「ルネ・ブランシャール」

 本当のエティエンヌは、どんな奴なのか――俺が疑問を呟けば、黒髪童顔の従者殿は、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに口角を上げた。


「あの日の夜、殿下は私の部屋を訪ねてこられました。赤く泣き腫らした目で、手には件の鶏を抱いて。そして仰るのです、この子の面倒をみてほしいと」


 ジャックの目尻から、滴が一筋落ちた。


「承諾すると、殿下は真っ赤な目を細めて喜ばれました。よかったね、ここで元気に長生きしてね、と……その後も殿下は毎日、私の部屋に鶏の餌を持って来られました。鶏が天寿を全うするまで、ずっと」


 涙をこぼしながら語る表情は、輝くばかりに誇らしげだった。


「殿下は中庭に、密やかに鶏の墓を作られました。あの日、小さな命に祈りを捧げる御姿を見て、私は誓ったのです。この御方に生涯を賭してお仕えすると……他のすべての人々に蔑まれようと、せめて私だけは、命尽きるまでこの御方を守り通すと」


 慈母の微笑みで、ジャックは眠るエティエンヌを見つめた。


「長きにわたるお辛い暮らし、そして此度の突然の事態。本当の殿下は、すっかり隠されてしまいました……ですが胸の奥深く、弱い者をおもんばかるお気持ちは変わっていないと、私は感じております」

「そう言われりゃあ、そうかもしれねえな」


 確かに今日のエティエンヌは、ジャックが言う通りの慈愛の人だった、ように思う。生来の性質が、俺の言葉を引き金にして表に出てきたのだろう。

 ならば戦場の殺し合いに震えていたのは、恐怖よりもむしろ、失われる命への痛みだったのかもしれない。

 考え込んでいると、急にジャックが手を握ってきた。


「アメール殿。おかしなお願いとは思いますが――」


 横を向けば、真剣な瞳が俺を見ていた。

 ひどく、思い詰めた表情だった。


「――どうか、『ルネ・ブランシャール』様に、なってはくださいませんか」


 派手に咳き込みかけたのを、かろうじてこらえる。

 なるもならないも、ルネ・ブランシャールはとっくに「死んだ」、いまさら何を――とは口に出せない。

 返す言葉を見つけられずにいると、ジャックはさらに続けてきた。


「あなたの御師匠たるルネ様は、前王ヴィクトール陛下と大変仲睦まじかったと聞いております。市井から見出された『王冠』として、ルネ様は常に陛下に付き従い、時には友として肩を並べ戦い、時には孤独を癒す話し相手になり、時には料理人として空腹を満たし、心身の両面から陛下を支えておられたと」


 内実はちょっと違う――と、本人としては言いたい。だが頭の中で、うまく「弟子」の言葉に変わってくれない。何も言えない俺へ、ジャックはさらに語りかけてくる。


「私は思うのです。エティエンヌ殿下に必要なのは、ヴィクトール陛下にとっての『ルネ・ブランシャール』様だと。……友として手を携え、共に歩む誰かではないかと」

「あんたが、いるじゃねえか」


 かろうじて絞り出した返事を、ジャックは首を振って否定した。


「私は従者です。身の回りのお世話をすることはできても、共に立つことは叶いません」

「ルネ師匠も、元は貧民街の孤児だぞ。対等とは到底言えなかったはずだ」

「ですが、力を持つ御方ではあったでしょう。私には何もないのです」


 小声で問答を続けつつ、俺は傍らのエティエンヌを見た。

 王子様は相変わらず無防備に寝息を立てていた。癖のない金色の髪を揺らしながら、わずかにあどけなさを残した表情で、眠りこけていた。神経質な刺々しさは、今だけは鳴りを潜めている。

 開戦前に、俺自身が王子へかけた言葉が蘇る。


(一度勝てば、行くところへ行くまで勝ち続けなきゃならねえ)


 そうだな、他に道はないのかもしれない。俺たちは一度勝った。ならば勝ち続けるしかない。投げ出してしまえば、いたずらに死人が増えるばかりだ。

 結局、付き合ってやるしかないのだ。進むのは険路だ、が、脇に逸れたり退いたりすれば、待つのは敗北と混迷でしかない。わかっていて逃げるのも寝覚めが悪い。俺の存在が明るみに出された以上は、逃げ切れる保証もない。

 旗頭として、この王子様はいかにも力不足だ。だがジャックの言葉が本当なら、傷つき曇った表層の下に、良質の地金が眠っている可能性もある。


「……ま、しょうがねえ。やれるだけはやってやるぜ、当の本人にどう思われるかは知らねえが」

「本当ですか!」


 ジャックの表情が華やいだ。

 だが俺としては、譲れない点がひとつあった。


「ただなあ。『ルネ・ブランシャール』になれ、ってのだけは勘弁してくれ。師匠は師匠で色々あったらしいからよ、同じ轍を踏みたくはねえ。俺はアメールだ」

「そこは御随意に。殿下を支えていただけるのでしたら、その名がアメール殿であろうとルネ殿であろうと、変わりはありません」


 幸い、ジャックは素直に引き下がってくれた。

 昔に戻されるのだけはごめんこうむる。ルネ・ブランシャールは死んだのだ。ここにいるのは、ただの逝き損ないの亡霊だ――

 胸中にわずかな痛みを感じつつ、俺はジャックと共に、眠るエティエンヌを見つめた。長く美しい金髪を長椅子の上で波打たせながら、何も知らない王子様は、安らいだ顔で眠り続けている。

 何を夢見ているのだろうか。まだ見ぬ初めての「勝ち」に、酔いしれているのだろうか。


「なあ。……勝ったぞ、俺たちは」


 小声で囁きかけてやる。

 私は勝ったことがない、と、魔法料理の皿を前にうなだれていたエティエンヌ。初めての勝利を手にした時、この神経質な若人は、どんな顔をするだろうか――楽しみにしている自分に、少しばかり驚く。

 窓から差す赤い陽光が、急速に減じていく。リヴィエルトンの長い一日が、暮れようとしていた。

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