い香りに、俺自身も芯から温まっていくように感じる。
塩胡椒で味を調え、最後にちぎったチーズを投げ入れ、火を止めた。
スープ皿に注ぎ、エティエンヌの元へ持っていく。湯気を立てる、白く滑らかなスープを前に、王子の顔は少しほころんだ。
「俺からの礼だ。材料は簡単なものだが、味は保証するぜ」
「殿下のために、ありがとうございます。では――」
皿を取ろうとするジャックを、俺は手で制した。
「温かいまま、飲ませてやりてえんだが。特例は無理そうか」
従者が当惑する。一方で、エティエンヌの表情は変わっていない。
「殿下さえよろしければ、このジャックめは問題ございませんが」
「アメール殿の料理であれば、私は大丈夫です。では、今回だけということで」
エティエンヌは匙を取り、さつまいもとチーズのスープを掬った。口に入れた瞬間、王子の目はうっとりと細められた。
「温かいものは、こんなにも美味しかったのですね……芋の甘さに、チーズの旨味がわずかに溶け込んでいて。もともと甘いものは好きなのですが、これは、とてもおとなしくて上品な甘さで――」
言葉を切り、二匙目、三匙目を口に運ぶ。疲れた表情が、見る間に和らいでいく。
「――とろけるようです。胃の中から、温かいスープに溶かされていくようです」
匙を持つ手の動きが、どんどん速くなる。
不意にまた、俺の心臓は締め付けられた。
似ている。本当に。
幸せそうに下がった目尻と眉。額の汗に張り付く、癖のない金色の前髪。まっすぐに流れる髪の間に、覗く耳の形。どれもこれも見覚えがある。夜半の執務室で、書類仕事の手を止めて、俺の差し入れを満面の笑みで受け取ってくれた、そしてうまそうに飲んでくれた、あの顔と同じだ。
三、四十年くらい前の、若い頃のヴィクトールの面影が、目の前に確かに現れていた。いま軽食の皿を前に、幸せそうに笑むこの若者は、確かにヴィクトール・ド・ヴァロワの血を継いでいた。
また目頭が熱くなるのを、なんとかこらえる。
気付けば、目の前のスープ皿は空になっていた。
「ありがとうございました。温かいスープは良いものですね」
感謝の言葉。だが、丁重な言葉遣いにもどかしさを覚える。もっと気さくな言葉で呼びかけてほしい。かつて、父親がそうしたように。
――ああ、だめだ。どうしようもなく、俺は囚われたままだ。
浅ましい自分に呆れ果てつつ、思う。彼とふたり、共に手を携えて歩めば、あるいは忘れられるのだろうか。身の内に刻まれた、父親の消えない存在を。
愚にもつかない考えを巡らせていると、エティエンヌは不意に、傍らの従者へ声をかけた。
「ジャック、薬草茶を頼めるか。濃厚なスープの後には、さっぱりしたものが欲しい」
「もちろんです。しばしお待ちを」
ジャックが一礼して部屋を出ていく。扉が閉まるのを確かめ、エティエンヌは急に真剣な表情になった。
「……アメール殿。今日は、ずいぶんと動揺しておられましたね。戦場でも、議場でも」
「まあ、な」
指摘されれば認めるしかない。
動けず倒れ伏す市民たちのありさまは、それ自体が痛ましいものだった。加えて、呼び起こされた忌まわしい記憶が痛みを積み増した。年長者として、献策した立場として、情けないかぎりではあったが。
とはいえ、昔を知っていると明かすわけにはいかない。ルネ・ブランシャールは死んだのだ。俺はアメールだ。
「あの街の様子、見りゃあな……しかも原因は自分の策とマナとだからな。うろたえもするぜ」
「それだけでしょうか」
エティエンヌの真意が、捉えられない。
「何が言いたい、王子様」
「的外れでしたら申し訳ないのですが。私にはどうにも、あなたが、街のあの光景を初めて見たように思えなかったのです。市民たちは死んでいないと、確信を持って断言し――」
「師匠が言ってたんだよ」
「聞くと見るとはまったく違います。あなたは、おそらく過去に――」
「あるわけねえだろ。俺はずっと師匠と山暮らしだった。外には出てねえよ」
軽く頷き、エティエンヌは目を細めた。何かを得心した様子だった。
「やはり、自ら認めはなさいませんか。では単刀直入にお訊ねします」
ほんの少し眉根を寄せ、正面から俺を見据え、少しばかり潜めた声で、エティエンヌは言った。
「あなたが、ルネ・ブランシャール様ですね?」
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