鶏と白湯

 リヴィエルトン市街での戦闘は、夕刻にはほぼ終息していた。中央庁舎の窓から見える街並も、夕陽の赤味を帯びてきた。

 なおも身体に力が入らないまま、ぼんやりと床に座っていると、不意に部屋の扉が開いた。入ってきたのは血相を変えたジャックだった。エティエンヌが倒れたことをようやく知って、駆けつけてきたようだ。留守居役の彼が来たなら、市内の制圧は完全に終わったのだろう。王子の命に別状はない、と俺が告げると、黒髪の従者は安堵した表情で、眠る主人を見つめた。


「薬や包帯の必要はございませんか」

「疲れて寝てるだけだ。休ませておいてやれ」


 長椅子で眠る力の抜けた顔を、二人並んで眺めていると、ふと疑問が湧いた。この悪評だらけの王子様は、本当はどのような人間なのだろうか。接すれば接するほど、わからなくなってくる。


 世間の噂によれば、無能な小人物。

 霊山で出会った時は、少しの煽りで平静を失う危険人物。

 軍議の席では、力もないのに虚勢を張る見栄っ張り。

 氷雪白鳥のコンフィを供した際は、哀れなほどに気弱な情けない人物。


 印象は見るたびにばらばらだった。無力で器の小さい人物、という点だけが共通項かと思っていたが、それすら今日覆った。

 民の前で黄金の光に包まれたエティエンヌは、慈愛を備えた、貴人の品位と風格を持つ男に見えた。

 視点を変えて思い返せば、彼にもいくらかの知恵や強さがあったように思えてくる。


 霊山で、俺がルネの存在を隠そうとした時、彼は一瞬で供述の矛盾に気付いた。

 その後飛竜に襲われた時、彼は怖気づく素振りを見せなかった。反攻こそできなかったものの、力強い目で襲い来る竜を見据えていた。

 今日リヴィエルトンで戦況を見ていた目にも、恐怖による怯えはなかったように思う。震えはしていたようだが、どうやら他の理由に思えた。

 探してみれば、エティエンヌにも多少は優れた資質があるように見える。前面に出ている神経質な狭量さを、多少なりとも抑えられたなら、もう少しましな人物になりそうな気もするのだが。


「わかんねえな」


 漏れた言葉に、ジャックが反応した。


「どうなさいました」

「ああ。わかんねえんだよ、こいつのことがな」


 眠る本人を起こさないよう、小声で囁く。


「小心者なのか大胆なのか、見栄っ張りなのかそうでもないのか。見るたびに人柄が違ってて、どれが本当のこいつなのかわからねえ」

「本当の……殿下、ですか」


 ジャックは、どこか寂しげに目を伏せた。表情にかすかな憂いを感じる。


「ある出来事をきっかけに、殿下は父君の信を失いました。以来ずっと、父君は殿下を不出来の子として扱い続けました。地位も家臣も与えず、ことあるごとに惰弱だじゃくの子として罵り続け……そうして、今の殿下があります」

「何やらかしたんだ? ヴィクトールは好悪をはっきり示す男だった……と師匠から聞いてるが、実の子をそうまで憎む理由は、外の人間からはちょっと想像つかねえ」


 ジャックは深い溜息をつきつつ、エティエンヌの様子を確かめた。話題の主は長椅子の上で、相変わらず身じろぎもせず眠りこけている。穏やかな寝顔には、青臭い若さが少なからず残っているように感じる。


「広く知られた話ではありますので、お伝えはいたしますが……この件について、殿下御本人にはお訊ねにならないでくださいね。快い思い出ではないはずですから」


 聞き取れるぎりぎりの低い声で、ジャックは囁くように話し始めた。






 ジャック曰く。

 エティエンヌが十歳の頃、ヴィクトールは贈り物として一羽のひよこを与えた。動物好きだったエティエンヌは大喜びで、さっそく愛らしい名前を付け、毎日手ずから餌を与えてかわいがった。当時から仕えていたジャックも、ひよこの世話をたびたび手伝わされた。だがエティエンヌの幸せそうな顔を見れば、苦にはならなかったという。

 やがてひよこは鶏に育ち、王城の中庭ではエティエンヌと鶏がよく一緒に遊んでいたという。

 だがある日、ヴィクトールはエティエンヌに命じた。鶏を絞めてスープにせよと。


「いや、それはちょっと無茶だろ」


 口を挟まずにはいられなかった。


「俺は山で動物を狩ることも多々あったが、そこまで情が移った生き物を料理しろと言われたら、ちょっと無理だぞ」

「私も同意見ですが、父君はそう思われなかったようです。人は他の生物を犠牲にして生きている、その業は受け入れねばならぬと。そして将来統治者になるならば、己の身を切る決断もせねばならぬと」


 背筋に寒いものが走った。あいつは、たった十歳の子供に何をやらせようとしたんだ。

 言葉を失っていると、ジャックはさらに先を続けた。

 エティエンヌは結局、鶏を絞めることができなかった。この子を殺したくないと泣きじゃくったそうだ。足元で嘆く自分の息子を、ヴィクトールは恐ろしいほど冷ややかに見つめていたという。


「あの時、父君は殿下を見放されたのだと思います。あまりにも理不尽な理由だとは思うのですが……兄君たちにもひよこは与えられていましたが、世話を従者に一任されたり、自ら手を下すことを厭われなかったり。殺せなかったのは、殿下ただひとりだったのです」


 ジャックは唇を噛んだ。

 その日の晩餐の席、王家の人々には鶏肉のスープが供された。だがただ一人、エティエンヌの前にだけは、スープ皿に入った湯が置かれた。具も何もない白湯だった。己が食物さえ自ら賄えぬ惰弱だじゃくの子にはふさわしいと、ヴィクトールは笑っていたという。


「他の人間はどうしてたんだ? 止める奴はいなかったのか!?」

「皆、一緒に笑っていましたよ。父君に意見できる方など、王室にはおられませんでしたから。私は当時も毒見役を拝命していましたが、白湯を毒見した時の……その、気持ちは……なんとも、こう、名状しがたく――」


 ジャックの言葉は何度も止まり、最後に完全に途切れた。

 ヴィクトールが何を考えていたのか、まったくわからない。たった十歳の、しかも己の実の子に、何を考えてあいつはそんな仕打ちをしたのか。


「以来、殿下には兄君たちより一段劣る食事が供されるようになりました。肉や果物が減らされていたり、ひどい時には抜かれていたり。露骨な軽蔑の視線を浴びせられ続け、次第に殿下は健やかな食欲を、やがて笑顔を、失っていかれました」

「あいつの食が細いのは、そのせいだったのかよ……」


 ジャックは何度も頷いた。


「そのような殿下が、何の因果か、父君の玉座を継ぐ責務を負うことになられた……殿下はいま、極度に疲弊しておられます。父君の跡を継がねばならぬ、厳しく強くあらねばならぬと、気を張っておいでなのです」


 そう説明されれば、いろいろなことに納得がいく。

 虚勢を張るのも弱音を吐くのも、根は同じだ。地位に見合った内実がないために、隠そうとして見栄を張り、隠す必要がなくなれば弱気を出す。同じコインの裏表だ。

 そして俺の中で、ひとつの疑問が氷解した。霊山で見せた突然の殺意についてだ。


「ってことは、だ。霊山でいきなり首を絞めてきたのは……昔の急所、突いちまったからだな」

「はい、おそらくは」


 ジャックと頷き合う。

 あの時俺は確かに言った。「それで人ひとり、殺せると思ってんのか」と。エティエンヌにとって、その言葉は過去の傷を呼び起こす、禁句に近いものだったのだろう。鶏さえ殺せぬ惰弱の子、と蔑まれ続けたあいつは、何を置いても俺を否定せねばならなかった。

 だが、だとしたら、それもある意味で虚勢のうちだ。


「被さってる見栄とか責任とか、全部取っ払ったら……本当のエティエンヌは、どんな奴なんだろうな」

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