黄金の霧氷

 渦巻く冷気が走り抜け、空気が白く染まった。ぴしぴしと微細な音が鳴り、真冬の朝のような冷気が肌を刺す。

 眼前の川面に、太くまっすぐな白線が描かれた。大人三人が余裕をもって駆けられる幅の、白い道。大河を横切って伸び、先は南岸の港湾へ到達している。

 敵側は、船を持たない王家軍が港から来るとは予期していないはずだ。


「行け、溶ける前に渡り切れ! 敵が気付く前に!」


 力の限り叫べば、兵たちは列をなして氷の道を進み始めた。

 経験上、強度は十分のはずだ。長くは持たないから急ぐ必要はあるが。

 そして「大河にかかる氷の橋」の絵面はそれなりに派手だ。軍船八百艘燃やすよりは地味かもしれないが、人心を驚かせるには足るだろう。もっとも、期待した広報効果が得られるかどうかは、この作戦の成否による。

 部隊全員が渡河開始したのを見届け、俺とエティエンヌも最後についていく。


「手筈は覚えてるよな。頼むぜ」


 俺の氷マナは尽きた。人が渡れるほどに大河を凍らせるには、氷雪白鳥の豊かなマナ三日分を、すべて吐き出す必要があった。突入後、次なる魔法はエティエンヌ頼りだ。マナが足りてくれることを祈るしかない。

 表面に少々水気が現れ、滑りやすくなった氷の道を、俺たちは足早に渡った。

 作戦は、まだ始まったばかりだ。






 読み通り、港にほぼ敵兵はいない。市街にも衛兵の姿はない。兵力は完全に東門へ集中しているようだ。作戦の第二段階が成功すれば、期待通りの効果をあげてくれるだろう。

 俺たちは部隊を二手に分けた。数の多い方は指揮官に任せ、中央庁舎の制圧に向かわせる。

 俺とエティエンヌは東西街道――リヴィエルトン市街の中央を貫く大通りへ出た。街中をまとまった数の部隊が往来するには、この道を通るしかない。街道を外れたリヴィエルトンの裏路地は、複雑怪奇で進軍には適さないと聞いている。

 もぬけの殻の街路を塞ぐように立ち、エティエンヌが作戦通りに力を解放した。


「はぁぁ、あぁっ……!」


 彼の深呼吸と共に、周囲の空気が急激に冷えていく。息を呑んで俺は見守った。

 かざされた掌から、一閃の白い光が放たれ、広い街路の中央で弾けた。

 見る間に、高い氷壁が築かれる。

 いまや、大人の丈の倍ほどもある厚い白壁が、街路を完全に塞いだ。東門の部隊は、市街地へ戻ってくることができなくなった。あとは稼いだ時間で、中央庁舎の敵本拠を陥落させるだけだ。

 言うまでもなく、レクラタントでの「足止め」から思いついた作戦だ。


(できれば両軍、ここでにらみ合ったままでいてほしいが)


 数日前、そう思った瞬間にひらめいたのだ。氷で軍船が止められるなら、人間も止められるはずだと。

 両軍の主力をにらみ合わせたまま、別働隊で裏から叩く――最初は単純な思い付きだったが、リヴィエルトンの地形にはぴったり噛み合ってくれた。


「……できた。これが、私のマナの力……」


 エティエンヌが興奮気味の呟きを漏らす。

 氷壁を見つめる青い瞳に、熱が籠っている。初めての「勝ち」を前に、昂っているのだろうか。

 だが経験上、こういう時が一番危ない。目の前の勝利に釣られて、足元をすくわれることは多い。

 それに今は別の問題もある。俺はエティエンヌの肩を強く叩いた。


「まだ勝ちは決まってねえ。さっさとケリつけるぞ」

「……はい」


 浮わつき気味の王子様の手を引き、踵を返す。

 恐れていた通り、エティエンヌの氷壁は物量的に足りていなかった。高さは問題ないが、厚みが予定を大きく下回っている。少食ゆえのマナ不足が原因なのは間違いない。

 いまのところ、事態に気付いているのは俺だけだ。だがこのままなら、氷壁は予定よりも早く崩壊する。ふたりともマナを使い切った今、補強する手立てはない。

 こうなった以上は、一刻も早く中央庁舎を落とし、勝ちを確定させねばならなかった。






 中央庁舎へ着いてみれば、別部隊は既に内部までを制圧していた。わずかな衛兵は既に倒され、正面玄関の豪奢な木彫り扉が開け放たれている。

 中へ入り言葉を失った。


「これは……」


 エティエンヌがうめく。

 正面玄関すぐの大ホールには、民間人がぎっしりと身を寄せ合っていた。着のみ着のままの女子供や老人が、侵入者を見つめて震えていた。

 ここまで攻め込まれはしないと踏んで、避難所にしていたか。それとも民間人を盾にするつもりだったか。いずれにせよ、中央庁舎は敵本拠ではなかった。


「階上、無人です。室内は整頓されており、直前まで人がいた形跡はございません」


 敵上層部は、開戦前あるいは開戦直後に、いずこかへ逃れていたようだ。だがどこへ。

 唇を噛む俺を、いくつもの怯えた視線が射てくる。幼子を抱いて震える母が、力なくへたり込む老爺が、冷え切った無気力な目をずらり並べていた。

 消えた上層部。居並ぶ民間人。

 完全なる手詰まりだった。敵中枢の行方に手掛かりはない。捜索するにも、市内全域に散開できる兵力はない。裏路地の土地勘もない。

 目の前の人々なら、司令部に使えそうな場所の心当たりがあるかもしれない――と考えかけた時、誰かが怯えた声をあげた。


「……殺される」


 声はまたたく間にホール中に広がった。

 殺さないでくれと叫ぶ老人。

 この子だけはと赤子を抱く母親。

 混乱が伝播し場を満たす。


「焼かれる」

「火あぶりにされる」

「炎竜王に燃やされる」


 口々にあがる言葉。恐怖の源はレクラタントの伝説なのか、それとも――考えかけた俺の横で、エティエンヌが一歩前に進み出た。

 まずい、と直感的に思った。

 霊山での出会いが脳裏をよぎる。あんたに人は殺せないだろう――そう煽れば、この王子様はたちまち平静を失った。殺される、と騒ぐ民が、胸中の何かに火をつけてしまったかもしれない。

 背を冷汗が伝う。どちらを先に宥めればいい。

 かけるべき言葉を探す俺の前で、エティエンヌはさらに数歩を踏み出した。


「……大丈夫です」


 耳を疑った。

 だがエティエンヌの声には澱みもなく、言葉は明瞭だった。

 思わず後ろ姿を見つめた。背筋はしゃんと伸び、震えもなく堂々と正面を向いている。背後で一本にまとめた金髪が、輝いているようにさえ思える。

 怯え騒ぐ民間人を前に、エティエンヌは慈母の如く、両手を大きく開いた。


「私は……決して、あなたがたを傷つけません。どうか、ご安心ください」


 黄金の輝きが増す。

 そこではじめて俺は、エティエンヌが本当に輝いていることに気付いた。長身が、清らかな金色の光にきらめいている。

 窓から差し込む陽の光が、ちょうど当たる位置にエティエンヌは立っていた。一筋の陽光が、聖者の降臨めいた雰囲気を醸し出している。


「このエティエンヌ・ド・ヴァロワ、正統の王位継承者として、皆さんの生命と安全を保証します」


 周囲の気温が急速に下がった。光が強くなった。


「大丈夫です。何も心配ありません――」


 エティエンヌの周囲に、輝く粒が舞っていた。微細な氷の欠片だった。粉雪のような氷が、黄金の光に照らされ、神々しい後光となって丈高い王子を取り巻いていた。普段は虚弱にも見えた高い背丈が、今は、天上人じみた雰囲気を作り出している。

 氷雪白鳥由来の氷マナは、氷壁を作る時にほぼ使い切ったはずだ。出涸らしになった身の内から、最後の滴が無意識に絞り出されているのか。

 黄金の霧氷を前に、民の恐怖が薄れていくのを感じる。まばゆい光に溶かされるように。


「……きれい」


 幼子がひとり進み出て、光の粒に手を伸ばした。エティエンヌは屈み込み、幼子の手を両手で握った。

 後ろから表情は見えない。だがきっと、慈愛に満ちた顔だろうとは想像できた。


「綺麗、かい。それはよかった」


 エティエンヌは両手を解き、幼子の肩を抱いた。


「もし知っていたら、教えてくれないか。ここにいた偉い人たちが、どこへ行ったか」


 しばしの沈黙の後、後方の大人たちから声があがった。


「西へ向けて、馬車が何台か走っていきました」

「大街道をしばらく西に行くと、商工会議所があります。そちらに人が集まるのを見ました」


 エティエンヌが背後を振り向き、大きく頷いた。満ち足りた笑みだった。

 兵士たちが何人か、外へ向けて走っていく。

 俺たちも後に続こうとした。が、大ホールを出たところで、不意に王子の長身が傾いだ。

 あわてて支えれば、根元を伐った木が倒れるように、細身の体が腕の中へ崩れ落ちてきた。マナを使いすぎて、自分本来の生命力に影響が出てしまったのだろう。俺自身も、慣れないうちは何度か経験した事態だ。


「おい、大丈夫かエティエンヌ」

「アメール殿……彼ら、は」


 声をかけてやれば、エティエンヌは疲れ切った笑みを返してくれた。


「大丈夫だ、何も心配ないと……信じて、くれたでしょうか」


 胸を衝かれた。

 開戦前、確かに俺は言った。


(大丈夫だ、何も心配ねえって、信じさせてやるのがあんたの仕事だ)


 この王子様は、あの言葉を自分なりに受け止めてくれたのか。

 ろくに理解などされないだろうと、諦め半分に伝えた言葉を、咀嚼して我が物としてくれたのか。

 腕の中のエティエンヌから、ふっと力が抜けた。頭ががくりと項垂れ、軽く開かれた唇には力が籠っていない。気を失ったようだ。

 金属鎧を着けた重い身体を抱えながら、俺は石の床にへたり込んで、一息をついた。






 王家軍は、市街地西側の残存守備隊を捜索・追撃していった。一方で東門方面の本隊も、背後を断たれ混乱する敵部隊を徐々に圧倒していった。数で劣らぬ敵に、氷が溶けるまでの時間を稼がれれば厄介なことになっていたはずだが、氷壁のおかげで指揮系統は分断できていたようだ。統率を欠いた敵兵は、やがて戦意をも失い、次々に降伏してきたという。

 外で戦いが続く間、俺は民間人保護を部隊長たちに依頼しつつ、エティエンヌの身柄を安全な場所へ退避させた。中央庁舎の応接室に、ちょうどいい長椅子があった。金属鎧を脱がせ、クッションを枕にして横たえてやると、王子様は小憎らしいほど安らいだ表情で、すやすやと寝息を立てはじめた。

 俺も床に座り一息をついた。マナを使い切った料理人が、戦場で役に立てる局面は当面なさそうだった。

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