3章 傷心懐旧
面影
エティエンヌが目を覚ましたのは、夜もかなり更けた頃だった。平時であれば番兵以外は寝静まっている時間だ。今は戦の直後でもあり、街路の随所には
エティエンヌの身柄は、夕方のうちに中央庁舎内の仮眠室へ移されていた。俺とジャックが、寝台横の椅子に掛けて見守る中、寝ぼけ眼の王子様は身を起こした。そして、窓から外の様子を確かめた。
「……ここは?」
「リヴィエルトンの中央庁舎だよ。夜中におはようさん、よく眠れたか」
エティエンヌは緩慢に首を傾げつつ、焦点の定まらない目を一瞬さまよわせた。だがすぐに、青い目に力が戻る。
「え。あ……それは――」
寝起きの意識がはっきりしてくると、今度は言葉が出てこない様子だった。エティエンヌは釣り上げたばかりの魚のように、口をぱくぱくさせている。
「――つまり、その」
事態が呑み込めていないらしい王子様を、あえて放っておく。喜びは、自分で気付いて噛みしめるのが一番いい。
「アメール殿。私は……私たちは」
傍らのジャックと共に、次の言葉を楽しみに待つ。おそらく今の俺は、抑えきれないにやにや笑いを満面に浮かべていることだろう。
「……勝った……のですか?」
思い切りよく、拍手をしてやる。すぐにジャックも乗ってきて、ふたりの手の音が、薄闇に包まれた室内に共鳴した。
「港からの奇襲、氷壁での足止め。作戦は全部うまくはまって、犠牲者は最小限に食い止められた……おめでとさん。あんたの勝ちだ」
「見事な魔法だったと、アメール殿から伺っています。非戦闘民への態度も堂々としたものだったと。このジャック、殿下に従者としてお仕えしてきたことを、心より誇らしく思います」
「……そ、それ……では」
エティエンヌの頬を涙が伝う。一筋の滴が、窓からの星明りを反射し、かすかにきらめいた。
「すみません……見苦しいところを。ですが」
白い手の甲が、目尻を拭う。だがその間にも、新たな滴は湧き出し流れ落ちていく。
「私は……勝てた、のですね。確かにいちど、勝てたのですね……」
「いちどだけじゃねえよ。次も、またその次も勝つ」
そこで俺は椅子から立った。仮眠室の扉を一瞥した後、ぐしゃぐしゃ顔の王子様に笑いかけてやる。
「腹、減ってんだろ。氷マナを使えば身体も冷える。ちょっと待ってな、いいもの作ってくるからよ」
空腹を自覚したのか、エティエンヌは照れくさそうに笑った。刺々しさが抜けた顔立ちは、柔和に整って美しい。本来がこんな美青年だとわかれば、貴婦人たちは決して放っておかないだろう――と考えかけて、不意に心臓が冷えた。
「それじゃ、ちょいと厨房に行ってくるわ。少し待ってな」
内心の動揺を気取られぬよう、俺は作り笑いを浮かべながら仮眠室を後にした。
中央庁舎の厨房には、幸いにも求めるものがあった。鶏肉、ニンニクと生姜、数種類の野菜、
鍋を火にかけ、熱した油にニンニクと生姜を入れれば、つんとくる強い香りが立ち上ってくる。野菜を、次いで鶏肉を入れて炒めてやれば、肉の旨味を含んだ匂いが部屋中に満ちた。番兵の腹の虫が聞こえ、少々申し訳ない気分になる。君主のための料理でさえなければ、少しは分けてやれるんだが。
火が通り切ったところで、月桂樹の葉と塩を投入。水を入れて蓋をすれば、すぐに、くぐもった音がぐつぐつと響き始める。あとは煮えるのを待つだけだ。俺は大きく息を吐いた。
料理はいい。切ったり炒めたりしている間は、何も考えずにいられる――と思った瞬間、蘇ってしまった。頭から追い払っていたものが。
「やっぱり……似てるぜ、どうしようもなく」
ひとりごちる。
わかっていたことだ。苛立ちと陰鬱の影が抜ければ、息子の顔立ちは父によく似ているのだと。
脳裏にちらつくのは、かつて王都の宴の席で、貴婦人にやわらかく笑いかけていたヴィクトールの姿だった。さきほど寝床で、はにかんだように笑っていたエティエンヌには、確かに父の面影があった。
心臓の鼓動が、速くなる。
煮えるスープの香りさえ、過去の記憶を呼び起こしてくる。鶏肉にニンニクに生姜と、体を温める食材が豊富に入ったスープは、風邪をひいた時の定番食だ。ヴィクトールが病を得た時は、いつも作ってやっていた。重い病の時には、万病を治すマナを持った不死鳥肉を使うこともあって――
「やめろ、俺」
頭を振って、考えを散らす。
思い出すな。これを食べさせる相手はエティエンヌだ。息子の方だ。父親じゃない。
「余計なことを考えるな……今は、あいつを勝たせることだけ考えろ」
口に出して言ってみても、取り憑いた考えは散らない。
煮上がったスープを、俺は椀に注いで仮眠室へ持っていった。無理に笑いながらスープを渡してやれば、エティエンヌは少し疲れた表情で受け取ってくれた。
「ありがとう、ございます。これは、何かのマナが入ったものですか」
「いや、普通の鶏肉スープだ。ただ身体は確実に温まる。氷マナで冷えた身体には、ちょうどいいはずだぜ」
青い目を細めて笑う、目元口元のかたちに、確かな既視感がある。
たまらず俺は背を向けた。扉を見ているふりをする。
「……とても、おいしいですね」
穏やかな声が、背後から聞こえる。
「鶏の旨味に、生姜とニンニクがきいていて……野菜にもしっかりと味がしみていますね。身体の芯から、温まっていくようです」
「そうか。それは……よかったな」
背後を振り返ることが、できない。
あの短気で神経質だった王子様は、いま、どんなやわらかい顔をしているのか――見たいのに、見られない。
「そいつで体力を回復させて、明日以降に備えとけよ。準備が整ったら、すぐ出立だそうだ……敵の態勢が整いきらないうちに、できるかぎり進軍したいと大将連中が言ってた」
「わかり、ました。ではそのように」
エティエンヌの声に、少しばかりの力強さが芽生えている。
声の元を確かめる勇気が、俺には、どうしても出せなかった。
一夜が明けた。
戦後のリヴィエルトン市街のありようが、白日の下に晒された。俺が確かめたかぎりでは、混乱も街の損害も、主が変わった直後とは思えないほどに少なく抑えられている。その意味で俺たちの作戦は図に当たっていた。
とはいえ、まったくの無傷とはいかない。両軍兵士の遺体は随所に転がり、少なからぬ住民が、連絡の取れない家族や縁者を探している。
リヴィエルトンの管理は後方部隊に任せ、俺たちは、次の攻略目標へ向けて急ぎ進軍することになった。翌日の出立へ向け、各部隊が準備を急ぐ中、俺は食材の補充のために市場へ向かった。そこで、冷ややかな視線に出会った。
「……あんた、は」
出てしまった言葉は小声だったから、相手には聞こえていないだろう。
前日、中央庁舎に集められていた住民のひとりだった。子供連れの婦人は疲れ切った表情で、兵士の遺品と思しき兜と剣を抱えていた。
非難めいた目が、俺を一瞥する。
なにか、声をかけなければ――迷ううちに母子はいなくなっていた。一言の抗議も発さぬまま、どこかへ行ってしまった。
俺はやりきれない思いを抱えつつ、ただ頭を振るしかできなかった。
俺たちはリヴィエルトンの民に、心配するなと言った。けれど結果として、消えない爪痕を残してしまった。
この場にエティエンヌがいたなら、あいつは何を言っただろうか。何を思っただろうか。黄金の霧氷をまとい、自分の言葉で彼らに安全を保証した、あいつは。
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