稲妻の痕

「これ、は」


 エティエンヌがうめいた。

 目の前のベルフォレが、死の街と化していた。街路のそこかしこに黒服の兵――すなわち貴族連合に属する敵兵の、死体が横たわっている。

 いや、よく見れば小刻みに手足が震えている。生きている、死んでいない。恐怖に支配され、身体を動かすことができないのだろう。俺たちが撒き散らした「畏怖」が、街のすべてを強烈に覆っていた。


「……っ」


 俺は、自分の口を手で押さえた。吐き気が、している。


「彼らの、命に……別状は、ないのですよね。アメール殿」


 エティエンヌの声が、はっきりと動揺している。


「ああ。大丈夫、だ」


 俺は、わざとらしいほどに大きく頷いた。半分は俺自身に言い聞かせていた。

 大丈夫だ。今度はあの時とは違う。殺さない。火もつけない。

 ……かつてヴィクトールは、コカトリスのマナを何度か使った。主に中小規模の反乱勢力相手にだった。外からマナを投入できる条件が揃い、相手方が投降を拒否し、かつ「救済の必要なし」と判断した場合に、使った。

 俺とふたり、黒い稲妻を撃ち込み……敵方を無力化したところで、火をかけた。


「問題ない。……皆、何時間かで元に戻る。死んでない」


 ああ、そうだ。今は大丈夫だ。死なせない。殺さない。

 思い出せ。命を落とす者を減らすための、今回の作戦だったろう。すべては予定通りだ。

 吐き気をこらえつつ、俺は、エティエンヌと街路を進んだ。






 中央庁舎方面へ進めば、街の様子は悪い方に変化していった。

 街路のあちこちに、死んだように横たわる者たち。その身体を、白服の味方兵たちが無造作に運び去っていく。倒木や瓦礫を回収するかのように、手つきはぞんざいだった。小麦粉の袋でも、もう少しは丁寧に扱われるだろう。

 将のひとりが兵士たちを監督し、人々を広場に集めていた。白服の兵が運び出し、中央広場に集めた人――というより人の身体には、兵士だけでなく非武装の者たちまでが交じっていた。どれも目は虚ろで、手足は震え、口をだらしなく開けて虚空を見つめている。

 身の内の傷が疼く。俺はかつて確かに、同じことをした。あの時は、あいつが炎で焼き尽くすとわかっていて――


「アメール殿?」


 エティエンヌの言葉に、返事さえできない。

 頭が痛い。吐き気がひどい。足に、地面を踏んでいる感覚がない。

 また数人、民間人が運び込まれてきた。老婆と、年端もゆかぬ幼子だった。いずれをも、兵士たちは無造作に地面に転がした。


「……やめろ」


 ようやく、声を絞り出せた。

 兵士たちの動きが止まった。だがすぐに、監督の将が鋭く命じた。


「続けよ」

「やめろ!」


 俺の叫びに、将は耳を貸さない。兵士がまた、人々を乱暴に運び入れ始める。

「神の料理人」といえど、俺の立場はあくまで客人だ。総大将に献策する立場ではあれど、将兵を指揮する役目にはない。この場で俺は何も言えない。言ってもよいが、言葉には何の力もない。

 何もできないまま吐き気をこらえていると、エティエンヌが一歩前に進み出た。


「手を止めろ、おまえたち……この者たちはフレリエールの民だ」


 言葉に震えはあった。だが声色は凛としていた。


「聞こえないのか。その者たちは、守るべき我が国の人民だ」


 兵士たちの動きが、また止まった。場の全員がエティエンヌを見た。


「正統の王位継承者の名において、粗略に扱うことは許さない」

「だが反逆者ですぞ。反逆者と帰順者が同等の扱いとなれば、王の名において公平を欠きまする。ヴィクトール前王陛下であれば、そのような不公正は決してなさらぬでしょう」


 将の言葉に、エティエンヌは唇を噛んだ。ヴィクトールの名を出された瞬間、青い目が一瞬泳いだように、俺には見えた。

 重い沈黙が流れる。誰も何も言わない。兵士たちは、会話の行方を当惑した風に見守っている。

 エティエンヌを助けなければ、と思う。だが頭は重く、思考は回らない。


「反逆者の、処断については――」


 エティエンヌの声が、ようやく発された。だが、さきほどと同じ力はない。


「――軍議にはかることとする。方針決定までの間は、我が民の尊厳をいたずらに傷つけることのなきよう」


 額にわずかに浮いた汗が、懸命な思考を物語っている。

 彼なりに考えた結果ではあるのだろう。だが時間稼ぎでしかない。

 将がまたもなにかを言いかけた時、中央庁舎方面で大歓声が沸き起こった。見れば尖塔に、ヴァロワ王家の「竜と双剣」の旗印が高く掲げられていた。

 同時に伝令が駆けてきた。


「ベルフォレ市長と副市長の捕縛を確認。市街の制圧完了いたしました。つきましては皆様、作戦行動が完了次第、中央庁舎へ参集いただきたいとの由」


 ある意味で助け船だった。俺は頭を起こし、出せるだけの力を籠めて将をにらみつけた。


「って、ことだ。沙汰があるまで、総大将の命令には、従っときな」

「……承知いたしました」


 渋々ながら、将は作業の「丁寧な」続行を命じた。兵士が、横たわる身体たちを助け起こしはじめる。その手つきから粗暴さが消えたことを確かめ、俺はエティエンヌと共に中央庁舎へ向かった。






 中央庁舎へ向かう石畳の道は、やはり苦悶の呻きに満ちていた。壁を背にへたり込んだ敵衛兵、泣く気力さえなく虚空を見つめる親子。

 俺とエティエンヌは、数人の護衛兵と共に街路を歩いた。動けない人々が横たわる中で、皆の足取りは普段より速いように思われた。護衛たちは表向き無表情だったが、口からは時折、抑えきれぬ重い溜息が漏れていた。

 エティエンヌは沈痛な面持ちで、青い目を震わせている。力のない横顔に不安を覚えていると、不意に声をかけられた。


「アメール殿」

「どうした」


 王子の眉根に、少しばかり力が籠った気がする。


「このような時……父は、どうしていましたか」


 父のやり方に縋りたいのか。だが「そのまま焼いていた」などとは、とても答えられない。

 返事に困っていると、エティエンヌは言葉を続けた。


「抵抗の力を失った、人々を前にして……父は、どう対処していましたか」


 その瞬間、はっきりと、身の内に言葉が浮かんだ。


 ――嫌だ。


 皮切りの言葉が形になれば、沸かした湯のあぶくのように、次から次へ言葉があふれる。


 ――もう勘弁してくれ。俺の力で人を殺すのも、この心優しい青年に人殺しをさせちまうのも。

 ――エティエンヌはエティエンヌだ。ヴィクトールじゃねえ。ヴィクトールと、同じ轍を踏むな。同じ罪を犯すな。

 ――もう、なにもかもたくさんだ。


「……訊くな」


 声を出せば、エティエンヌは青い目をしばたたかせた。


「アメール殿。今なんと」

「訊くな、っつってんだよ……あんたはあんただ。ヴィクトールじゃねえ。あいつと同じことを、する必要はねえ。ただ――」


 不意に、思い出した。

 無能だ惰弱だじゃくだと言われ続けるこの王子様は、昔、そうでなかった時期が確かにあった。自らの意志で、大切なものを守り抜いたことがあった。それが彼の本質であれば、すべてを託せるかもしれない。

 いや、いずれにせよ託すしかないのだ。神の料理人は議場では無力だ。ならば、力を持つ誰かに、代わりに戦ってもらわねばならない。

 俺はエティエンヌの手をとり、強く握った。


「――あんた昔、守ってやったんだってな。飼ってた鶏を、最後まで」

「っ!」


 エティエンヌの目つきが険しくなった。嫌なところを突かれたと、表情が語っている。

 言葉が刺さっていることを見届け、俺はさらに続けた。


「ヴィクトールに何を言われても、守り通したんだってな。あんたの、大切な命を」


 エティエンヌは無言だった。血の気が引いた顔で、何も言わないまま俺の話に耳を傾けている。あるいは単に、返す言葉が出てこないだけかもしれない。

 俺はせいいっぱいの笑顔を作った。うまく笑えているかは、わからない。


「思い出しな、あんたは王子様だ。王家の血を継ぐ、たったひとりの正統の王位継承者だ。あんたにしか守れないものは、そりゃあもうたくさんある」


 歩を進めながら、俺はちらちらと街路の周りを見た。エティエンヌの目が、俺の視線の先を追ってくれた。

 随所に横たわる動けない人々。抵抗の手段をすべて奪われた、絞められる前の鶏よりも無力な、命の群れ。

 そのひとりひとりに、この街でのかけがえない暮らしがあったのだと、彼は理解しているだろうか。いや、理解していなくてもいい。守るべき存在と、認識さえしてくれればいい。


「議場に入れば、俺にはなんの権限もねえ。守れるのは、あんただけだ……俺たちが生き地獄に叩き落としちまった、たくさんの命を」


 エティエンヌの肩に手を置く。

 表情には、憂いの色が相変わらず濃い。だが瞳の震えは、いくぶん抜けてきたように見える。


「守って、やってくれ……大丈夫だ、鶏一羽守り通せたあんたなら。人間だって、守り抜けるはずだ」


 促すように、指先で軽く叩いてやる。鎧の上からだから、届いたかどうかはわからないが。


「俺も、できるかぎりは援護する……頼んだぞ」


 端整な横顔が、歩む先をまっすぐに見据えて頷いた。

 街道の先、中央庁舎は、目視で見える距離にまで近づいていた。

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